11.泥だらけの救出劇

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天使像が崖から落ちてしまった!

ダレルは取り戻すために崖を下りるが……。


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 ダレルは地面にひざをつき、どうにかその場に踏みとどまった。コスタスがいきなり左手を下に伸ばしたので、引きずられそうになったのだ。

「天使像のことはいいから! まずはきみが登ってこい」

 落ち着いた声に、コスタスがようやく上を向き、左手を差し出した。ダレルはその手をしっかりつかむと、思いきり引き上げた。

 コスタスがすべりやすい斜面に一歩ずつ足をかけ、ようやく上までたどり着いた。その場に座り込んで、はあはあと荒い息をつく。それからすぐに、崖の下をのぞいた。「天使像は……?」

 ダレルものぞいたが、真っ暗で何も見えない。

 そこへ、リッツァが駆けてきた。「ふたりとも、だいじょうぶ?」

 ダレルは答えた。「だいじょうぶだよ。走っちゃだめだ。崖がある」

 リッツァが歩調をゆるめて近づいた。「コスタス、怪我をしたの?」左ひざのあたりを押さえているコスタスを見て、心配そうに尋ねる。

「ぼくは平気だ。それより、天使像が……」コスタスが崖のほうをちらりと見た。

「たいへん!」リッツァが両手を口に当てて叫んだ。

「古物商の老人に懐中電灯を借りてこよう。そんなに下には落ちていないかもしれない」ダレルは言って、ついてくるようにふたりを促した。


「まったく、夜中に人騒がせなやつらだな」

 古物商の老人は、ぶつぶつ言いながらも懐中電灯と太めのロープを出してくれて、崖のところまでいっしょにやってきた。ダレルは慎重に崖から身を乗り出し、下を照らした。

「あそこだ。木の枝に引っかかってる」三メートルほど下の茂みに、茶色い布袋がぶら下がっていた。

「ぼくが取りにいく」コスタスがすぐさま言った。

「いや、ぼくが行ったほうがいいだろう」ダレルはできるだけのんびりした口調で言った。「なぜなら、ぼくのほうが手脚が長いからね」

 コスタスは特に小柄なほうではないけれど、それでもダレルよりは十センチほど背が低かった。こちらを見て何か言いたそうなそぶりをしたが、思い直したようだった。

 ダレルはロープをつかんで慎重に崖を下りた。コスタスと老人が上でロープの反対側をしっかりつかみ、リッツァが懐中電灯で茂みを照らした。

 ダレルはできるだけ茂みの近くまで下りてから、左手をぐっと伸ばした。顔と手を木の枝が引っかいたが、かまってはいられない。

「もう少しよ。がんばって」リッツァの声がした。

 どうにか指先で、布袋のひもをつまむことができた。ゆっくりと引き寄せる。茂みががさがさと音を立てた。

 ダレルは天使像の入った布袋を胸に抱え、ほっとため息をついた。「いいぞ。ゆっくりロープを引き上げてくれ」

 ダレルは崖の上までよじ登り、布袋から天使像を出した。

「よかった。どこも壊れてはいないようだ」

 リッツァが懐中電灯を手にしたまま、へなへなとその場に座り込んだ。

「あいかわらず面倒ばかり起こしてるようだな、コスタス」老人があきれたように言った。

 コスタスはすっかりしょげ返って、うつむいていた。「ごめんなさい……」

「その天使像はおまえの手に負えるようなもんじゃない。おかしなことに首を突っ込まずに、おとなしく魚の相手でもしとれ」老人はそれだけ言うと、懐中電灯とロープを回収してすたすたと家に戻ってしまった。

 コスタスがダレルのほうに向き直った。「もしかして、あなたがミスター・プレストン?」

「そう、ダレル・プレストンだよ。きみが〝あんまり信用できない〟と言ってたアメリカ人さ」

 コスタスがますます身を縮めて言った。「ほんとにごめんなさい。助けてくれてありがとう」

「いいさ。でも人のものを持ち出して逃げるのは感心しないな」

「勝手に持ち出したことは反省してる。でも盗む気はなかったよ。クロエが帰ってくる前に、ちゃんと元に戻すつもりだった。知らない人が追いかけてきたから、警察に突き出されるんじゃないかと思って、とっさに逃げちゃったんだ」

 ダレルはコスタスの肩をぽんとたたいて言った。「だいじょうぶ、きみを警察に突き出すつもりはないよ。さあ、帰ろうか」

 歩き出したコスタスが、顔をしかめた。「痛っ!」左脚を押さえる。

 リッツァが駆け寄り、しゃがみこんでコスタスの脚を見た。「ひざから血が……」

「これは擦り傷だよ。でも足首をひねったみたいだ」コスタスが言った。

 ダレルとリッツァがコスタスの両わきを支え、三人はバイクのところまでやってきた。

「乗れそうかい?」

「なんとか」

「きみは家に帰って足首を冷やしたほうがいい。ぼくたちが天使像をクロエに返しておくから」ダレルは言った。

「ぼくも行って、クロエに謝らなくちゃ……」コスタスがバイクにまたがりながら言った。

「それはあしたでいいさ。今夜はもう遅い」

 コスタスはしばらく迷っている様子だったが、結局うなずいた。「それじゃ、よろしくお願いします」

「あとで家に行くわ」リッツァが言うと、コスタスが黙ってもう一度うなずき、バイクのエンジンをかけて走り去った。


 クロエはどうしたらいいのかわからず、母のタペストリーの前に立ちすくんでいた。

 ほんとうにリッツァが天使像を持っていったのだろうか。いったいどこへ?

