第36話 辦道話その二十五 「悟り」とは普通になること

 「もし、凡流ぼんるのおもひのごとく、修証を両段にあらせば、おのおのあひ覚知すべきなり。もし覚知にまじはるは証則にあらず、証則には迷情およばざるがゆゑに。」

 もし仏教を正しく学んでいない凡人たちのように、修行と悟りというものを2つに分けて修行してその結果悟るのだということであれば、修行と悟りは「今修行している」「今悟った」というように修行と悟りという2つのものを互いに覚知するはずである。しかしもし覚知、頭の中で意識するようであれば、それは悟りつまり真実・真理ではない。真実・真理というのは頭の中であれやこれやとかうろうろしていることでは到底行きつくことのないものだからである。

 坐禅すること=悟り。悟りという言葉は妙な神秘性というか権威というかそういうもので汚されてしまっているのであまり使いたくないけど、要するに坐禅した瞬間この自分もそして取り巻く宇宙全体も真実・真理の状態になるということだ。

 修行に修行を重ねてようやく真実・真理の状態になる、悟るなどということではない。

 修証一等しゅしょういっとう。修行と悟りは別ではないということだ。つまり坐禅することが悟り。坐禅した瞬間に真実・真理の状態になる。坐禅することで真実・真理の状態を経験する。それだけのことだ。

 悟りとは神秘的なものではない。人間の本来の真実・真理の状態に戻るだけのこと。普通の状態になるだけのことだ。

 そして普通の状態であれば人間は真実・真理に従った行動しかできない。今の世の中に戦乱、混乱が絶えないのは、今の人類が普通の状態にない、異常だからだ。異常な人間は自分は「正常」だと思っている。身心が普通な状態、真実・真理の状態にない人間の考えは異常にしかならない。

 考えることを一旦辞めよう。坐禅して本来の状態、真実・真理の状態に戻ろう。

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