遺作

遺作

音楽は才能が9割だという。

音楽に恋するほとんどの人はカタオモイで沈んでいく。

なのに、時々音楽になんの興味もない人に神様は音楽の才能を与える。

これは私の終わってしまった彼女へのラブレターだ。


高校生の時の私は「努力」という言葉が嫌いだった。

多くの偉人は言う。「天才と凡人の隙間は努力で埋められる。」と。

しかし本当の天才は凡人が何年もかけてやることを一日で適当にこなしてしまうのだ。そこに天才と凡人の越えられない壁がある。

私はそれを大きくなるにつれ目の当たりにした。

小さい頃のように、大きな声で歌手になりたいとは言えなくなった。

彼女と出会ったのは、こんなことを思い捻くれて、夢を諦めかけた高校3年生、17歳の夏だった。


それは、夏のとても暑い日だった。摂氏37度、7月5日、木曜日。

私はいつも通り無音のイヤホンを耳につけて、お気に入りの橋の下へと向かっていた。

とめどなく流れる汗と、暑さを助長する蝉の声。溶けてしまいそうな体を何とか保ちながら階段を降りようと足をかけたその時に、それは私の耳に届いた。


歌声だった。


透き通るような、少しハスキーとも言えるような、引き寄せられるような声だった。


そしてそれは、私が何百、何千回も聞いて、その声に届かない私を絶望させた歌声だった。私に音楽を諦めさせたその歌声だった。

無意識のうちにその歌声の方へと体が引き寄せられていた。聞きたい気持ちと聞きたくない気持ちの相反するふたつの気持ちが心の中で葛藤する。

ぽろぽろと自然にこぼれた涙を拭うのも忘れ気づいたら私はその声の後ろに立っていた。


その声が止むまで私の体は金縛りにあったように動けなかった。

しかし、彼女は後ろにいるはずの私の存在に気づいたようだった。

唐突に歌うのをやめて、ひとつに結んだ長い黒髪をふわりと纏いながら彼女は振り返った。


「えっと…しの…さん…です……か?」


私は反射的に頷く。すると彼女は小さい子供が美味しいお菓子を前にした時のような、欲しいものを買ってもらった時のような笑顔を見せた。


「本物だぁ!えっと、私は奏です!鳴神奏なるかみかなで!あなたの小説『真昼の校庭』に憧れて会いに来てしまいました!」


私が呆然としているのを無視しているのか気づいていないのか彼女はそのまま忙しそうに口を動かした。


「急に気持ち悪いですよね。すみません。えっと、ここって『真昼の校庭』の涼の最後の河原ですよね!写真は拝見してたんですけどほんとに実在する場所だったんだって今感動してます。えっと、あの、私、ほんとにあのお話が好きで、ほとんど暗唱できるくらいまで覚えてしまって!瀬川が亡くなってしまうところも、涼の最後もいつも感動してしまって何回読んでも泣いてしまいます。その、えっと、いろいろあって、どうしてもしのさんに1度お会いしたくって、失礼だとは分かってるんですけど、すみません。会いに来てしまいました。」


そこまで一息に言った彼女はそこで呆然とする私に気づいたようで、私に申し訳なさそうな目で見つめてきた。


私も何かを言おうと思い口を開くが、機能を停止した頭からは何の言葉も口には届かなかった。


「えっと…しの…さん大丈夫…ですか?」


口をパクパクと言葉ではなく空気を出してる私をどうやら心配してくれたらしい。彼女は戸惑いながら私を不安そうに見つめていた。


「えっと…あの…ソネットです…よね?あの、『盈月えいげつ』の…」


なんとかどうしても、どうしても確認したいことだけを口に出せた私は溶けそうな暑さも忘れて一心に答えを待った。


私の言葉を聞いて彼女は少し目を見開いて一瞬首を傾げてから、何かを思い出したようだった。


「あぁ!『盈月』ってあれですか?2年くらい前に投稿したやつ。あれ、聞いてくださってる方いるんですね!遊びがてら初めて作ったものだったので、すっかり忘れていました。その時の名前は確かソネットでしたね。えぇ、私がソネットです。」


