嗜好のススメ

地引有人

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   第一章



 若葉の薫りを含んだ風が生徒会室に吹きこむ。

 窓辺の白いカーテンは陽光に照らされ、木目調の床には光の波が揺れている。睡魔に襲われそうな暖かな空間のなかで、課せられた仕事をこなす。

 机上には黒い漆で塗られた氏名標が立っている。〝生徒会長 後上衛〟と、おれの名前が刻字され、日差しをうけて燦然と輝いていた。

「これで予算関連の書類は終わりか?」

 長時間の事務作業で固まった体をほぐすように伸びをして、おれは都倉に尋ねた。

「うん。次はこっちの書類、お願いね」

 都倉はファイルからA4の用紙を数枚取りだすと、机に置いた。

 都倉楓――生徒会の副会長。身長は女子生徒のなかでは比較的高い方だ。梳けばさらさらと流れるに違いない栗色の髪は白の髪留めでとめてポニーテールにしている。

「今月の申請数は五十件か。……やはり春先は多いな」

「先月は約百件だったから、作業量でみるとこの前よりかは楽になると思うけど」都倉は背後に立ち、肩越しから同じ書類を眺めていた。

 おれの通う崎野森学園では独特な制度が導入されている。

 主なものとして、学園が正式に認めた部には毎年、百万円支給される。お金を管理するのは部に所属する生徒自身であり、顧問の先生ではない。

 部費は部活動に関連したもの以外には使われてはならない、とされているが、額の大きさもあって、部員同士の金銭のやり取り、部費の私的利用がよく摘発される。

 これらの問題を内々に処理することが崎野森学園生徒会の仕事の一つで、部の活動を承認することも生徒会は任されている。

 現在、今月分の部の承認審査の準備に取り掛かっていた。

「この仕事、都倉に任せることはできないのか?」

「後上会長」都倉は目を閉じて暗唱した。

「生徒会役員規約によると承認に関する判断は会長の一存で決めなきゃダメ。たとえ部の申請数が多い、仕事が終わらない、とだだをこねては困ります」都倉の飴色の瞳が鋭く睨みをきかせた。

 巨額な部費を目当てに多くの申請が生徒会へ寄せられてくる。

 申請に対してひとつひとつ生徒会が面談および体験学習をする必要があるため、生徒会には大きな負担が強いられていた。

「それなら規約を修正しよう」おれはいった。

「これからは書面だけで合否を判断できるようにしようじゃないか」

「承認の判断が安易なものになりそうだけど……わかったよ。今後の議題にリストアップしとくから」

 次はこれ、と都倉は一枚の紙をだした。紙には箇条書きで部活動名が記され、都倉の手書きによる補足があった。

「今月、体験することになる部活動のリストか」

「うん。さっそくだけど、本日の予定はもう組んであるから」

 今月の申請数が五十個あるので、今日と明日に分けて申請会を実施する。

 リストを流すようにして読んでいると、とある部活動に目がとまった。

「都倉」

「ん?」

「この嗜好部ってのは何をする部活動なんだ?」

 ちょっと待ってね、と都倉は申請書をまとめたファイルをめくる。

「申請された書類には何も説明書きはしてないね」

 嗜好部との面談は明日行われるようだ。

「いやな予感がする……」胸の動悸が強くなるのを感じた。

「イタズラの類って線が濃厚だと思うけどね」

 それよりも、と都倉は話を切り出した。

「最近、急増している偽造申請の件だけど――」

 一ヶ月前から嘘の申請が生徒会に多数報告されている。

 創部の申請に必要なものは部員のサインと本人の同意のみ。その二点をクリアしてから、生徒会の審査が通れば創部となる。

 審査する日に部員には立ち会ってもらい、学生証を見て本人確認をする。

 創部が決定した部を後で調べてみると、金で雇われた他校の生徒が部活動に所属していない生徒になりすましていることが分かった。

 教職員にこの問題を報告したが、事を公にしたくないらしく、ただのイタズラとしてとりあってくれなかった。

 だったら、俺たちが勝手にやればいいじゃない。と、反骨精神に則り、生徒会独自で対策することにした。

 新学期に撮影するクラスの集合写真を頼りに、名前と顔が一致するような名簿の作成に取りかかった。

「例の名簿の更新は九割終わりました。あとは、不登校の生徒を残すのみです」

「了解だ。……いつもすまないな」

「いいえ。任せてください」

 その名簿作成にあたっているのが書記の加鳥梨々菜。名簿を作成するアイデアを出したのも彼女だ。

 肌の色は白く、髪は短めで、学年はおれと同じ二年。特徴は特にない。

 日頃顔を合わせている身としては加鳥も都倉に引けをとらないほどの美人だ。ただ、社交性は低く地味な印象を与えている。

「対策は万全。あとは犯人だが――」

 実行犯からの事情聴取によると協力者がいるらしい。

 創部を計画しているものにSNSを通じて接触してくるようで、頼めば偽の学生証と他校の生徒を手配してくれるそうだ。

 金目当ての犯行だと目星をつけていたが、教唆犯からの金の要求はない。

「犯人は本当にイタズラしているだけなのかもしれないな」

「だとしても許せないけどね」都倉はいった。



 部活動の申請が行われる申請室はクラブ棟六階にある。

 生徒会室は高等部の校舎にあるので、都倉と歩いて申請室に向かった。

 本学園の歴史はとても浅く、道中には建設されたばかりの新校舎が並んでいる。

「……嗜好部のことがそんなに気になってるの? 変わった名前の部なんてこれまでに一つや二つあったよね」

「大抵、部の申請に来る連中は金目当てばかりで、部の名前も当たり障りのないものにするはずだが……」

「考えすぎだよ」都倉はふっと息をはいた。

「もしかしたら嫌がらせなのかも。この学園ってほかの学校と違って生徒会が生徒に干渉することが多いから。よく思ってない生徒も少なからずいるし」

 崎野森学園は生徒の自主性を養うことを目的として、学園運営を生徒会に委ねている。

 学園予算、教員人事、広報活動、挙げればきりがないが、実質的な権利は生徒会が有している。

 良い意味でも悪い意味でも生徒からの注目は高かった。

「嗜好部の審査は明日の予定だから今はとやかく言う必要はないか」

「その通り。今日の審査に集中してください」

 すでに申請室の前には数人の生徒が並んでいる。あまり見かけることのない運動用具やユニフォームを身につけていた。

「これより、部の承認審査を始めます」都倉は呼びかけた。

「審査員は生徒会長の後上衛と副会長の都倉楓が務めます。こちらの準備が整いましたら順番に呼びますので、待合室でお待ちください」

 生徒たちをかき分けて、申請室に入り審査の準備をする。……といっても、生徒会の役目は申請する部を体験して学園にふさわしいかどうかを判断するだけなので、すぐに審査を始めることができた。



