忘れゆく君と幸せいっぱいのお芋カレーを作ろう

雪子

忘れゆく君と幸せいっぱいのお芋カレーを作ろう

 遠距離恋愛中の彼女に、2か月ぶりに会った。

 2年間付き合っていた彼女と遠距離恋愛を始めたのは、大学進学がきっかけだ。お互い新潟を出て、俺は茨城の、彼女は大阪の大学に進学することになった。

 そんな彼女に最後に会ったのは9月。夏休みにお互いが新潟に帰省した時に会った。それから2か月が過ぎて、気づけば秋も深まる11月だった。

 俺の大学ではコロナの影響で文化祭がリモートになってしまったので、学祭期間の4日間を使って彼女に会いに行くことにしたのだ。

「海斗!久しぶり」

「由梨ちゃん!」

 彼女の家の最寄り駅で再会したとき、彼女は変わらない笑顔で俺を迎えてくれた。

 大きな目が、笑うとうんと細くなる彼女。

 小柄なことを気にして厚底のスニーカーを好んで履く彼女。

 少し茶色みを帯びたまっすぐな髪の彼女。

 変わらない彼女を見て、どこかほっとする自分がいる。会えない寂しさと、会いないことから来る野暮な不安。そういうものが、会った瞬間に手元から消える。会えない間、あんなにきつく握りしめていたのに不思議だ。

 高校生の頃は、毎日一緒にいた。クラスは違ったけど、部活が一緒だった彼女とは毎日一緒に帰っていた。部活にのめりこんでいた俺たちは、朝も放課後も自主練に明け暮れて、一緒に練習するのが日課だった。部活が終わって受験期に入っても、一緒に勉強をするのがごく自然な流れだった。

 そんなふうにしてずっと一緒にいたのに、大学進学で一気に会う頻度が減って正直とても面食らった。離れてみて、自分の生活がどれだけ彼女の存在に重きを置いて回っていたかということがよくわかったのである。

「荷物持とうか?」

 彼女が手を差し出した。

「大丈夫だよ。そんなに多くないから」

「でも両手ふさがってると手つなげないじゃん」

 大きな目で俺を見つめて、彼女は伺うような顔でかわいいことを言う。そしてそのまま、彼女は俺の荷物を1つ持ってくれた。

 空いた方の手で彼女の手を握る。手を握った瞬間、彼女が嬉しそうに俺の目を見て微笑み、握る力を強めた。

 ああ、そうだ。この感覚、この感じ。隣に立った時の身長差とか、いつも冷たい彼女の手の温度とか、歩く時の早さとか、いろいろなことが思い出されていく。答え合わせをするような感覚が、彼女の家に着くまで続いた。

「今日は何が食べたい?一緒にスーパーに行こう」

 家に着くなり彼女が言った。元気が有り余っているのか、バッグも下ろさず、椅子にも座らず仁王立ちで立っている。まさかこのままいくつもりか?スーパー。

「あ、ごめん。海斗疲れてるよね。休憩してからにしよう」

「うん」

 椅子に座って大きく息を吐いた俺を見て、彼女も椅子に座った。よかった。正直このままスーパーは少し勘弁してほしかった。久々の長時間移動で少し疲れていたのだ。

「スーパー楽しみ」

 彼女はそう言って、大きな目をうんと細くした。


「カイトさんカイトさん4日分の食材をまとめ買いするのはどうでしょう。今日ポイント5倍デーなんです」

「ユリさんユリさんそれはいいアイデアですね」

「だろだろ?」

 スーパーに着くと、彼女が変な口調で話し始めた。

「何、そのしゃべり方」

「何でもないですよ、カイトさん」

「カイトさんって呼ばれるのなんか違和感。海斗って呼んで」

「無理ですカイトさん」

「はいはい、ユリさん」

 俺は、どうして彼女がこういうしゃべり方なのかを知っている。だから、あまり踏み込まずに彼女に合わせることにした。

 彼女は嬉しいことがあるとあからさまに口調を変えるのだ。それもわざと。いつもは「海斗」って呼ぶのにわざと「カイトさん」って呼んでみたり、わざと敬語を使ってみたりする。

 理由を聞くと彼女は、「嬉しいことがあると、どんなふうにしゃべればいいのか分からなくなっちゃうから、いっそのこと変なしゃべり方しようかなって」と答えてくる。分かるような、分からないような絶妙な理由だ。