その「遊びがてら初めて作ったもの」は動画投稿サイトで話題になっていましたよ。少なくとも、私の「頑張って何度も作り直したもの」とは比べ物にならない規模で。


思わず私は皮肉りそうになった。


「遊びがてら初めて作ったもの」に私は夢を折られたのか。心の中に住んでいた嫉妬心が膨らんでいく音がした。


「そう…ですか…。あの、凄く、ソネットさんの歌が好きだったので、お会いできて、私も、嬉しい、です。『真昼の校庭』そんなにお好きなんですね。そんなに好きになってくれる方がいらっしゃるとは思わなかったので、少し驚いています。ありがとうございます。」


日本語が変になって居ないだろうか。心配になりながら、バクバクと飛び出そうな心臓を両手で押さえつけた。


「お互いがお互いがを好きだったなんて!運命かもしれませんね!しかも、17歳と聞きました。」


少し間を置いて彼女は言った。


「お友達になってくださいませんか?」


私は今にも逃げ出したかった。彼女の目があまりにも綺麗だったから。嫉妬に燃える私が近づいては行けないような存在な気がした。


「押し付けがましいのは分かっています。でも実は、私はこの夏しかかこには居られないのです。一夏だけでいいので、憧れのしの先生とお話がしてみたいのです。お願いします。」


彼女不意に私に近づいて汗に濡れる私の両手を取ってきた。私はその圧に押され思わず頷きそうになる。


「私は、詩野は、ソネットさんが憧れるような人間ではありません。お友達になれるような人間でもありません。ごめんなさい。」


しかし私はその手を拒否した。

彼女は少し傷ついた顔をした。


そして、少し離れてから聞き取れるか聞き取れないかの小さな声でこう言った。


「私も、しの先生に憧れられるような人間ではありません。」


橋の下の陰った色の中で少しの沈黙が場を支配する。川の音と橋上を走る車の音だけが響き彼女も少し困っているようだった。


川の魚がちゃぷんと跳ねる。


その音に私は後押しされ声を出した。


「「あの、」」


二人共が手汗でびしょびしょの携帯を胸の前に掲げ、同じタイミングで同じことを言おうとした。


また微妙な空気が二人の間に流れるが、また2人は同じタイミングで笑い出した。


さっきまで水と車の音しか無かった河原に2人の笑い声が響く。そして、一通り笑ったあと彼女は言った。


「連絡先なら交換してくださいますか?」


まだ、笑いの余韻が残る私たちはトークアプリのIDを交換する。


「改めまして、鳴神奏です。しの先生」


彼女は携帯を大切そうに抱え、頭を下げた。


「先生はやめてください。ソネット…いや、奏さん。よろしくお願いします。」


私が手を差し出すと彼女は驚いてから服のポケットに急いで携帯をしまうと私の握手に応じた。


「よろしくお願いします!しのさん!」


とてもとても暑い7月5日の、放課後、橋の下で。それが私と彼女の初めての出会いだった。



私たちはずっと立っていた日向から日陰の段差に場所を移した。


「あの、奏さん?なんで私の住所というか、この場所特定出来たんですか?」


さっきの笑いである程度緊張が吹き飛んだ私は彼女に問いかけた。


「あぁ。私は親が少しお金持ちでして、まぁ、言うなれば金にものを言わせて、でしょうか。情報を発信する時は特定されないようにもっと気をつけた方がいいかもしれませんよ。ここの河原の写真とか上げてらしたじゃないですか。危ないですよ。あれ」