 二時間後、本日分の審査はすべて終わった。

 結果はすべて不認可。

 おれたちは生徒会室に一旦戻り、今日の審査を振りかえった。

「今日は全部ダメだったね」

「わざわざ限られた予算を使ってまで支援するまでもないものばかりだった。部ではなくて、同好会を作りたいだけなら大いに歓迎だけどな」

「私はそろそろ報告書をまとめるから。会長は先に帰っていいよ」

「それじゃ、お言葉に甘えて失礼」

 事務作業全般は都倉の仕事なので、おれは素直に帰ることにした。

 昇降口で外履きに履き替えている途中で携帯電話を申請室に忘れていることに気づく。駆け足で取りに戻った。

 生徒が下校する夕暮れ時。

 本来ならば、校舎の廊下や教室は暗闇に包まれるはずだが、申請室から照明の灯りが漏れていた。

 単なる照明の消し忘れかと思ったが、部の承認審査以外で今日この部屋を使った者はいない。ドアを開けてなかを覗いてみる。誰もいない。

 置き忘れた携帯電話を回収し、一安心する。

「よくきたね」

 声のするほうを振りかえった。

 口の端をかすかに吊り上げて笑う女がいた。ドアに寄りかかり、こちらを見つめている。

 不意に声をかけられて面食らう。

「こんな時間にここで何をしている」おれはいった。

「怒らないでよ。明日の準備をしてただけなんだから」

 笑みを浮かべる女の身長は都倉ほど高くない。女子生徒の平均ほどだ。

 透き通るような肌はとても健康的だ。髪は短めで、クセっ毛らしく、毛先はピンとはねていた。

 鷹を思わせるような鋭いまなざしにはどこか見覚えがあった。

「君は確か……二組の天見だろう」

 崎野森学園に通う生徒の名前と顔はだいたいおぼえている。

 天見は二年二組の出席番号一番。成績は突飛しているわけでもなく、可もなく不可もない。学校では目立った存在ではなく、いたって普通の女子生徒だと記憶している。

「おや、私のことを知っているとは」天見は照れくさそうにして、髪を手で梳いた。それでもクセの強い髪はすぐに元通りになった。

「人の顔を覚えることも会長としての務めだと思っている。……それにしてもどうして君がここに?」

「申請室にいるってことは明日の準備以外ないと思うけど」

「ってことは、天見も申請者の一人か。一体どんな部を申請するんだ?」

「嗜好部だよ」

「なんだって?」思わず聞き返した。

「私が嗜好部部長の天見千晴だよ。明日はよろしくね、生徒会長さん」

「君が嗜好部の部長?」

「せっかくだから先行体験といかない?」

 天見から机に置いてあった小箱を手渡された。プレゼントに使われるような小箱で赤いリボンが飾りつけされている。

 この箱はなんだ、と含みを入れた視線を向けると、「開けてみて」と天見はいった。

 促されるまま箱を開けると、なかには女性用のパンツが入っていた。レースの刺繍が上品さを表している。

「なぜ下着が?」

「そのパンツは明日の審査に使うアイテムだよ」

「使う? どうやって」

「嗅ぐんだよ、後上君」

「なんだと!」

「いいリアクションだね」天見は口角をくいっとあげた。

「異性の下着を嗅ぐことが嗜好部とどう関係あるんだ?」

「それは後で説明するから。さあどうぞ、思う存分、ひと思いに嗅いじゃってください」

「ちょっと待て」おれは天見を制止した。

「この行為は決してやましいことはなく、審査の項目の一つだと踏まえてやればいいのだな」

「うん……ああ、それと」

「今度はなんだ」

「ちゃんと味わってね。私が普段履いてるやつだから」

「なっ!」握りしめていた下着を落としそうになった。

「それを早く言わないか!」

「どうして?」天見は首を横にかしげた。

「もっと自分の体を大事に……いや違うな。貞操を危険に曝すような行為は控えた方がいい」

 天見は目を点にして動かなかった。

 しばらくして、感情の堰が決壊したかのように笑った。

「後上君って噂通りの人だね。真面目っていうか、お堅いっていうか、……心配してくれてありがと」

 天見はいつでもどうぞ、といった面持ちで見つめる。

 どうしてこうなった――。忘れ物をとりに来たはずが、なぜ女物の下着を握りしめているのか。

 疑問はあったものの、天見の指示に従った。

 ゆっくりとパンツを握りしめた手を鼻腔へと近づける。

 鼻を覆い隠すようにパンツが優しく包み込む。

「吸って!」天見はいった。

 おれは息を吸いこんだ。ローズを思わせるようなフローラルな香りがした。

 それだけではない。断定はできないが、汗といった体から分泌されたであろう成分も混ざっているような気がする。

 例えるならフェロモンのそれに近かった。

 胸の奥が針でつつかれたような心地に陥る。

「いい顔してるよ後上君」

「おれはいったい何を……?」パンツを握る力はゆるまり手の指をすり抜けるように床に落ちた。

「気分はどう?」天見は嬉しそうだった。

「その様子だとずいぶん堪能したんじゃないかな。なかなかいい嗅ぎっぷりだったよ。ただ――私としてはまだ物足りないな」天見は落ちていたパンツを拾い上げた。

「遠慮してたでしょ後上君。ダメだよそんなことしてちゃ。好きなことに遠慮するする人なんていないでしょ? 今から、お手本をみせるから。……脱いで」

「脱ぐ?」意識が正常にまだ戻っていない。訳も分からず聞き返した。

「後上君の下着だよ! ほら、今すぐ脱いで」

「ちょっと待て! お手本ってなんだ!」

「なにも考えなくていいよ。今は私の言うことを聞いてればいいんだから」

「やめろ! 触るんじゃない」

 強引にネクタイ、ブレザーと上から順に脱がされた。かなり力強い。下着も狙われたが、必死の抵抗もあって防ぐことができた。それでも、上半身は裸、下半身は下着だけになった。

