第41話 ニムエ Nimueh
匠は再びジレンマに心を引き裂かれた。
ニムエに三日月刀を突きつけられ、記憶が蘇った時と同じ悪夢を見ているようだ。肝心の場面の記憶が消えてサウロンを殺害したか分からず、サウロンの秘密と少女の存在も明かせない。しかも、今や脅かされているのは、最愛のニムエの命だ!
サウロンが少女を拉致していたと告げれば、王家の体面を保つために、ニムエの王位継承は認められないだろう。ニムエが伯爵に命を狙われることもないが、王家の意向で口封じのため、少女は殺されるに違いない・・・
どちらに転んでも、死にきれない!
匠は絶望のどん底に突き落とされた。
内戦の間、残虐な行為をさんざん見聞きしてきた。我が身や一族を守るための戦いから始まり、復讐や政治的な思惑がからんだ
現に今、匠自身がその現場に巻きこまれている。犯したかどうかもわからない罪に古びた掟が絡んで、幼馴染の王家の跡継ぎの手で磔にされ、その上、王位を狙う親族から手ひどい拷問まで受けている。
ニムエかあの村の少女か、どちらかの命を選ばなければならないなんて 。なぜ、こんな巡り合わせに?もう、どうしていいいかわからない・・・
追いつめられた匠は混乱の極みに言葉を失ってうなだれた。噛みしめた唇が震えて止まらない。
「さあ、白状なさい!サウロンは何をしていたの?他に誰か居たのかしら?別に言わなくたっていいのよ。サウロンを殺してくれただけで、こちらは大助かりよ!ニムエを始末するのはずっと簡単だもの!」
畳みかけるようにアドリアーナが迫った。不意に匠の目から涙が溢れ出した。こんな苦しい選択はとても出来ない・・・恐ろしい苦痛に苛まれながらも、身体をよじって声を振り絞って懇願した。
「お願いだから、ニムエを殺さないでッ!死んでも死に切れない・・・頼むから、彼女には手を出さないでくれ!」
アドリアーナはため息をついて肩をすくめると、カルデロンと目を合わせてうなずずいた。
「わかったわ。それなら、ここで犬死するのね!それに、サウロンが何を隠していたにせよ、ニムエを始末する方が手っ取り早いかも知れないわ!」
そう言い放つと、やおら匠の髪を片手で乱暴に掴んで顔を寄せた。
「よく聞くのね!お前は決断ができないただの弱虫よ!だから、大切な人を死なせてしまうの。あの世からニムエが殺されるのを眺めるといいわ。事故に見せかけて始末してやるから!いいこと、お前が手を下したも同然なのよッ!」
手前勝手な理屈をつけたアドリアーナは、匠の顎を掴んで毒薬を飲ませようと小瓶を口元にあてがった。心身共にボロボロに衰弱し切った匠の目からは、ただ涙が止めどなくこぼれ落ちていた。
アドリアーナが小瓶を唇の間に押し入れようとした瞬間、地下牢の出入り口の扉が音を立てて閉まった。アドリアーナは
蜀台の灯りに照らされた回廊を人影が急ぎ足で近づいて来る。
ニムエだ!
薄暗がりでも、ショックに蒼ざた表情がはっきり見て取れる。ゆったりした部屋着姿にスリッパを履いていたが、背中には矢筒を背負い肩に弓を掛けて、鞘に収めたサウロンの三日月刀を片手に握っている。小間使いも一緒だった。
「叔父上!いったい何をなさっているのですか?アドリアーナ、あなたまで!真夜中に入りこんで勝手な真似をッ!」
ニムエは激しい剣幕で伯爵夫妻に食ってかかった。
「まあ、そう言うな、ニムエよ。大事な甥のサウロンを殺した奴は、我われとしても許せないからな。お前に代わって、少しばかり報いを受けさせてやろうと思ったまでだ」
カルデロンは平然としていた。サウロンはともかく、ニムエなら簡単に手玉に取れると舐めてかかっていた。
「矢で扉に磔にして開け閉めするわけか?お前もなかなか残忍だな、感心したぞ、ニムエ。これなら立派な女王になれそうだ、さすがは私の姪だ!」
この男は本当に食えない奴だ。半ば意識を失いながらも匠はあきれていた。話をすり替えて、己の残虐な所業を平然と正当化して恥じる様子もない。
カルデロンの言葉に、ニムエの顔が引き
いや、幼い頃から一度も見た覚えがない。内戦や敵国との過酷な戦いの日々の中でも、こんなに表情は一度たりとも見せなかった。怒りと復讐に燃えていた表情が一変している。過去数年間に渡ってニムエが抱えてきた苦悩がすべて表れているかのようだ・・・
「叔父上、この者の処刑はわたくしの役目です!あなた方に手出しはできないはず!どうかお引取り下さいッ!」
まだ蒼ざめてはいたものの、意外にもニムエは伯爵に向かってきっぱりそう告げた。前王とサウロンの死後の二度に渡って、伯爵の間で王位を巡る争いが起きたが、ニムエが叔父に対してここまで
カルデロンは不意を衝かれて、憮然となり黙りこんだ。ニムエがここまで強い態度に出るとは予想もしていなかったのである。
部屋着姿にもかかわらず、ニムエの態度は威厳に満ち溢て、まさしく女王そのものだった。さすがのデビアス伯爵も、ここは無理強いできないと判断して、アドリアーナに向かって手を小さく振り、匠を放すよう促した。
伯爵夫人は
だが、弱りきった匠は、乱暴に針を引き抜かれても力任せに肘打ちされても、もはや身体が反応しない。叫び声さえ出せなくなっていた。
「よかろう・・・確かに、お前の言う通りだな!我々も血の掟に従うとしよう。何と言っても、お前はこの国の女王になるわけだからなッ!」
渋い表情でニムエを睨んで捨て
今夜はカルデロンに当り散らすに決まっている。
匠はいい気味だ、と少しだけ気が晴れたが、ふと不思議に思った。
転んでもただでは起きないあの伯爵が、血の掟に従うと言って引き下がるとは、いったいその掟には何と書かれているのだろう?
だが、それももう自分には関係ないことだ。ただ、ニムエに伯爵夫妻に狙われると伝えなければ・・・
そう思いつつも、凄惨な拷問から不意に解放された反動で、匠の意識はあっと言う間に薄れた。ニムエが小間使いに話しかける声が、かすかに耳に残った。
「よく知らせてくれました。お前は新しい夜番ね?この者の世話をして頂戴。衛兵も呼び戻してね。あの二人が勝手に下がらせたらしいわ」
「はい、王女様。用意して参ります」
小間使いがはきはきと答えた。若い女性の声だった。そこでぷっつり匠の意識は途切れた。
苦痛と疲労はとっくに限界を超えていたのである。
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