第16話 グリーンハウス Green House
その日の夕刻、ピザ店の宅配スクーターが、シティのとあるビルの前に停車した。小柄で可愛らしい面立ちの女性配達員が、ピザの保温ケースを抱えてビルの中に入って行った。
ドーム都市に高層ビルは建築できない。シティ行政府はビルの高さを最高五階に、自然環境を重視したエリア21地区については最高三階に制限している。
配達員は入口の受付を抜けてホールを通り、臨床心理クリニック「グリーンハウス」に向かった。シティの総合病院や個人病院と提携して、クライアントに合うよう調整したカウンセリングやヒーリング・プログラムを提供している。シティ外からも著名人が定期的に通うほど評判が高い。
音もなく木製の自動扉が開くと同時に、芳しく爽やかな花と緑の匂いが配達員を包み込んだ。フロア全体がハイドロカルチャーと太陽光ファイバーに管理された温室になっている。様々な花や観葉植物に小型の常緑樹が生い繁り、待合室、カウンセリングルーム、リラクゼーションルームなどが緑の中に埋もれ、まるで南国のパラダイスに居るような錯覚さえ覚える。丸天井にはプラネタリウムを装備して、癒し系ミュージックや自然音も揃っている。ここが「都会のオアシス」と呼ばれる所以である。
「ピザのお届けです。深山貴美さまに」
配達員は受付の係員に声をかけた。
「あらっ、貴美がピザを?珍しいわね~。残業も入ってないのに」
カウンセリング業界だけあって、受付の女性も顧客に限らず来訪者に親しみやすい対応を心掛けている。北神有希というネームプレートを胸に付けていた。貴美と特に親しい同僚の一人である。
「ギフトオーダーです。カードも付いています」
小柄な配達員はにっこりしてピザの箱を手渡した。エリア21の店だけあって、今でも紙製のカードをギフト用に用意している。
「もうすぐ休憩時間だから渡しておくわね。ご苦労さま!」
配達員がドアから出て行くのを見送りながら有希は思った。
「すごく感じの良い子ね。不思議な雰囲気があるわ・・・それにどこかで見た顔ね」
有希が首を傾げていると、ちょうどセッションの区切りの時間になり、スタッフがクライアントを送りがてら三々五々個室からから出て来た。貴美がクライアントと挨拶を交わすのを待って声をかけた。
「カミ、お疲れさま~。ピザが届いてるわよ。あなたにプレゼントですって!」
「わたしに?誰かしら?」
有希がピザの箱を手渡すと、貴美は張り付けられた封筒を眺めたが、送り主の名前が印刷されていない。ハワイアンピザのラージで注文時刻は三十分ほど前だ。
ナラニからに違いない。タクの身に何か起きたのでは?
胸騒ぎを覚えた貴美は、有希に礼を言って足早にオフィスへ向かった。有希は男性からかしらと思ったが、貴美の表情が硬いのに気づいて何も言わなかった。男性クライアントから貴美に贈り物が届くのは珍しくないが、いつもなら有希が貴美を冷やかして、二人で冗談を交わして盛り上がるのに今日はいつもと様子が違う。
オフィスに入ると貴美はドアをロックして、ピザの箱に貼り付けられた封筒を剥がした。ペーパーナイフで封を切り、ギフトカードを取り出す。暗号化された内容を、カードの余白に素早く書き出しふと眉をしかめた。顔色が変わっている。緊張した表情で天を仰いで小さく叫んだ。
「まさか、そんな!」
そそくさとカードをアナログ・シュレッダーにかけ、ロッカーから私物が入ったスポーツバッグを取り出した。未開封のピザの箱を抱えて、足早にクリニックの出入り口に向かい、受付の有希に慌ただしく声をかける。
「ユキ、急用ができたの。このピザは夜番の皆で分けてね。それじゃ、お疲れさま!」
仕事帰りの顧客に対応するため、このクリニックは週日は午後十時まで診療している。
「ありがとう!ちょうど夕食をどうしようか迷ってたの。お疲れ様、また明日ね!」
有希はちょっと驚いたが余計な詮索はしなかった。前から時々あるのよね、彼女。突然予定を変えたり、姿を消したり・・・貴美は何か秘密を抱えているに違いない、と有希は以前から確信していた。いつか話してくれるのかしら?珍しく憂い顔で、貴美の背中を見送った。
足早にクリニックを出た貴美は、バス停には向かわず、大通りを隔てた商業ビルの地下一階のバーに入った。毎水曜日はガールズナイトで女性客に半額サービスがつく。店内はすでに混雑していた。押しかける女性を目当てに男性も多数やって来る。
貴美は混みあう店内をすり抜けて、バスルームに飛び込んだ。シティのトイレは、公共施設も民間の店舗も、すべて個室で広々としている。スポーツバッグを開けて、黒いスーツを取り出した貴美は、手早く着替えて私服をバッグに詰めた。
一年前に情報分析官としてシティに潜入した以来、ラングレーのCIA本部当時のワークスーツを着るのは、今日が初めてだ。
ピザに添付されたメッセージは、ナラニの協力者が手配したに違いない。暗号化された手書きのメッセージは、脳の夢回路を遮断する処置の後で、匠に異変が起きて、山麓で起きたコンタクトの記憶が蘇った、という驚くべき内容だった。研究所の担当者に会いデータを確認、匠に関わる記録はすべて廃棄、関係者に口止めするようにとの指示で、脳心理研究所の臨床ラボの入室コードも添えてあった。
「夢回路を遮断する処置なのに、なぜ記憶が蘇ったの?いったい、何が起きたのッ!あの山麓に新人類がいるとシティ政府に伝わってしまう!」
信じ難い知らせに貴美はひどく気が立っていた。固い表情でスポーツバッグを肩にトイレを出ると、人混みを縫って一目散にバーを飛び出した。
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