「しょうがない、こっちで我慢するよ」

 天見は不平を鳴らすと、剥ぎとったTシャツを広げて鼻を覆い隠した。

「じゃあいくよ。見ててね」

 天見の瞼が遅遅として閉じられていく。

 ゆっくりと顎を突きだし、大きくのけぞった。血色のよい頬はみるみる赤く染まってゆく。「んん…」と喉の奥を鳴らすような、艶かしい官能的な声をあげた。

 しばらくして、ゆっくりと瞼を開けると、呼吸を整えるように深呼吸をした。頬の紅潮は収まっていないまま、こちらをみつめた。

「後上君に足りないのは欲求だよ、欲求。パンツ嗅ぎたいって思ったことないの?」

「ない」と断然とこたえて、

「だが、先程は何かが満たされるような気がした」

「おお! 少しは才能があるみたいだね」天見は納得いったようすでうんうんと頷いた。

「大抵の生き物っていうのはね、相手を知る器官があるでしょ。目とか耳とか。面白いことに、人間っていう生き物は五感を通してそれを楽しむことができるの。わかる? 何かを知ることにすんごい喜びを感じちゃうってこと」

「相手を知る喜び……」おれは無意識に呟いた。

「そう、後上君はパンツを通じて、私を知ることができたってわけ。そのことに対して本能的に喜びを感じちゃったわけだ」

「だが、相手を知るためだけなら別にパンツである理由はないだろう。たとえば、君の靴下でも制服でもよかったんじゃないのか?」

「その通り。別に相手の薫りが染みついたものがあれば何でもよかったんだ。けどね、パンツというのはいわゆる女性のシンボルみたいなものだから。相手のことをイメージしやすいんだよ。それと、もう一つ」天見は指を突きだして、

「軽く背徳感が味わえちゃうってことかな。ほら、してはいけないことって逆にしたくなっちゃうでしょ?」

「たしかに嗅ぐことには抵抗があった」

 してはならないという自制心が働いたのは確かだった。

「どう? 嗜好部について分かっていただけたかな?」天見の顔色は元に戻っていた。

「少しだけならな。だが、嗜好部の活動内容は依然として納得いかない」

「どこが?」

「パンツを嗅ぐことが部活動? 活動の内容がマニアックすぎる――」

 突然、天見は身をよじらせて笑い出した。

「ちょっと待って後上君。パンツを嗅ぐことはマニアックなことなんかじゃない。誰でもしてしまうような一般的な行為だよ。タイミングが限定的なだけ」

 申請室に静寂が訪れ、申請室を鈍く照らしていた夕日はすでに沈んでいた。天井の蛍光灯の明かりと、外からのナイターの明かりが申請室を照らしている。

 夜気が部屋のなかに蔓延り、肌寒くなってきた。

「……とにかく、審査は明日だ。明日になればすべて分かるさ」

 腕時計をみると、短針は午後七時を指し示していた。

「もう下校の時間だ。……早く帰りなさい」

「ちょっと待って!」天見は急に大きな声をあげた。

「まだ何かあるのか?」

「お願いがあって……後上君にぜひ嗜好部に入部してほしいんだ」

 校外の風が吹き荒れ窓を軋ませた。やがて風が過ぎ去ると、申請室にいる二人の呼吸音が聞こえそうなほど静かになった。

「断る」おれはいった。

「崎野森学園の生徒会長として立場上、嗜好部に入るわけにはいかない。学園の生徒に示しがつかないからな」

「そんなぁ」天見は頭を垂らす。

「もしかして部員がいないのか?」

 うん、と天見。

「何人いないんだ?」

「四人」

 部の創部に必要な人員は五名。つまり、天見以外、誰もいない。

「申請する時点で規定の人数がいない部は認められないな」

「そこを何とか!」

「ダメだ」

「このこと、学校のみんなに言っちゃうよ」

「脅しか?」

「取引だよ」

 天見はまっすぐにおれを見つめた。覚悟を決めた目だ。いくら突き放したところで食い下がるつもりだろう。

「……いいだろう」

 やった、と喜ぶ天見に釘を刺す。

「ただし、一ヶ月だ。今日から一ヶ月以内に部員が五名揃わなければ申請は許可しない」ありがとう、と天見は急におれの手を握った。

「ついでに、後上君に部員になって欲しいんだけど」

 天見は真っ直ぐにおれを見つめる。瞳を潤ませ、捨てられた子犬が新たな主人を求めるように。

「おれを頼るんじゃない。誰かほかの人間をアテにするんだな――」

 天見の目に溜まっていた涙は今にも溢れかえりそうだ。

 手を握られたまま、唇が触れてしまいそうな距離にまで迫っていた。こうしていると、どうにかしなければならない気持ちに嫌でもさせられる。

 しかし――。

「……すまない」おれは頭をさげた。

「だが、嗜好部の部員が集まるよう手伝いはする」

 天見は涙を拭きとり抱きついてきた。首の後ろに手をまわしこみ、離そうとしない。

「今、手伝うって言ったね! いっぱいコキ使ってあげるから!」

「こら! くっつくな! もしかして嘘泣きだったのか?」

「ん? なんのこと?」

「もういい……」

 天見は満足したように離れた。

「それにしても今日は大収穫だったよ。後上君を味方につけることができたし」

 そのとき、一縷の不安がおれの頭をよぎった。

 天見はおれの表情を汲みとったらしく、

「どうしたの? 顔が真っ青だよ?」

「憂慮すべき点があってな」おれは頭を抱えた。

「申請前の部活動の人間と接触することはよくないんだ。このあと都倉になんて説明すればいいか……」

「ちょうどいいじゃん」天見は親指をたてた。

「都倉さんもこの際、味方につければ丸くおさまるんじゃない?」

「……どうするつもりだ?」

「それは明日、話し合おうか。今日はもう解散だよ」

「そうだな、もう暗くなってきたからな」

 太陽も沈みきって、外は暗闇。部活動を終えた生徒も帰っていて、グラウンドには誰もいない。

 天見に別れを告げると、

「帰り道、不審者には気をつけてね」天見は不敵な笑みを浮かべていた。



 帰り道。駅のホームに降りて、家まで歩いて帰る。

 途中、どう都倉に嗜好部のことを伝えるかシミュレートする。如何にしてさりげなく、それとなく伝えることができるのか。

(怒った都倉は怖いからな)