 思い返してみると、ここ数日リッツァはずっと、何か言いたそうにしていた。仕事とダレルに気を取られて、きちんと妹に向き合うことをしなかった。なんてひどい姉だろう。

 もしほんとうに、あのときリッツァがダレルとの会話を聞いていたとしたら? 自分がないがしろにされたように感じたにちがいない。母の大切な遺品について、何も教えてもらえなかったのだから。

 ふと、壁にかかった六角形の小さな時計を見た。もう真夜中だ。ダレルが出ていってから一時間以上になる。電話もかかってこない。

 自分も〈レモニ〉まで行ってみようかと、クロエは迷い始めた。

 そのとき、がちゃりとドアがあいて、ダレルとリッツァが入ってきた。薄明かりのなかでも、ふたりの服が泥だらけなのがわかった。

「いったいどうしたの?」クロエは驚いてふたりに駆け寄った。

「無事に保護したよ」ダレルが布袋を開いてみせた。

「天使像! よかった! でもどうして……。まあ、怪我をしたの?」ダレルの指ににじむ血を見て叫ぶ。よく見ると、頬にも傷があった。

「ただの擦り傷だよ」

「リッツァ! あなたも? どこか痛いの?」クロエはうろたえて尋ねた。

「ううん、だいじょうぶ」リッツァが小さな声で答えた。

「とにかくふたりとも、二階へ上がって」クロエは急いでふたりを階段のほうへ導いた。


 こぢんまりしたリビングのカウチにダレルとリッツァを座らせ、クロエはふたりから事情を聞いた。

「コスタスも反省してる。あしたの朝、謝りにくると言っていたよ。悪気はなかったみたいだから、許してやってほしい」ダレルが言った。

 リッツァが土ぼこりでよごれた頬に大粒の涙をこぼした。「ごめんなさい。コスタスは盗むつもりなんてなかったの。ほんとうよ。彼が持ち出す気になったのは、わたしのせいなの。わたしが、『もしこれが高く売れれば、姉さんは苦労しなくてすむのかしら』って言ったから……」

「リッツァ……」

「もうばかなことはしないわ」リッツァが涙をぬぐって、顔を上げた。「夜中にふらふら遊び歩くのはやめて、これからはもっと一生懸命勉強する。がんばれば、奨学金だってもらえるかもしれないもの」

 決意に満ちたリッツァの表情に、クロエは胸が熱くなった。「わたしもごめんなさい、リッツァ。ママの形見のことは、もう少しあなたが大人になってから話そうと思っていたの。ママが亡くなったあと、あなたはショック状態で、ほとんど口もきかなくなっていたでしょう。ママの部屋にも絶対に入ろうとしなかったし……。わたしも働くのに必死で、言い出すきっかけが見つからなかったの。でも、あなたもいつまでも子どもでいるわけじゃないのよね。隠しごとはもうなしにして、これからはあなたになんでも相談するわ」

 クロエは、服がよごれることなどかまわずに、妹に腕を回した。リッツァがくすんと鼻を鳴らして、抱擁を返した。

「それじゃ、ぼくはそろそろ……」ダレルがカウチから立ち上がろうとした。

「あ、待って。傷の手当てをしなくちゃ」クロエは引き留めた。

「わたし、コスタスの様子を見てくる。怪我の手当てをしたら、すぐに戻るわ」リッツァが言った。

「そう、気をつけてね」クロエは階段を駆け下りるリッツァの背中に向かって声をかけた。


 クロエはバスルームでタオルを濡らしてしぼり、カウチのところへ戻った。ダレルの前にしゃがんで、緑色の静かな目をのぞき込む。

「ありがとう。妹のボーイフレンドの命と天使像を救ってくれて」

 ダレルがめずらしく少し照れくさそうな顔をした。「そのことだけど、よく考えてごらんよ。ぼくが追いかけなければ、コスタスが崖から落ちることもなかったんじゃないかな?」

「それでもやっぱり、ありがとう」

 ダレルがまっすぐに視線を返してうなずいた。

 クロエは濡れたタオルでダレルの顔を優しくぬぐった。日に焼けた張りのある頬。しっかりした顎のライン。それから片方ずつ彼の手を取り、ていねいにタオルを当てた。男の人にしては繊細で長い指が、擦り傷だらけだ。

 ふいにダレルが、自由なほうの手でクロエの腕をつかんだ。クロエははっとして、タオルを取り落とした。体ごと強く引き寄せられ、次の瞬間には、唇にダレルの唇が押しつけられていた。

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