「そんなにスーパーデート嬉しいの?」

「うん!」

 俺が聞くと、彼女は大きな目をうんと細くした。

「新婚さんみたいで嬉しいし、いつもは一人で選ぶのを一緒に選ぶもの嬉しいし」

「うんうん」

「ポイント5倍とかニヤニヤしちゃうし!それに、いつもなら持って帰れる量を考えて買わないといけないけど、海斗がいるから好きなもの買えるし!超嬉しい!」

「俺に持たせる気満々?あと、『海斗』に戻ってるよ」

「あ、しまった」

 彼女ははっとした顔をしてから、ケラケラと笑った。スーパーに来るだけでこんなに嬉しそうな顔をしてくれるなんて、ほんとにもうかわいいなあ。

「荷物は私も持つからね」

 ひとしきりケラケラ笑った後、彼女は玉ねぎを選びながらそう言った。

 せっかく俺がいるんだから全部持つよ。そんな言葉をそっと飲み込む。彼女はこういうところ、結構頑固なのだ。「頼るけど、頼りっぱなしにはしない」が彼女のポリシーらしく、荷物争奪戦はいつも引き分けに終わるのだ。

 だが俺にもプライドはある。重い方は俺が絶対に持つし、3つあれば俺が2つ持つ。そこは彼女も俺の気持ちを汲んで素直に頼ってくれる。彼女は「持ってあげたい」と思わせるのが上手だ。人の優しさを当たり前だと思っていないところがとてもいい。

「カイトさんカイトさーん!みてみて、さつまいも」

 俺が少しぼーっとしていると、彼女が目を輝かせてさつまいもを持ってきた。

「おー、さつまいもだねー。秋ですねえー」

「買っていいですか?」

「そりゃもちろん」

「やったー!さっつまいも、さっつまいも」

 彼女は、いもが大好きだ。じゃがいもに里芋にさつまいも、長芋。彼女の食卓にはいもが並ぶことが多い。特にさつまいもは大好きで、毎年秋が来るのを楽しみに待っている。ちなみに、初めてもらったバレンタインのお菓子はスイートポテトだった。自分が好きなものを相手に送るなんていかにも彼女らしいと、思わず笑ってしまったのを覚えている。

「自分の好きなものを、好きな人が好きになってくれたら嬉しいでしょ!」

 笑う僕に、彼女は少しむきになってそう言っていた。好きなだけあって、彼女のスイートポテトは格別においしかった。

「カイトさーん!里芋もいいですか!!」

「はーい、いいですよ」

 彼女が次から次へといもを選んでくる。段ボールに山盛りになった里芋の中から、おいしそうなやつを一緒に選ぶと、彼女はまた大きな目をうんと細くした。

 それから、僕たちがスーパーを一周してレジに並ぶころには、籠の中には様々な種類のいもが入っていたことは言うまでもない。


「ふうー、ただいまー!」

 パンパンになったエコバッグを、彼女が床に置いた。

「おかえりーただいまー」

「おかえりー。ハハハ、変なの」

 彼女は、一歩遅れて玄関に入った僕の方へ振り返って笑ってみせた。そのまま洗面所に向かう。

「おかえりって言ってくれる人がいるのはいいですなあ、フフ」

 手を洗う順番を待っていると、彼女が僕に背中を向けながら言った。

「そうですなあ。由梨ちゃん、ニヤニヤしてるの鏡にもろ映ってるよ」

「あらやだ恥ずかしい」

 彼女は手を洗ったあと、一息つくようにベッドに座った。

 俺も手を洗ってその隣に座る。

「今日は、来てくれてありがとう」

 真剣な声で、彼女が言った。

「な、なに。急にかしこまって」

 いつも笑顔を絶やさない彼女が、急に真剣な顔になると緊張する。大事なことを言う時にする彼女のこの顔を見ると、一気に心臓の音が早くなる。

 ああ、思い出す。志望校の話を初めて真剣にした時のこと。大学進学が決まって、これからの関係について話し合った時のこと。

 志望校の話をした時は、「離れ離れになるね」と言われるのが怖かった。俺は茨城、彼女は大阪。目指す先の違いを、これから枝分かれしていく未来を、その言葉で突きつけられるのが怖かった。

 これからの関係について話し合った時は、「別れようか」って言われるんじゃないかと思って怖かった。「海斗は、どうか分からないけど、私は、遠距離でも一緒にいたいと、思っているよ」と彼女の口からゆっくり言われた時、安心してへたり込んでしまった。

 真剣な彼女が、何を言い出すのか怖くて身構えた時の記憶が、この顔を見ると思い出される。まるで引き金を引いたかのように。

「別に?感謝は伝えたい時に伝えた方がいいかなと思って」

 彼女が微笑んだ。下がった目じりを見て、安心する。でも、彼女の目はまだ大きいままだ。

「寂しかったよ」

 彼女がそういって俺の方に頭を預けてきた。胸がきゅっとなる。ずっと、これが言いたかったのか。

「俺も、寂しかったよ」

「うん」

 気の利いた言葉を必死に探した。彼女を安心させるような、そんな言葉。

「…離れてた間」

 しばらく考えて俺は口を開いた。

「由梨ちゃんのこと、忘れたことはなかったよ。声も、温度も、一緒にいるときの感覚も、ずっと覚えていたよ。それを思い出して、頑張ってたよ。これからまた離れても、忘れないよ」