 考え事をしていると、注意力が散漫になる。歩きながら考え事に夢中になっていると、通行人にぶつかりそうになる。

 天見は不審者に気をつけろと言っていたことを思い出す。周りを見渡してみたが、そんな輩は見当たらない。大抵、不審者が襲うのは女子供であって、男子高校生は狙われない。加えて、この地域の治安はいい。警戒するまでもないだろう。

「ドス」

 背中に違和感。けれど、痛みはない。

「後上君、死亡~」天見が刃物を持つフリをして、おれの背中に手を当てていた。

「どうしてここにいるんだ?」

「ちゃんと家に帰れてるか心配になって」

「小学生じゃないんだから」

「考え事しながらだと危ないよ。私が暴漢だったら後上君の命はもうないから」

「……気をつける」

 天見の言うとおり、全く気づかなかった。今後、考え事をしながら、歩くのは控えよう。

「天見の家はこっちなのか?」

「逆方向」

「……何かの用事か?」

「ちょっと確かめたいことがあったからさ」

「なんだ、それは?」

「まだ、教えられないなー。それじゃあね」天見は手を振って去っていった。

「いったい、なんだったんだ……」



 翌日。

 放課後になった今でも都倉に昨日の出来事を伝えることができていない。

 おれの心は雲に覆われたように暗鬱としていた。

 いつも以上に体がそわそわしている。生徒会室の席に座っていても、外の景色が気になって何度も立ち上がってみてみたり、意味もなく都倉をちらちらと様子を窺ってしまう。

 与えられていた仕事は手につかず、机の上に書類の山を築いている。

 不審に思った都倉は「会長」と心配するように声をかけてきた。

「どうしたの? 体調でも悪いの?」

「いや、何ともないよ。心配かけてすまない」

 似たようなやり取りを先程から何度も繰り返している。

 おれは椅子に沈んだ体を起こして、居ずまいをただした。

 体から脂汗が噴きでているのが判った。シャツの下が汗まみれで非常に気持ちが悪い。 

「もしかして、嗜好部のこと考えてる?」

 部の名前を聞いた途端、顔が強ばったのがわかった。

「昨日、何かあったでしょ?」都倉は見逃さなかった。

「今まで黙っててすまないが」

 腹をくくる。胸の動悸は高鳴り、唇は震えていた。

「実はもう、嗜好部の体験は済んでるんだ」

 瞬間、体が宙に浮いた。

 そのまま生徒会室の入り口のドアへ吸い寄せられるように叩きつけられた。

 嵐が部屋を過ぎ去った。……ではなく、都倉によって蹴り飛ばされた。

 彼女は護身術を心得ている。幼少のころから武道を習っていたおかげ並の男には喧嘩で負けることはない。

 もっとも実力はすでに護身の域を超えてはいたが。

「なーに、勝手なことをしてるのかな?」都倉の目は笑っていなかった。

「どういうことか説明できる?」

「もちろんだ! あれは昨日の放課後の出来事だった。申請室に携帯電話を忘れてしまって――」

「もっと端的に話して」

「……はい」

 昨日にあったことをできる限り、短くまとめて話した。

 嗜好部の活動内容の話を少しだけ聞いて、部員集めを手伝うことになったことを話した。ただし、下着を嗅いだことに関することは一切伏せておいた。

「勝手に手伝うと言ったが、審査とは別問題なのはわかってるから」

「話は分かったよ」

 都倉は納得がいかないようすだった。しかし、諦めたようで渋々理解してくれた。

「嗜好部を特別扱いしちゃダメだからね」

「そこはわきまえてるさ」

「どうだか。……会長はあの女の危険性をもっと知るべきだよ」

「確かに変な奴だと思うが、危険ってほどでもないだろ」

「昨日だって天見に襲われそうになってたじゃん」

「そうだけどな――」

 違和感。昨日の帰り道での出来事はおれと天見の二人きりだったはず。

「どうして、そのことを知ってるんだ?」

「それは……」都倉は躊躇った。が、すぐに、

「天見がクラスで言いふらしてたから。それを聞いて……」

「天見め……」

 思ったより口が軽い奴なのかもしれない。

「やっぱり、天見は警戒すべき人物だよ」

「それは都倉に任せるよ」

「……わかったよ」

 おれと都倉は部の審査のため、申請室に向かった。



 審査は滞りなく進み、残すは嗜好部のみとなった。

「天見はどうした?」

 申請室の隣の空き教室は創部申請者たちの待合室になっている。そこに天見の姿はなかった。

「怖じ気ついて帰ったとか」

「それはないと思うけどな」

 申請室で都倉と話していると、

「いやあ、遅れてごめんね。少し準備に時間かかっちゃって」天見は愛嬌たっぷりの笑顔で部屋に入ってきた。

「勝手に席を外さないでください」

 叱る都倉に天見はごめんね、と一言。

「今回の部の体験は都倉にお願いしようかな」おれはいった。

「私が?」

「おれはもう、体験済みだからな」

「別にいいけど……」

 手伝うと言った以上、協力は惜しまない。

 今日の昼休みに天見とは打ち合わせをすませている。嗜好部の魅力を最大限伝えるには、嗜好に関することをまとめたレポートを都倉に読んでもらうことが一番だ。昨日の深夜から今日の朝にかけて作成したレポートをすでに天見に渡してある。

