青い月の王宮 Blue Moon Palace

深山 驚

第1話 渚にて On The Beach

 さざ波が軽やかな音を立てながら初春の澄み切った海風とともに遠浅の海を渡ってくる。遠浅が沖合まで延々と伸びているのは、大規模な埋め立て地を再び海が覆ってしまったからだ。

 数百メートル沖まで広がるこの埋立地は、レンガを敷き詰めた瀟洒な街路に高級住宅と高層マンションが立ち並び、公園にレストラン、博物館と図書館、総合病院にさまざまな個人医院、おしゃれなスーパーマーケットが点在する富裕層の街として知られていた。

 今では地盤の液状化と放射能汚染で、立入る者もいない一面の廃墟と化している。かつてはランドマークだったドーム状のスポーツスタジアムも、豪華な各国大使館の建物も朽ち果てて波に洗われている。


 海面を渡るさざ波と転がる砂の微かな音、その穏やかなリズムに意識を集中させながら少女は海岸に立ちつくす。水平線に姿を現した満月がカーキ色の防護服に身を包み全面マスクを着けた姿を照らし出していた。

 沖合にかけてところどころに崩れ落ちたマンションの残骸が水面に暗く浮かび上がり、波打ち際の後方には廃墟となった住宅や大型店舗が月明かりに長い影を落として静かにたたずんでいる。

 変形して陥没し縦横に亀裂が入った道路は大半が砂や土砂に覆われ、その上に生い茂った雑草が新芽を吹き始めている。打ち捨てられた乗用車やトラックも土砂や草に半ば埋もれてしまい、今ではフレームだけを残して原型を留めていない。


 瞑目していた少女はやがて静かに目を開け、腰に取り付けた空間線量計と放射能ダスト検知器に目をやった。赤い警告ランプが点滅を繰り返している。

 薄いタングステンを組み込んだ軽装防護服は、ダストの内部被曝を防ぐことはできても、この地域のガンマ線外部被曝はほとんど遮蔽できない。けれども、少女は気にする素振りもなかった。それどころかおもむろに全面マスクを取り外して、御影石のベンチの上に置いた。次いで頭部をぴったり覆うヘッドキャップを両手で引き伸ばして頭から外す。

 防護服前面のファスナーを途中まで下げ、内ポケットから小型の電子機器を取り出してそっとベンチの上に置いてから防護服を腰まで脱ぐ。防護服のズボン部分の足首にある留め金を外して分厚いゴム底の防護靴を脱いで、丁寧に揃えてベンチ上に並べた。ごわごわした防護服も脱いで靴の隣りに無造作に置くと、先ほど取り出した小型機器をその上に載せる。最後にヘヤーバンドを外して左手首にクルクルと二重巻きすると、頭を振って髪を落ち着かせてベンチにそっと腰を下ろした。


 石畳の街路も大津波とその引き波が運んで来た砂や土壌に覆われている。付近の並木やプランターもレンガの塀も、海水の奔流と一緒に押し流された流木や建物や車が激突したためことごとく粉砕されて、時の流れとともに風化して土に還っている。奇跡的に残ったこのベンチもひび割れてところどころが欠け落ちて足元に堆積した土砂は雑草に覆われていた。

 ベンチに腰を下ろしたままふーっと深いため息をつくと、少女は身体をそらせて両手を横に広げ、気持ち良さそうに大きく伸びをした。放射能防御服の下に身につけるにはおよそ似つかわしくない、ストレッチ生地の赤いハイビスカスの花柄のTシャツとお揃そろいの柄のショートパンツしか身につけていない。

 少女のむきだしの伸びやかな手脚が、月明かりにほの白く浮かび上がる。初春の肌寒い海風も、風に舞う放射性物質のダストも周囲を飛び交う放射線もまるで気にかけていない。


 ベンチの背もたれに腰をぴったり着け肩の力を抜きわずかにうなだれるような姿勢を取ると両手を太ももの上に置いた。そのまま目を閉じて深くゆっくり息を吸い数秒間保息してから、ゆっくり時間をかけて少しずつ息を吐いていく。

 トランス状態に入ると手足が急激に暖かくなりふんわりと気持ちが良くなって来る。まるで暖かいお湯の中に浸っているような感覚に包まれて、意識がまどろみの中に深く深く呑み込まれていく。

 突然、頭の中に白く柔らかな光が一気に広がり、その瞬間、少女は口をわずかに開きハァ~と甘美な溜息を漏らした。その光が身体全体を覆って行くのを感じながらさらに静かな長い呼吸を繰り返した。


 突如、少女の身体がほんのり白っぽい光に包まれた。さらに身体を覆ったその淡い光の中に小さな光の粒子が舞い始める。微かな軌跡を描く光点が次々に現われては夜風に流されて闇に消えて行く。同時に無数の微小な光の軌跡が身体の外から直線を描いて煌きながら飛び込んで来る。次々にすーっと細く輝きを残して伸びては消え去る。舞い飛ぶ光の粒子からも、同じように微細な光線が何本も繰り返し放射されていた。

 薄っすらと身体を覆う淡い光、風に舞い散る小さな光の粉、縦横に走る霧雨のような線状の光が交錯して、少女の身体全体がまるで光の繭のように夜の闇に浮かび上がった。


 しばらく彫像のように微動もせずに座っていた少女は目を開けて穏やかな海面の上に浮かんだ満月を見やった。長く濃いまつ毛が艶やかな頬に影を落とす。肩のやや上でカットしたプラチナブロンドの髪は、額が狭く見えるほど生え際が低く豊かに生え揃っている。ウェーブがかかった髪は月光を受けて白金のように輝き、青い瞳が夜行獣のように煌いていた。

 年の頃は十六、七歳。コーカソイドの血を受け継いだ彫りの深い顔と、若々しい量感を湛たたえた長い手脚が、身体を包む光と月光を受けて陶器のような輝きを放っている。


 やがて、少女は視線を巡らせて傍らに置いた小型機器を取り上げた。カバーをスライドしてタッチパネルに認証コードを入力した。電源スイッチを入れると青い電源ランプが点灯した。内ポケットに戻してそのまま防護服を丁寧に畳んでベンチの上に置く。


 作業を終えると少女はもう一度気持ち良さそうに深呼吸しながら大きく伸びをした。ベンチから立ち上がり、春先の肌寒い海岸を波打ち際に沿って裸足で歩き出した。


 この海岸にも偵察ドローンは巡回しているが、次の巡回は真夜中だから探知される心配はなかった。遥か上空を通過する監視衛星なら、少女の身体から発する可視光や赤外線を探知できる。けれども、周回軌道からこの地域をカバーする時間帯が深夜以降なのも、少女は知っている。


 若々しく引き締まってはいるが、女性らしい優美な曲線を描く嫋やかな身体つきに似合わず、野生動物のようにしなやかな身のこなしで滑るように海辺を歩いて行く。その間も意識はトランス状態を保ったまま、全身を包む淡い光と舞い散る光の点と線が交錯して少女の姿は柔らかく輝いていた。


 

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