カバンから取り出した飲み物を飲もうとしていた私は背中に冷や汗が伝うのを感じる。


「住所までは分かりませんでしたが、ここの河原の場所はすぐに分かったので、会えるかなと思って来ました。すみません。」


申し訳なさそうな顔をしながら彼女は口に飴を放り込んだ。


「いや!私も憧れに会えたから全然大丈夫なん…ですけど!これからは気をつけます。とりあえず上げた写真全部消してこようかな。」


彼女は少し笑った。


「タメ口で良いですよ。良ければ奏って呼んでください。しのさん。」


そこからしばらく私たちは他愛もない話をした。

音楽にも小説にも触れず、ただの女子高生2人が楽しむような、友達のような時間を楽しんだ。

家族の話だとか、学校の話だとか、初めてあったはずの私たちは意外と相性が良いようだった。


話し始めてしばらくして、空が真っ赤に色付き出した頃、彼女は大きな伸びをしながら立ち上がった。


「もうちょっと話してたいんだけど、そろそろタイムリミットみたい。帰らなきゃ。実はこの後予定があるんだ。ごめんね。じゃ!」


彼女は背中のリュックを背負い直し階段の方へと歩いていく。しかし、階段に足をかけたところでこっちを振り返った。


「また明日私はここには来るけれどしのも来るの?その前に少し驚かせてしまうかもしれないけれど」


彼女は悪戯を計画しているような少し悪い顔で笑った。


「来るよ。毎日。放課後、橋の下に。」


私は手を振りながら答える。


「わかった。じゃあまた明日ね!放課後、橋の下で!」


そう言って階段を駆け上がって行った。が、残念ながら最後の段で躓いてしまい、華麗な退場とはいかなかったようだ。

脱げてしまったローファーを探したり割れてしまった携帯の画面を泣きそうな顔で見つめたりしながらなんだかんだ階段で五分くらい滞在し坂の上へと消えていった。



何を考えていいのかわからないまま彼女が消えていった坂をずっと見つめていると手に持ったままの携帯が震えた。


「やっと出た。あのねぇ、詩野。あなた今日塾の体験に行くって話してたの覚えてないの?あと30分しかないのにどこほっつき歩いてるの!まだ音楽で食べていくなんてそんな馬鹿なこと考えてるわけじゃないでしょうね!今すぐ帰ってきなさい。それだけで食べていけるほど音楽は甘くないって分かってるでしょ。わかった?音楽は趣味で続けなさい。」