 今、この瞬間が使いどき。

 だが、天見は勝手な行動をとった。

 天見はプレゼント用に使われる箱――昨日、見たものと全く同じ箱を持っていた。箱を開けると、青と白の縞模様のトランクスが入っていた。

「これは――」都倉は危険を感じ取ったように受け身をとった。

「このトランクスを今から都倉さんに嗅いでいただきます。……ちなみに、これ後上君の私物だから」

「おい! ちょっと待て!」おれは意義を申し立てる。

「なにさ」

「都倉には事前に用意したレポートを見せるはずだったろう」

「それなら私のバッグのなかにあるよ」

「どうして、打ち合わせ通りにしないんだ……?」

「だって、あの資料を使っても面白そうじゃなかったから。嗜好部の活動とはあまり関係ないし……なにより、嘘はよくないよ」

「……それなら、事前に言ってくれ」

「状況がまだ飲み込めてないんだけど。……昨日、会長もこの下着を嗅いだってこと?」

「いや、昨日は私の物を嗅いでもらいました」天見はいった。

「……嘘だよね?」都倉の声は震えていた。

 事実だ、とおれは答える。

「それで、どうするの? 審査は続けるの?」

「……そのトランクスをよこして」

 都倉は天見からトランクスを強引に奪いとると、覚悟を決めたように深呼吸をした。

「では――」

 トランクスが都倉の鼻と口を包みこんだ。

 おれは平常心のままその光景を眺めることができた。

 なぜなら、都倉が嗅いでいるトランクスには見覚えがない。おそらく別の誰かが、若しくは誰も履いたことがない新品のトランクスの可能性が高い。

 このことを都倉に伝えるべきか迷った。が、嗜好部の審査の途中なので天見のやり方に口を出すべきではない。

 十秒ほど時間が経った。

 都倉は鼻に押し当てていたトランクスを離した。

 充足に満ちていて、後悔の念にも駆られていて、そんな表情。

 やにわに、都倉は部屋から飛びだした。

「追いかけて!」天見が叫んだ。

 言われるまでもなく、おれは都倉の後を追いかけていた。

 申請室をでて右から階段を下る音がする。すでに彼女を見失っていたので、足音を頼りに全速力で走った。

 階段を降りようとつま先を端にかけたとき、踊り場で都倉は立ち止まっていた。

 都倉はくるりと回り、体の正面をこちらに向けた。

「追いかけてこなくていいよ。気分が悪くなっただけだから」都倉の顔はやつれていた。

 こちらにもう追いかける意思がないことを確認すると、彼女はゆっくりと自分のペースで階段を下りていく。おれはその後ろ姿を眺めるだけだった。

「におうね、これは」背後から天見が声をかけてきた。

「どういうことだ」

「とりあえず、作戦会議をしようかな」



 普段の生徒会室は清閑としている。が、天見は鼻歌を歌いながらホワイトボードに『嗜好部緊急会議』と書きこんでいた。

「天見さんどうぞ」

「ありがとー加鳥さん」

 加鳥は天見にコーヒーを差し出した。どうやら、お互い面識があるようだった。

「二人って知り合いなのか?」おれは尋ねた。

「そりゃクラスが一緒だからね」

「はい。……ところで、嗜好部という部活はこの学園にはなかったと思いますけど……」ホワイトボードに視線を向けている加鳥は尋ねた。

「それはね――」

「言わなくていいぞ!」おれは天見の口を塞いだ。

 昨日と今日のことはできる限り、秘密にしておきたかった。もちろん、嗜好部のことも。

 加鳥、とおれは、

「少しの間、席を外してくれるか? 天見と二人きりで話したいんだ」

「……分かりました」

 加鳥が部屋を出るのを確認してから、おれは手を離した。

「あのことは他言無用だ。分かったな」

「いつかばれると思うけど」

 おれはソファに腰を据えて、熱々のコーヒーを口に含ませた。

「しかし、都倉のあんな顔を見たのは初めてだ。男の下着を嗅がされたんだぞ。きっと辛い思いをしたに違いない」

「本当にそう見えたの?」

 天見は飛びこむようにしてソファに座り、机に置いてある木箱からスティックシュガーを五本とりだすと、すべてをコーヒーに注ぎこんだ。

 それを一気に口へ流しこんで、

「少なくとも私には辛そうに見えなかったけど。むしろ嬉しそうだったかな」

「そんなばかな」

 天見は空になったコーヒーカップをためつすがめつ眺めながら、

「だってそうでしょ? 好きでもないひとの下着なんて絶対に嗅がないし、触りたくもないでしょ」

「その口ぶりだと都倉はおれの下着を嗅ぐことは嫌じゃなかったと聞こえるが」

「……後上君って実は鈍感だったりする?」

「貶してるのか?」

「褒めてるんだよ。……そんなわけで、私とデートしようよ後上君」天見は両手を合掌し、屈託のない笑みを浮かべた。

「なぜそうなる!」おれは反射的に机をたたきつけた。

「これから都倉にどう謝るのが効果的かを検討するんじゃないのか?」

「そんなことはしないよ。後上君が今すべきことは私とのデートだよ」

「まったくもって意味がわからない――」

「そうカッカしないでよ。少しぐらい私に付き合ってくれたら、都倉さんが逃げだした理由を教えてあげるから」

「でたらめを言うんじゃない」

「本当だよ。それにさ――」天見は祈りの姿勢をつくり、黒い瞳を潤ませた。

「私、後上君のことをもっと知りたいの」

「そうやって、人を丸めこもうとするな。……デートではなくてただ遊ぶだけだろう?」

「男と女が二人同士で遊びにいったらデートでしょ!」

「それはそうかもしれないが……」

「じゃ、決まりね」

「まだ行くとは言ってないだろう!」

「……そんなに私と一緒にいるのが嫌かな?」天見はシュンとする。演技なのかどうか分からなかった。

「そう素直に落ちこまれても困るぞ。……わかった、その提案に乗ろう」

「いやー、後上君は理解が早くてうれしいよ」

「やっぱり、おれのことを貶してるだろ?」

「そんなことないよ! ……それで、日にちはいつにする?」

 デートの日時は明日の午後一時。

 想定より早く会議はおひらきとなった。

 帰り際。

 都倉が逃げだした理由を天見に聞いてみた。

「明日、教えてあげるって言ったでしょ?」