 俺がそういうと、彼女は頭をもとに戻した。

「由梨ちゃん?」

 彼女の方を見ると、彼女はとても悲しそうな顔をしていた。え、どうして、俺、間違ったこと言ったかな。

「…無理だよ、そんなこと」

「え…?」

 彼女が、何を言っているのか俺にはよくわからなかった。

「私は、どんどん分からなくなったよ。隣に立った時の身長差とか、海斗と手をつないだ時の温度とか、歩く速さとか。声も、手の大きさも、においも、どんどん…」

「…」

 喉が、ヒュっと音を立てた気がした。

「きっかけがないと、何も思い出せなかった」

「…どういうこと?」

 かろうじて絞った声が、思った以上に弱弱しくて情けない。

「誰か海斗と同じような身長の人の隣に立った時、『あ、海斗もこのくらいだった』って思う。久しぶりに会った海斗の手を握って、『あ、この温度だ』って思う。一緒に歩いて、『あ、この速さだ』って思う。きっかけがないと、はっきり思い出せない。答え合わせをしないと、忘れてなかったかどうか確認できない」

 その言葉を聞いて、指先が冷たくなった。

 …俺も、同じだったじゃないか。彼女と再会して、答え合わせをして、「ああ、この感覚」って思い出す。忘れていなかったといえるのは、忘れていなかったことを確認したからだ。確認しないと分からないなら、忘れていたも同然だ。

 じゃあ、茨城にいるときに彼女との身長差や温度、歩く速さを思い出そうとしたら?…たぶん、自信を持って「忘れてない」とは言えなかった。実体のないものを思い出すには、記憶はあいまいで感覚はアバウトすぎる。

「ごめん由梨ちゃん、俺…」

 不確かなことを言った自分が、彼女を傷つけたような気がして思わず謝る。こんなにも繊細に物事をとらえる彼女には、俺の「忘れたことはなかったよ」という言葉が、「ずっと好きだよ」なんていう不確かな未来を口先で語るのと同じくらい、空虚に響いたと思ったからだ。

「謝らないでよ」

「いや、でも」

「あー、もう!謝るの、これでおしまい!」

 彼女が勢いよく立ち上がった。

「聞いて、海斗。私は別に悲観ぶるつもりはないよ」

「え、あ、うん」

 急なテンションの変化に、ちょっと置いて行かれる。

「きっかけがないと確かめられないなら、きっかけをばらまけばいいのよ」

 彼女がしたり顔で振り向いた。…きっかけをばらまく?

「どういうこと?」

「きっかけをたくさん作るってこと!」

「はぁ、どうやって…?」

「フフフー、ではまず一緒に『お芋カレー』を作ろうか」

 彼女はそう言って俺の手を引き、台所へずんずん進んでいった。

「いいかい、海斗くん。お芋カレーを今から一緒に作って、これを食べれば『あ、この味、この感覚』って、一緒に作った時のこと、その時の気持ち、空気感、ぜーんぶ思い出せるような『きっかけ』を作ります」

「ほほう」

 彼女の言いたいことが分かった。彼女は忘れないようにする努力をするのではなく、離れていても忘れてないことを確かめるきっかけを作ろうとしているのだ。

 今から作る「お芋カレー」は初めて食べる未経験の味。それを俺は茨城で、彼女は大阪で作ることで、またその時の感覚を思い出せるような「きっかけ」を作ろうとしている。

「はい、じゃあ海斗はじゃがいもむいて」

「はい!」

「私は玉ねぎ切ります」

「任せた」

 俺たちはおそろいのエプロンをつけて調理を始めた。

 一通り切るものを切って、肉を炒める。

「由梨ちゃん、にんにく入れたらおいしそうじゃない?」

「いいねいいね、やりたいこと全部やってみよー!」

 彼女がルンルンで料理をする。

 肉、玉ねぎ、にんじん、じゃがいも、さつまいも、里芋、長芋。グツグツ音を立てる鍋を覗いて、彼女は、

「おいしそうだね」

 と、大きな目をうんと細めた。

「うん、そうだね」

 愛しくて思わず、俺は彼女の頭を撫でた。

「な、なんですか、カイトさん」

「何でもないですよ、ユリさん」

 恥ずかしがりながらも、彼女はとても嬉しそうだ。

「できたー!!名付けて『きっかけの種幸せいっぱいお芋カレー』」

 30分もかからず、カレーは出来上がった。

「さ、食べよう」

 彼女がエプロンの紐をほどきながら、椅子に座った。

「いただきます」

「いっただきまーす!」

 小さな手を合わせて、彼女がスプーンを持つ。

「う~ん!お芋!おいしい~。ね、海斗!」

「うん、そうだね。あ、由梨ちゃん、ほっぺにカレー」

「わお、なんてベタなことを。お恥ずかしい」

 彼女はそう言って、大きな目をうんと細めた。そんな彼女を見て、俺の目はその目より細くなった。

 

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