沈黙の森の魔女

ユーレカ書房

十二歳

十二歳


 ――足が痛い。アルドは朦朧とする意識の中でただそれだけを考えていた。

 舗装されていない森の道は険しく、木立ちの暗がりやごつごつした岩は、アルドと幼い弟を口を開けて待ち構えている怪物のようだ。


 もう何日も、ろくに食べていない。もう何日も、まともに眠っていない。森に入ってからというもの、周囲には食べられそうな木の実らしいものや柔らかそうな苔がいくらも見つかった。だが、毒があるかもしれないと思えばむやみに手を伸ばすことはできず、獣に襲われるかもしれないと思えば落ち着いて横になどなれなかった。


 世話になっていた教会を逃げ出したのは、五日前だ。アルドたちがそうしたかったわけではない。夜遅く、松明を持った暴徒が徒党を組んで襲ってきたのだ。優しかった神父は殺され、彼らの家だった教会は燃やされた。シスターが裏口から逃がしてくれなければ、今頃は兄弟も一緒に灰になっていたことだろう。だが、一時しのぎの逃避行で命をつないだところで、結局こんなふうに森をさまようことになるのなら、あの場でみなと一緒に燃えていた方がマシだったかもしれない。


 最初こそ泣いたり喚いたりして自己主張を怠らなかった弟は、三日を過ぎたあたりから口数が少なくなり、今では黙って兄に手を引かれるだけになっていた。泣く元気もないのだ――アルド本人がそうであるように。


 ふいに、つないでいる手を後ろにぐっと引かれた。


 「……ブレン」


 久しぶりに出した声はかすれていて、ガサガサしていた。弟は――ブレンは膝をついた。いい加減限界が来て、ぐずりたくなったのだろうか? いや、そうではなかった。


 ブレンには意識がなかった。アルドが手をつないでいるから、辛うじて顔が地面からわずかに浮いているというだけだ。アルドはブレンを仰向けに寝かせたが、一度膝をついてしまうと立ち上がろうとしただけで眩暈がした。彼はブレンの隣に身を横たえ、目を閉じた。


 これで死ぬのだと思った。アルドまで動けなくなっては、もう水を持ってくることもできない。頬につけた土はひんやりと冷たく、思いがけず心地よかった。……


 「大丈夫? 」


 天使さま。薄く目を開いたアルドは、彼女を見てそう思った。目の前にしゃがんで、静かな目でこちらを覗きこんでいる黒髪の女性は、いつか絵で見た天使そのものだった。


 そのあとのことは、アルドの記憶には残らなかった。


 「……こっちの小さい子の方が深刻そうね」


 そんな声が、わずかに鼓膜を揺らすのを感じただけで。



 一体、どのくらいの時間が経ったのだろう。


 アルドはふいに目を覚まし、温かい毛布の中に起き上がった。生きている。見慣れない家の中ではあったが、天国ではなさそうだ。こんな質素な天国があるものか。


 「……! 」


 隣の寝台では、ブレンが寝ていた。改めて明るい中で顔を見ると、死人のようなひどい血色だ。だがブレンもまた、確かに生きていた。


 「目が覚めた? 」


 突然声をかけられ、アルドは肩をすくませた。勝手に鼓動が早まり、冷や汗が噴き出す――目の前で繰り返された殺戮の残滓が心に焼きついて、親切にされているということが理解できても体は他者に対して拒絶を示した。


 そばに寄ってきたのは、黒髪の若い女性だった。優しく、静かな顔。改めて見てみれば天使ではないことは明らかだ。だが、こちらを見つめる黒い瞳は夜空のように深く澄んでいた。


 彼女はアルドがものも言えずに自分を見つめているので、人間を恐れる小鳥に囁きかけるような調子で言った。


 「よく寝ていたわね。何か食べられるようなら、温かいスープがあるから持ってきてあげるわ」

 「………」


 なんと返事をしようとしたのか、とにかく答えようとした声は声にならなかった。喉が痛み、うまく話せない。彼女はほほえんだ。


 「しばらくちゃんとしたご飯を食べていなかったんでしょう? 頷くか、首を振ってくれればいいわ――どう? 食べる? 」


 アルドは頷いた。手が震え、体が強張る。だが、いまやまともな食事は何よりも重要だった。逃げている最中はそれどころではなかったが、〈温かいスープ〉と聞いた途端痛いほどの空腹を感じた。


 じゃあ、ちょっと待っててね。彼女は戸口を出て行きかけ、ふと思い出したように振り向いた。


 「わたしはヨウ。本当の名前はもっと長いけど、この国の人たちにはうまく発音できないから」



 アルドとブレンは、こうしてヨウに拾われた。ヨウは近くの村のものから〈森の魔女〉と呼ばれていた――森に入って薬草を取り、病気や怪我の治療をしてやったり、お産の手助けをしたり、死者の魂を弔ったりして暮らしているらしい。


 ブレンは一連の騒動から受けた衝撃によって深刻な傷を心に受け、笑っていたかと思えば突然泣き出すといった不安定な様子を見せたが、それは一時的なものだった。ブレンはあっという間にヨウになつき、教会で修道女を慕っていた以上にヨウを慕うようになった。まるで、姉か母を愛するように。