 天見は微笑み返すだけだった。



 休日の駅の構内には、学生や社会人、あらゆる年代の人がゆきかう。

 駅から十分ほど歩くと高層マンションの一角に公園がある。ここが天見との待ち合わせの場所だ。

 砂場や水遊びのできる噴水、すべり台には小学生や幼稚園児たちが声をあげて遊んでいた。ベンチには三十、四十代の女性たちが座り、まぶしそうに子供らを見つめている。

 休日の公園はやすらぎに包まれていた。

 腕時計をみると時計の針は午後十二時三十分を指し示していた。待ち合わせ時刻まで三十分もあった。

 手持ち無沙汰にしていると、舗装されたアスファルトを駆ける足音が近づいてきた。

「驚いた! てっきり私が一番乗りだと思ってたよ」

 天見は白のシフォンスカートに、淡い水色のブラウスをきていた。制服を着ているイメージしかなかったので、彼女の私服は新鮮に映った。

「人を待たせるのは嫌いだからな」

「ふうん、やっぱり真面目だね」

 天見は一つ大きく深呼吸すると、おれの腕に飛びかかるようにして抱きついた。

「さあ、いこうか後上君」

「うおうっ!」おれは急いで天見から離れた。

「なぜ急に掴みかかる!」

「なに言ってんの! ただのスキンシップじゃない。男女が歩くときは腕を組んであるくものでしょ」

「そうなのか? ……いいや、だめだ!」

 右腕にはまだ天見の胸の柔らかさが残っていた。その感触を振り払うように頭を左右に振った。

「しょうがないな。抱きつくのはやめにするよ」

「初めからそうしてくれ。……で、これからどこかに行く予定はあるのか?」

「今日は静かなところでお話ししたいかな。近くにいい喫茶店を知ってるんだ」

 天見は手を差しだした。

「手ぐらいなら繋げるでしょ?」

「別におれは女性への免疫がないとか、そういうのではないからな。さっきの出来事の発端は天見が急に――」

「はいはい。駆け足でいきますよー」

 天見は聞く耳を持たず、おれの手をとって走りだした。



 公園からほどなくして、けやきの看板が特徴的な喫茶店に入った。

 店の座席数は十五人程度。こぢんまりとした印象。

 シックな家財、切子硝子に覆われた照明、隅々まで清掃されていたので居心地がよい。外からの視界を遮るように、窓には格子がはめられている。

 店内にいる人の数はまばらだ。カウンター席には常連と思われる中年の男性や、テーブル席には一組の女性客がいるだけだ。

 店員に注文をすませると、おれと天見はカウンター席にある蓄音機から流れる音楽にしばらく耳を澄ませていた。

「まさか走ったまま店に入るとは……」

「あはは、ごめんね」天見は乱れる息を落ち着かせた。

「昨日、あなたのことが知りたいって言っちゃったけど、あれは嘘じゃないよ。後上君とじっくり話してみたかったんだ」

「おれも天見に聞きたいことがある」

「都倉さんの件については後で話すから先に私の話をしてもいいかな?」

「……わかったよ」

 言わんとしていることを先読みされると、どうにも自分のペースで話がしづらい。

「では、さっそく後上君の性癖について聞かせてもらおうかな」

「その質問には答えない!」

「なんでさ」

「なんでって……そう簡単に話すことでもないし、第一考えたこともない」

「でも、異性と付き合う前に夜の相性を聞いておく方がいいって言うよね?」

「おれと天見は付き合う予定はないから必要ない」

「あー、そうやってフラグ折っちゃうのはよくないと思うな……じゃあさ、後上君はSかMどっちかな?」

「その手の質問はよく聞くな。おれは――」

 天見の何気ない質問に答えることを躊躇った。一見、どちらを答えても間違いがないように見えるが、おれの人となりを印象づける大切な場面だ。

 ミスは許されない。

「おれは……Sかな」熟考の末、答えを導き出した。

「私はMだから相性ぴったしだね!」

「……もし、おれがMと答えていたら?」

「Sだよって言うね。私、両刀使いだし」

「もう何でもありだな……」

 天見のいい加減さに呆れかえっていると、注文が届く。ダージリンティーとディンブラティーの暖かな薫りが漂う。

 その後もなぜか会話は弾んだ。学校のことや私生活について。何気ない世間話。夜の相性は知らないが、天見とは気が合うようだ。

 三十分は経っただろうか。

 時計を確認していると、

「都倉さんってさ、かわいいよね。もしかして付き合ってるの?」天見は会話の流れを無視して唐突にいった。

「やっと本題に入れるのか」

「いや、この質問はただ単に私が気になっただけだから」

「どうだかな。……都倉とは恋愛関係には至っていない。だが、生徒会の活動においてはよいパートナーだと思っている」

「つまり、友達以上恋人未満ってことか」天見は指を顎にあて、

「いや、仕事だけのパートナーってことはもしかして、友達未満かもしれないね」

「そんなことはない。確かに、生徒会が発足したのは四月からだから、一ヶ月の付き合いしかない。だとしても、コミュニケーションはしっかりとれているさ」

「本当に?」

「なにを疑っている」

「どうせ話の内容は生徒会の業務ばかりで、趣味とか遊びの話はしないんでしょ?」

「むっ」図星だった。

 確かに都倉との会話は生徒会に纏わることばかりだ。趣味といった浮ついた話はしたことがない。

 それでも、都倉とはよくやっているし、彼女もそう思っているに違いない。お互いに距離感をうまく掴めていないだけだ。

「……額に皺がよってる。後上君の反応は見ていてわかりやすいよ」都倉はおれの額に手を伸ばす。が、おれは振り払った。

「出会って一ヶ月なんてこんなもんだろう。仕事に支障がでていなければ問題はない。それで、なにが言いたいんだ?」

「そうだね、そろそろ本題に入ろうか」天見は顔を引き締めて、

「後上君はストーカーの被害に遭ったことはある?」

「ない」

「……とりあえず、この写真を見てほしいんだけど」

 天見はバックから何枚か写真をとりだし、机に並べた。写真には登下校時によく通る道の風景が写っていた。天気も明るく、学生が多く写っていた。どうやら登校するの時間帯に撮影したもののようだ。