電話越しの母は怒っていた。


「ごめん。ちょっと喋ってて忘れてた。うん。わかってる。家帰ったら間に合わないから場所も分かってるしその塾に直接向かうね。」


ひとつ大きなため息をついて返事もしないまま母は電話を切った。


私は飲みかけのジュースの蓋を閉めカバンに突っ込み歩き出した。



高3の夏。クラスメイトは続々と大学進学を決め受験勉強に精を出していた。

その中で私は諦めたはずの音楽にまだ縋っていたいのか、私の心は大学へ進学するための準備に向かえなかった。


翌朝、7月6日、金曜日。いつも通りの8時25分。友達なのか友達じゃないのかよく分からないクラスメイトと朝の挨拶を交わしたあといつもと同じ席に腰かけた。

少しうるさすぎる蝉の鳴き声とクラスメイトの雑談をBGMに校庭を走り抜ける生徒をただ眺める。今日も昨日と同じ日になるはずだった。


「そういえばさ、聞いた?転校生来るらしいね!」


「聞いた聞いた!4組でしょ!さっきちらっと見たけどめっちゃ可愛かったよ!」


「めっちゃ髪綺麗だし、お人形さんみたいだったよねー」


「名前、聞いたよ。えっとね、奏ちゃん、だっけ?」


私は音をたてて立ちあがった。クラスメイトの目線が私に集まるのが分かる。しかし、それどころではなかった。


目線を振り払って廊下に出た。多くの生徒が教室に吸い込まれていく中、私は隣の隣のクラス、4組の窓を覗いた。

予想通りと言うべきか、クラスメイトに囲まれ、楽しそうに話すのは奏。鳴神奏だった。


教室の窓から生暖かい風が吹き抜けた。



私のただならぬ様子に4組の人達の目が私に向かってくる。ただ、どれだけ待っても奏の目が私に向くことは無かった。

昨日何時間もお喋りを楽しんだことが嘘みたいに、不自然なくらいに奏は私に気づかない振りをした。


チャイムが鳴って、おしゃべりを辞めた生徒たちがぞろぞろと教室に戻っていく。私は何が何だか分からないまま自分の席へと戻った。


これはまるで、『真昼の校庭』の涼と瀬川のようだった。


1時間目、数学。

頭の中は奏の横顔でいっぱいだった。

2時間目、英語。

授業に集中出来ず先生に怒られてしまった。

3時間目、古文。

もう諦めてノートをとることをやめた。

4時間目、世界史。

私は授業をサボって屋上で携帯のメモ帳を開いた。


初めて自分が書いた小説『真昼の校庭』の感想を聞いて続きを書いてみたくなった。あの小説の主人公涼のモデルは私。ヒロイン瀬川のモデルは憧れのソネットだった。


『真昼の校庭』は死ぬことに憧れる涼と生きることに憧れる瀬川。音楽に生きることが出来なくなった涼と最後まで音楽に生きる瀬川。お互い好きあっていたが、同時に自分にはないものを持つ相手を憎んでいた。そんな涼と瀬川の一夏のヒューマンドラマ。


その続編を書こうと携帯を開いたはいいが、1文字も進まないままメモ帳とにらめっこをしていたら急に当たりが騒がしくなった。

時計を見れば昼休みに入ったらしい。


「あ、文月さん居た!先生が職員室来てってさ。4時間目サボったでしょー。勇気あるね」


私はまっさらなメモ帳を閉じ、職員室へと向かった。


「おぉ、文月。指導や。指導室先行っとけ」


私は進路指導室の椅子に腰かけまた、まっさらなメモ帳を眺めていた。

筆の進まないまま5分が経過した頃担任が紙の束を抱えて向かいの椅子に座った。


「文月な。4限目サボったな。まぁ本来俺が怒るべきはそこなんやろうけどまぁその事はええんや。お前、進路どうするつもりなんや?」


担任は私の目を見て言った。


「もちろん就職でもええよ。この学校でほとんど前例は無いけどな。もちろん俺は大学言って欲しい思っとる。文月はどう思っとるんや。もう、決めなあかんタイムリミットはすぎてるのは分かってるやろ。」


自分でもどうすればいいのか分からなくて下を向いた。担任は私の言葉を待っているのか組んだ手を組み換えるだけで口を開かなかった。


異様に目立つ秒針の音が長い長い1分半を懸命に走っていた。


「文月。文学部とかどうや?国語得意やったやろ。成績もそこまで悪くないし、全然入れる大学もある。文学部やったら今すぐに将来の夢を決める必要は無いしな。進路のタイムリミットって思ってるより早いんや。分かるな?」


先生は私に大学のパンフレットを差し出してきた。


「先生は文月を責めるつもりはないねん。進路決めるのって難しいし、決まらん生徒もいっぱい見てきたしな。文月も文月なりに悩んだりしとんやろ?でも、なんも言ってくれへんかったら先生も手伝えるもんも手伝えんのや。もちろん相談するのはほかの先生でもええよ。文月が喋んの苦手なのも理解してるつもりや。先生はな。生徒に不幸になって欲しくないんや。」


担任は優しい。大阪から来たという関西弁もきついものじゃなくて、先生って職業が好きなんだろうなって伝わってくる。本気で私のことを心配してくれてるのも伝わってくる。だからこそ辛かった。だらだらと過去の夢に縋ってしまう自分に自己嫌悪がどんどん膨れ上がっていく。