 一方、アルドは一緒に暮らすようになってしばらく経っても、なかなかヨウと打ち解けられなかった。彼女のことが信用できなかったとか、気に入らなかったとかいうわけではない。むしろ、血のつながりもない自分たちを何のためらいもなく保護し、世話を焼いてくれているということには感謝する以外になかった。


 だが、アルドはブレンとは六つも歳が違う。ブレンが手放しでヨウに甘えるのと同じような振舞いは、アルドにはできなかった。ヨウからすれば、どちらも子どもに見えるに違いない。だが兄として弟を守らなければともっと幼い頃から心に刻んできたアルドにとって、今さら年相応の振舞いを自分に許すことは難しかった。


 兄弟ふたりで森に出るヨウについていき、彼女が薬草を集めるのを手伝うのがこのところの日課になっていた。しかし、ブレンは一時間も経たないうちに他のことに気を取られていつの間にかどこかへ遊びに行ってしまい、泥だらけでにこにこしながら戻ってくるのが常だった。


 この日も珍しい色の蝶を追ってあっという間に木立ちの中に消えたブレンを見送って、ヨウがアルドに言った。


 「アルドも遊んできていいわよ」

 「僕はいいんです」


 アルドは目の前の薬草を逃さず摘みながら答えた。ブレンとふたりで逃げていたときはあれほど恐ろしく見えた森の中も、ヨウに歩き方を教わっている今となっては少なからず親しみを覚えつつあった。


 ヨウは眉を下げたようだったが、正確にはどうだったか分からない。アルドはヨウと向かい合うと、なぜかいつも彼女の顔がまともに見られなかった。


 「そんなにわたしを手伝おうとばかりしなくてもいいのよ? そりゃあ、手伝ってもらえれば助かるけど」

 「ブレンはまだ小さいから、ああやって遊んでる方が自然です。僕は、兄さんだから」

 「兄さんだから? 」

 「……兄さんだから、しっかりしないと」

 「――アルド」

 「はい。……ん」


 呼ばれ、振り向いた唇に赤い木の実を押しつけられ、アルドは思わず口を開いた。木いちごだ。酸味のまさった味に知らず知らず眉が寄る。ヨウは自分でもひとつ口に入れ、彼と同じように眉を寄せた。


 「あら、思ったより酸っぱかったわね……色は綺麗なのに」

 「……ヨウさん……」

 「ごめんごめん。まあ、せっかく見つけたんだから摘んでいってジャムにしてみましょう。手伝ってね、お兄ちゃん」


 ヨウは実に自然な仕草のうちにアルドの頭をぽんぽんと撫でた。アルドは彼女の笑顔からそっと目を背けた。


 「……子ども扱いしないでください」

 「あら。〈子ども扱いされたくない〉っていうのは、子どもの言うことよ」

 「僕は子どもじゃない」

 「そうね。一生懸命、ブレンを守って逃げてきたんだもんね」


 ヨウの手はアルドの頭から離れていかなかった。優しい指先が髪を撫でているのを感じる――振り払うこともできるのに、なぜかそうはできなかった。


 アルドが大人しくしていると見て、ヨウはゆっくりと彼を抱きしめた。アルドはやはりじっとしていたが、それは驚いて何もできなかったからなのだ。こんなふうに抱きしめられるのは初めてだった。相手がブレンなら彼は抱きしめてやる側だし、教会の人々はみな優しかったが、崇高な人間愛を掲げて厳しい節制をみずからに強いている彼らは、体温を分け合うようなふれあい方はしなかった。


 「あなたがいなかったら、ブレンはきっと助からなかった。――わたしね、あなたを子ども扱いしたいわけじゃないの。子ども扱いするにはしっかりしすぎてるしね。ただ、見てるとどうしても甘やかしたくなっちゃうのよ。許してくれる? 」

 「…………」


 アルドは返事をしたかったが、訳も分からず声が詰まった。この人は、なんて温かいんだろう。彼女を抱き返すことも忘れて呆然としたまま、アルドはただヨウの温もりを感じていた。


 「アルド。――本当に、よく頑張ったわね」


 彼女に気づかれないように。アルドはそう努めたが、無理な話だった。声を上げることはしないで済んだが、涙は止まらなかった。ヨウを抱き返したかった腕は彼女の背をまともに包むこともできず、しがみついているようにしか見えないことは明らかだったが、そんなことはもはやどうでもよかった。……


 この日以降、アルドは以前よりいっそうヨウに従って森を歩くようになり、真剣に彼女に師事するようになった。


 もっとも、このこと自体はさほど驚くべき変化というわけではなかった。活発で明るいブレンとは対照的に、アルドはもともと聡明で落ち着いた性格をしており、ヨウのしている仕事と相性がよかったからだ。ブレンが木立ちを駆けまわって体を鍛えている間に、アルドは森に生きるあらゆるものたちを見分け、どのように役立てたらいいのかを学んだ。


 アルドがもっとも大きく変わったことは――弟のブレンでさえ当初は


 「兄ちゃんどうしたの? 」


 と不思議がるほど変わったことは。彼がヨウに向かって笑いかけるようになったということだった。


そして、いつしか数年が経った。

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