 眺めていると、複数枚ある写真に共通点をみつけた。すべての写真において、おれが写りこんでいた。

「なんでこんなものが」

「今日の朝、隠し撮りされてたの知らなかった?」

「いったい誰がこんなことを……」

「私がやりました」

「は?」

「これは私が撮ってきた写真だよ」

「どうしておれの写真を?」

「写真自体には意味がないよ。重要なのは後上君がストーキングされても全く気づかなかったことだから」

「ひっかかる言い方だな。もっと、分かるように言ってくれ」

「じゃあ、単刀直入に言うね。後上君、あなたにはストーカーがいます」

「まさか! いるのならとっくに気づいているさ」

「今日の朝も気づかなかったよね? 昨日の帰り道だって」

「……おれを試していたのか?」

「そういうこと」

「……いったい誰がストーカーなのか知ってるのか?」おれは天見に尋ねた。

 うん、と天見。

「誰なんだ」と聞く前に天見は答えた。

「都倉さんだよ」

 三秒ほど見つめあった。

 お互い口を開こうとはしなかった。先にしびれを切らしたのは、おれのほうだった。

 天見の妄言に笑いを禁じえない。

「悪い冗談はよしてくれよ。彼女は副会長として仕事を立派にこなしているし、品行もいいんだぞ」

「もっともらしい理由に聞こえるけど。全然、的を得てはいないよね」天見は一気呵成に話を続けた。

「都倉さんが常識のある人間だってことは私だってわかってるよ。けどね、そんなことはストーキングをしない理由にはなりえないんだよ」

「たとえそうだとしても、都倉を侮辱するような言い方はよしてくれ」おれはカッとなり、言葉が荒々しくなった。

「そうだね」天見は呟いた。

「やっぱり証拠がなきゃ納得してくれないよね。……今から私についてきてくれる?」

「どこへ行くつもりなんだ?」

「それは着いてからのお楽しみってことで」



 店の外は思いのほか暖かい。上着を一枚、脱ぎだしたい気分だった。

 大通りの道にでてタクシーを拾う。五分ほど走ると、淡黄色のサイディングが塗られた建物の前に降りた。

〝サービスタイム〟と鮮やかに描かれた置き看板が目に留まった。

 天見がそそくさと先に建物のなかに入り、店員とチェックインの手続きをすませた。

 どうやら宿泊施設らしい。

 そのまま脇目もみず奥へと進み一室に入った。おれも後に続いた。

 照明はピンク色で円形ベッドのシーツを妖しく照らしている。淫猥な雰囲気を醸しだしており、一般的なホテルの内装とはかけ離れていた。

 おれが部屋の内装に気をとられているうちに、天見が部屋の鍵をかけた。

「なあ、天見」おれはいった。

「聞きたいことが山ほどあるんだけどいいか?」

「どうぞ」天見はバックをベッドに置き、彼女自身も腰を下ろした。

「どうして部屋の照明がピンク色だったりするんだ?」

「それは当然、お客さんをやらしい気分にさせるために決まってるでしょ」

「ホテルでいやらしい気分? それってラブ――」

「いいじゃんそんなこと。で、ほかに聞きたいことは?」

「……このホテルと都倉にはどんな関係がある?」

「後でわかるよ。とりあえず、私と後上君が二人きりになれる場所に来ただけ」

 天見は手首につけている腕時計を見てから、

「後上君、都倉さんが今どこにいるか知っている?」

「いや、知らないが……」

「都倉さん、公園で会ったときからずっと私たちの後をつけてきてるんだよね」

「たちの悪い冗談を言ってくれるな。そんな気配は全くしなかったぞ」

「そんな気配って……私の尾行にも気づかなかったくせに」

「うっ……」むしろ天見の察知する能力に驚きだ。

「これからどうするんだ?」

「ここで都倉さんが来るのを待つ」

「待つって言ったっていつまで……おい、どこへ行く!」

「ちょっとシャワー浴びてくるから」

 おれは再三、天見を呼びとめた。が、彼女は一顧とせずバスルームへ向かった。

 しかたなく、ベッドに腰をかけて一息つく。

 模造品の煉瓦でできた暖炉のなかで灯が燈っている。もちろん、ただの電気照明なので、なんとも安物らしい。

 部屋の様相を眺めていると、水が床をはじく音がバスルームから聞こえてきた。

「本当にシャワーしてるよ……」

 都倉がストーカーで、その相手がおれだなんて到底理解が及ばなかった。

 これまで、生徒会長として一ヶ月間彼女の働きぶりをみてきた。おかしな点は見当たらなかった。暴力的な部分はあるが、ひとを尾行するなんて信じられない。

 もし、本当にストーカーをしているのなら、都倉はいったい何のために――。

 轟音が部屋に響く。

 空気が振動するような音は部屋の入り口から聞こえきた。

 ドアの軋む音がだんだんと小さくなり、辺りは静まり返った。

 体から血の気が引いていくのを感じた。

 再度、ドアが強く叩かれた。もう、視線はドアから離せなくなっていた。

 幾度となく、繰り返される打撃。耐えきれなくなったドアは吹き飛び、蝶番がおれの頬を横切った。

「会長、こんなところで何してるのかな?」塵芥が舞うなか、都倉は姿を現した。

「都倉……」

 どうしてここに? 声が出なかった。

「やあ! いらっしゃい」

 まるで都倉がくることを待ちかねていたかのように、天見はバスルームから出てきた。胸元にフリルのついたバスローブを着ている。

 ピンク色の照明に照らされ、いっそう妖艶さが増してみえた。

「天見千晴……会長をこんなところに連れ込むなんていい度胸してるね」

「そう? いまどき、高校生がホテルに泊まってもおかしくはないでしょ?」

「おかしいに決まってる。……どうして二人がここにいるのか説明してもらえる?」

「構わないよ。でも、その前に都倉さんと後上君に見てほしいものがあるんだ」

 天見の指示で、おれはベッドに置かれていたバッグを渡した。

 書類の表紙に視線を向ける。

「『後上衛の身辺調査報告書』……なんだこれは」

 ページをめくり、中身を確認する。

 崎野森学園の制服を着た女子生徒のスナップ写真が何枚も並べられ、写真には長々とした説明文が添えられた。

 写真の女子生徒には見覚えがあった。

 男性に引けをとらない高身長にポニーテール。

 都倉楓だ。

「午前七時、後上宅前にて待機したが変化なし。午前七時十分、崎野森学園の女子生徒とおぼしき人物が接近する。そのまま女子生徒は後上宅の死角にて待機。午前七時二十分、後上衛が登校を開始する。女子生徒もそれに合わせて尾行を開始する。後の調査でこの女子生徒を都倉楓だと判明した」説明文のひとつを天見は朗々と読みあげた。