気づかないうちにぽろぽろと机が濡れて、嗚咽が漏れる。


「先生。ごめんなさい。もうちょっとだけ考えます。文学部も。来週の面談までには決めます。」


先生はもう今日は無理だと観念したのか、昼休み中はこの部屋にいていいことを告げると職員室に帰って行った。


自分でもなんで泣いているか分からなかった。でも、将来のことを考えると何故かいつも涙が止まらない。想像する未来に出てくる私は絶対に夢が叶っていないからだろうか。私は夢に縋るのは高校生までだと決めていた。


5限目 選択授業:化学基礎

私はさっき貰った大学のパンフレットをノートの上に広げていた。


私は何になりたいんだろうか?

私は本当に音楽がしたいのだろうか?

音楽に関わるものだったらなんでもいいんだろうか?

お母さんはなんて言うかな?

先生はなんて言うかな?

私に出来るかな?


お母さんに愛されて、良い先生と巡り会えて、あとは私がちゃんと決めるだけ。すっぱりと諦めるだけ。


頭ではわかっているのに、気持ちが追いついてこない。心のどこかでは私に音楽は無理だって分かっていたからこそ、余計に進路を決めることへの拒否感が大きくのしかかっていた。


放課後学校のある川岸から対岸を見ると奏が階段の一番下の段に腰掛けてい咳き込んでいる姿が見えた。

私は待たせてしまったら申し訳ないと少し急いで大きな橋を渡る。


橋の下にはいつも奏が先にいる。


階段に差し掛かると足音に気がついたのか奏が振り返った。


「しの!学校お疲れ様!驚いた?」


昨日と同じポニーテールが風に揺れる。


「驚いたよ。見に行ったの気づいてたんでしよ。なんで無視したの?」


奏の隣に腰掛ける。


「だって、私たちがどういう知り合いなのか説明できないじゃない」


奏は少し申し訳なさそうな顔をしながら鞄を開けた。


「お詫びにジュース買ってきたよ、飲む?」


私たちは夕日が真っ赤に染るまで、他愛もない話をした。



それから1週間。土日は昼の1時位から。平日は放課後。私たちは橋の下で色んな話をした。音楽と小説を不自然に避けながら、家族や昔あったことまで出会って1週間と思えないほどお互いの事を知った。


でも、楽しいと同時に奏への劣等感は募っていくばかりだった。


そして一週間後は進路決定のタイムリミットだった。


7月13日、金曜日。放課後4時15分。


私は一週間前と同じ椅子に座っていた。


担任は席に座っただけで目で自分から話すように促してくる。


「先生。文学部、行きます。音楽は、もう、辞めます。」


泣かないように、机の下で組んだ手を握りしめながら私はゆっくり言った。

先生は無言で頷くと手元の紙になにやら書き込んだ。


「そうか。決めてくれたか。よう頑張ったな。先生は音楽は別に諦める必要ないと思うけど、文月なりにいっぱい考えた答えなら先生はなんも言わへん。進路決定おめでとう。まだまだ辛いことあるかもしれへんけど先生着いてるからな。頑張ろうな。」


私が頷くと、面談は終わった。


私にとって音楽は生きる目的だ。しかし、かつてただただ好きだったはずの音楽はいつしか劣等感や嫉妬心を生み出す嫌なものになっていた。なのに、私の心は音楽を求めることを辞めない。やめたくてやめてくて仕方が無いのに、まだ心のどこかで音楽への好きが叫んでいる。


音楽好きだ。と言いながら私は音楽を聞く事が出来ない。なんで私には作れないんだろう。なんで私には歌えないんだろう。そんな思いで苦しくなってしまうから。こんな想いを抱えながら音楽を一生やっていくなんてこと私にはできっこない。だから、もう、私は音楽は諦める。どれだけ今音楽をやめて苦しくても、いつかきっと音楽を忘れられる。普通の人と同じように流行りの音楽について語り合える。素敵なシンガーをただ憧れの目で見られる様になる。そんな未来を作るために、大学進学を機に私は一旦全ての音楽から離れることを決めた。