「やめて」都倉の声はかすれていた。

 天見は何枚かページをめくり、話を続けた。

「同日、追跡対象に都倉楓を追加する。午後六時、後上衛は下校を開始する。学校の昇降口に潜んでいた都倉楓は幅十メートルの距離を保ちつつ、後上衛を尾行する。都倉楓はときおり、メモ帳に熱心になにかを書きこんでいる。推測だが、後上衛の行動を記録している模様――」

「もうやめて!」都倉はかな切り声をあげた。

 顔色はすっかり青ざめて、風邪をひいた病人のように体をさすった。ノースリーブのトップスから露わになっている肩はひどく震えていた。

「驚いた?」

 天見の声は大きなものではなかったが、よく響いた。

 持っている報告書を手で律動的に叩いて、

「この報告書は直近一ヶ月のものなんだけどさ、都倉さんが何回も後上君を尾行しているのはわかってるんだよ。

 いやあ、これには驚いた。後上君の身辺を調べていたら、都倉さんが引っかかってくれるとは。こういうのを芋づる式っていうんだっけ。…まあ、いいや。とにかく、隙をみつけて後上君を襲おうとしたわけだ」天見はおいうちをかける。

「そんなことは考えてない! 私は、私はただ……」

「全部冗談なんだよな? 天見の手の込んだいたずらで、この写真だって合成写真の類なんだろ?」

「……その写真は本物だよ」天見は顔を伏せた。

 天井に埋め込まれた空調機からの稼働音が聞こえるほど部屋は静かだ。うすら寒い風が肌に触れる。

 異様な桃色の照明もだんだんと目がなじんできた。

 都倉はベッドに腰をおろした。

「四月の初旬だったかな」都倉は俯いていた顔をゆっくりとあげた。

「生徒会が発足したときからだったと思う。私が、その、会長へのストーキングを始めたのは。……それから一ヶ月、ずっと続けていました。手を出そうとかそういうのは考えてません」

「じゃあ、どうして尾行したのかな」天見は前のめりになって聞いた。

「それは――話しかけるきっかけが欲しかったから」

「きっかけだって?」おれは都倉に尋ねる。

「生徒会が発足しても、いつも仕事の話ばかりで……。それが嫌だった。私はただ、生徒会のことだけじゃない、もっといろんなことを話したかった。……だけど、私には勇気がなかった。ダメだと分かってても、ストーキングはやめられなかった。むしろ、嵌まっていく一方だった」

「都倉……」

 一滴、二滴と瞼からこぼれた大粒の雫は床に痕を残す。

 都倉は赤くなった瞼を手の甲でこすり、鼻をすする。顔全体が紅潮しきっていた。

 なんて声をかけるべきなのだろうか。

 必死になって言葉を探したがみつからなかった。

「で、どうするの後上君」天見は目を瞑り、下を向いていた。

「この報告書があれば警察に話ぐらいは聞いてもらえるけど。今から持っていこうか?」

「……覚悟はできてる」

「ふーん、諦めが早いね。別にいいけど」

 天見は携帯電話をとりだし、番号の入力を始める――。

「待ってくれ、警察には知らせなくていい」おれは携帯電話を押さえつけた。

「止めなくていいよ。ストーカー行為は許されることじゃない。――もしかして、会長としての立場を守るため? 副会長がストーキングしたとなると印象悪いもんね」

「そうじゃない! おれが素っ気ない態度で接したのが悪かったんだ。仕事の話しかしなかったのには理由がある」

 話すことを一瞬ためらった。が、勇気を振り絞り、話を続けた。

「いつも仏頂面というか、気難しい顔をしていたから話しかけづらかっただけなんだ」

「仏頂面だって! あはは」天見はおなかを押さえてげらげら笑った。

「……あれ? 笑うとこじゃないの?」

「私はてっきり、嫌われているものだと……」

「そんなはずはないだろう。都倉は大切な友人の一人さ」

「……変に、壁を作っていたのはどうやら私のほうだったのかもしれないね」都倉は口の端を歪ませながらぎこちなく笑った。彼女のイメージとは似つかわしくないものだったが可愛らしい笑顔だった。

「甘いっていうか、鈍いっていうか。……よかったね都倉さん。許してもらって」天見は腑に落ちないようだ。

「さて、一件落着したことだ。早くホテルを出よう――」

「ちょっと待って、後上君」

 出口へと一歩すすみ出ると、天見に腕を掴まれた。腕を引っ張りながら、天見はベッドから立ち上がった。

「たとえ後上君が許したとしても、ストーカー行為を見過ごすわけにはいかないな」

「この報告書を警察に持っていくつもりか」

「そのつもり。でも、ある条件をのんでくれれば見逃してあげてもいよ」

「それは?」

「都倉さんに嗜好部へ入っていただきたい」

「そんな脅しが許されるとでも――」

「……いいよ。嗜好部に入部する」あきれたような、満足したような表情を浮かべて都倉は頷いた。

「……本当にいいのか?」おれはの問いかけに都倉は頷いた。

「いいよ。その方が都合がいいから」

「都合?」

「天見を監視するのにね」

「まだ、そんなこと言ってるのか……」

 それと、と天見は付け加える。

「後上君には聞き忘れていたことがあったよ!」

「何だ」

「嗜好部の審査は認可されたってことでいいよね?」

 確かに都倉が逃げ出したことで審査は途中のままだった。

「そうだな――」

 部としての存在意義について考えた。天見のおかげで都倉との仲はいい方向へ向かうことになった。これが嗜好部の活動の成果と捉えるのならば、社会貢献の義務を果たしたといえる。学園に良くない影響を与える危険もあるが、さすがに早計だろう。

 個人的に嗜好部の活動を見てみたい気持ちもあった。

「いいだろう。審査は合格だ。……だが、部員が揃わなければ何の意味もないからな」

「分かってるよ」

 天見としては一歩前進した形となる。嬉しさで笑みがこぼれた。

 ひとまず、この事件については一段落した。だが、一つだけ天見の発言で気になることがあった。

「おれも天見に聞きたいことがある」

「私に?」

「なんで天見はおれの身辺調査なんてやってたんだ?」

「それは、その――」天見は躊躇して目をそらした。

 指で頬をゆっくりと掻き、なにか閃いたように指をさし示して、

「私も後上君のストーキングが趣味だったりするんだ」

「……信じられるか!」

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