進路指導室を出たあと、まっさらだったメモを開いて最初の1行を書き込んだ。


「さようなら。歌姫の夢を見るのはもう終わり。愛情だけだったはずの気持ちが気づいたら愛憎になっていた。世界でいちばん嫌いなのは瀬川。君だよ。」



いつもより少しだけ夕焼けが近い放課後に私は奏の前に立った。普段下ろすカバンも、今日は背負ったままで。


「奏。私、大学受験することにした。音楽ももう辞める。だから、奏と会うのも今日でおしまいにする。」


これが、私の答えだった。奏と会っていたらいやでも音楽を思い出す。私にとって奏は音楽の象徴だから。苦しさの象徴だから。


奏は取り出したジュースを手からぽとりと落とすと立ち上がって私の肩を揺さぶった。


「なんで!大学受験も音楽を辞めることもどうだっていいけど、それがなんで私ともう会わないことになるの?意味わかんないよ!」


奏は取り乱した。


「ねぇ奏。あなたもでしょ。学校では知らないフリ。放課後、橋を渡る私を見て歌い出す。そして、この場所でだけ毎日お喋りをする。ずっと思ってた。『真昼の校庭』みたいだなって。まるで、学校の裏庭で会う涼と瀬川みたいだなって。」


奏の腕が私の方からだらりと落ちた。


「ねぇ奏。私はあなたにとっての『小説』なんでしょ?あなたが諦めた『作家』の象徴なんでしょ?同じことを考えているんじゃない?あなたは私にとっての『音楽』で私はあなたにとっての『小説』。だから、小説との接点が欲しいあなたと違って、音楽との接点が必要なくなる私に奏との接点は必要ない。」


奏は呆然として階段に座り込んだ。

私だって酷いことを言っている自覚はある。でも、きっと私たちは出会うべき縁では無かったのだ。お互いがお互いに歪んだ感情を持っていることは1週間触れ合っているうちに何となく分かっていた。

少しだけそんなことないって反論して欲しかったけれど奏も多分、私の言っていることが図星だった。


「友達…だよね?私としのは友達だよね?」


私はもう奏を奏として見ることが出来ないことに気がついていた。


「ごめん、ソネット。私は友達にはなれなかった。」


何も言えないまま、奏の泣いている顔を見るのが辛くて私は階段を駆け上がり家への道を急いだ。道行く人が拭いもしない私の涙を見て少し道を開けてくれる。

家へ着いた私は時計の針の音だけがなる部屋で少しだけ汚れた携帯のメモ帳を開いた。


7月14日、土曜日。午前3時20分。

私は小説投稿サイトにしのとして2作目を投稿した。


『放課後、橋の下で。』


『真昼の校庭』の後日談。

屋上の歌姫、瀬川が亡くなったあと、涼が生きるその後。


「私は瀬川が病にかかっていることを知っていて、何も言わなかった。なぜなら、私は瀬川が大好きで、大好きで大嫌いだったから。」


「7月14日。今日は私最後の日だ。私は今日やっと瀬川の呪いから解放される。幸せになれる。」


涼は自殺を敢行するが死にきれず、その怪我が原因で瀬川との記憶を失う。社会人になった涼は生きる気も死ぬ気もない、瀬川と出会う前の涼へと戻っていた。


私はソネットに対する思いを涼に託して、この小説で一気にまとめあげた。


7月14日、私は音楽と決別した。


それから、私は受験勉強に打ち込んだ。塾と学校をひたすら往復し、もうあの橋の下に寄り付くこともなかった。人よりスタートが遅かったぶんこの夏で取り戻さないといけない。そんな思いを取り繕っていたのかもしれない。


7月31日、火曜日。

SNSの音楽用のアカウントにソネットからのメッセージが来た。


「しのが私ともう会いたくないって言う気持ちはわかった。ごめんなさい。迷惑をかけちゃったね。『放課後、橋の下で。』も読みました。私の体調が悪いことも気がついてたんだね。私は多分、今年の秋の真っ赤な紅葉も冬の真っ白な雪も見れないってわかったの。最後に私がいた記録をしのと作りたい。」


「本当はメロディも伴奏も歌詞も一緒に作りたかった。けれど、しのとはもう会えないから、伴奏は勝手に作っちゃった。1番は私。しのが2番。私への罵詈雑言でもいい。どこかにアップロードしなくてもいい、しのの心の中だけでいいから作品としてこの世界に存在させて欲しい。今まで本当にありがとう。」

ふたつのメッセージと共に伴奏が入っているであろういくつかのデータが添付されていた。


私は見ないふりをした。



それはとても暑い日だった。摂氏37度。8月16日、木曜日。

ソネットとの出会いを思い出させる暑さだった。

私はいつも通り無音のイヤホンを耳につけて、塾の自習室から家へと向かっていた。


とめどなく流れる汗と、暑さを助長する蝉の声。溶けてしまいそうな体を何とか保ちながら玄関をあけ、カバンに閉まっていた携帯を取り出す。


ソネットとの別れから1ヶ月。

私は気持ちに蓋をするのに慣れてしまい、ソネットへの劣等感を少し忘れてしまっていた。

部屋のベットに寝転びふと私は16日前に届いたソネットからの音源を開いた。


私は伴奏がすぐに流れ出すかと待っていたが流れたのは伴奏ではなくソネットの声だった。


「こんにちは。詩野。本当はこれも全部ちゃんと文字で送ろうと思っていたんだけれど、最近手の震えが出てきちゃって、上手く文字が打てないの。だから、聞きたくないかもしれないけれど、声で伝えるね。」


「まず、しのが最後に私に言ったこと。その通りだった。私はあなたを私が届かなかった最高の『小説』として見てた。心のどこかでそれを分かってた。自分から友達になりたいなんて言っときながら、自分の中から小説を失わない手段にしてた。」


ソネットの声の後ろ側では病院の院内放送が流れていた。


「私はね。あなたの事が憎かった。『真昼の校庭』を読んで勝てないって思った。たとえこの病気がなくってお話を書くことが出来たとしても、私の夢はあなたのお話を読んで終わっていた。だから、憎くて憎くてしょうがなくって。『放課後、橋の下で。』を読んで、思うんだ。私たち逆だったら良かったのにね。でも、私は瀬川じゃない。瀬川は涼への思いを告げられないまま死んだけれど、私はあなたにちゃんと思いを伝える。だから、しのは涼にはならないで。ワガママだけれど私に縛られて生きて。」


涙と鼻水をすする音と共に少しの間があった。


「大っ嫌いだったよ。しの。そしてごめんなさい。詩野。」


ボイスメモのデータはここで終わっていた。


奏の体調不良に私は気づいていた。いつも私より先に橋の下にいるのは、学校から車で送っていってもらっているから。

激しい運動が出来なくて、体育はいつも見学していることも。

トイレで奏が戻していたことも。

体がどんどんと言うことを聞かなくなっていることも。



私は気づいたら手に抱えた携帯だけを持って外に飛び出していた。

奏に会わないといけないと思った。

まだ私の想いを伝えてない。この大嫌いで大嫌いで仕方の無い気持ちも、大好きでずっと忘れられない気持ちも。

恋なんて呼べる甘いものじゃなくて、愛なんて呼べるほど綺麗なものでもないこの気持ちを伝えなきゃ終われないと思った。


汗も涙も気にせず自転車を漕いだ。院内放送で流れていた病院名。そんなに遠くはない。信号も待ち遠しい。奏はまだ生きているだろうか。なんて言えばいいかな。ちゃんと伝わるかな。


病院の駐輪場の端っこに自転車を止め、鍵もかけずに受付に走る。


「鳴神奏の病室を教えてください。」


肩で息をする私を受付の看護師さんが怪訝そうな目で見つめる。

少し待ってくださいね。と看護師さんが受付を離れた時、後ろから方を叩かれた。


「詩野さん、だね。私は奏の父です。奏はさっき、ついさっき、亡くなりました。あなたがもし病室を訪ねてきたら、案内するように頼まれています。」


呆然とする私の手を引いて、奏の父と名乗る人物は歩き出した。

この時のことは微かにしか思い出すことが出来ない。

とにかく覚えているのは、1ヶ月ぶりに会う奏の少し痩せた、でも美しい姿だった。


「詩野さんに会う前の奏は本当に辛そうだった。私たちが奏の小説家になりたいという夢を応援しているうちにプレッシャーになっていたのかもしれない。」


奏の父は後に私に語ってくれた。


「詩野さんとの1週間は奏の甘くて苦い思い出になった。とずっと話してくれた。最後はきっと苦しかっただろうけどね。詩野さんが来てくれるかもしれない。詩野さんに会いたいってずっと言っていた。」


私が覚えているのは奏の綺麗な死に姿だけで、どうやって帰ってきたのかもいつの間に帰ってきたのかも覚えていない。

気づけば私は部屋のベットでただぼおっと奏のことを思い出していた。


私は奏から送られてきていたボイスメモではない方の音源を流した。奏の人生でふたつだけの音楽は私が人生で積上げてきたどの音楽よりも美しくて、綺麗な声だった。

私が、憧れて、絶望して、諦めた声だった。

そしてもう二度と聞くことが叶わない、最後の奏の歌声になった。


止まったはずの涙がまたポロポロとこぼれ出し視界がクリアになることは無い。けれど、私はこの曲を完成させなければいけないと、何かに突き動かされた。

捨てられなかった作詞ノートに涙のシミを作りながら歌詞を書きなぐった。


タンスの奥にしまい込んだ宅録用のマイクを久々に立てる。


1度鼻水を噛んでから私は深夜まで、歌い続けた。


空白だったタイトルには『遺作』と入れた。


満足のいく歌を録れて、ミックスをして、1本の動画として完成した頃にはもう、奏を知らない太陽がさんさんと輝いていた。


この曲の始まりはしのとソネットだった。でも、今手元にあるこの曲の終わりは、詩野と奏だ。だから、この曲のクレジットにはソネットではなく鳴神奏と表記したかった。だから、私は奏の父に電話をかけ許可を取った。


この曲を動画投稿サイトにあげると、私はアカウントをログアウトし、作詞ノート、マイク、全ての音楽をゴミ袋にまとめ母に手渡した。


風の噂で聞いた。『遺作』はどうやらたくさんの人に聞いて貰えたらしい。


しかしもう、奏はいない。

もう、ソネットもいない。


私はその後、大学の文学部に進学、インターネットにあげた小説が幸いにも出版社の方の目に留まり、本を出すことになった。


現在は専業の小説家として奏の夢を叶えることが出来た。遺言通り、私は奏に縛られている。

あれから音楽には触れていない。聞くこともないし、話すことも無い。でも、時々不意に頭の中で奏が1人歌っている。私にはそれで十分だった。


私の奏に縛られてここまで来た生き方が幸せなのか不幸なのか。この話がハッピーエンドなのかバットエンドなのか。私には分からないし一生わかることもないだろう。そして、分かろうとも思わない。


ifの世界線はどこまでも広がっている。でも、今、現実にあるこの景色は私と奏が選びとった世界だから。これが答えだ。


でも、この記憶を書ききった時点で奏の夢の作家として生まれたしのは辞める。私は明日から自分の夢として、文月詩野ふみつきしのとして作家になることを決意してこの筆を取った。


摂氏37度のとても暑い夏。これは私が作家を目指すこととなった理由を綴った自伝である。

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