第33話 嘆き女
「恋、とは、どういうものなのだろうか?」
何を質問されたのか、その理解に
目の前の人の形をした
人間だった頃ならいざ知らず、今の彼女は目の前の存在をほぼ正確に把握していた。
恐らく神に類するか、それよりも上の可能性もある。
折角名を名乗ってくれはしたが、その名を呼ぶのも烏滸がましく感じるほどの存在だ。
たくさんのものを知り、たくさんの時を過ごしてきたであろう彼女の質問が、まさか恋についてだなんて。
「……まあ」
「まあ、まあ、まあっ――!」
久々の恋バナだ。未だ迎えに来ない薄情な恋人に対して嘆いている場合ではない。
今はそれよりも目の前の彼女だ。
この上位存在の憂いに満ちた表情を見ればわかる。
彼女は知識としての恋ではなく、経験としての恋について知りたいのだ。
己の恋について語り、彼女の拙い恋について聞き出す。こんなオイシイ機会はない。
そう、拙い恋だ。
彼女が恋を知ろうとしているのは、恋をしたい相手がいるという事だ。
もしかしたら、彼女の連れてきたあの怖そうな鬼の男かもしれない。いや、絶対そうだ。
「あなた様はどなたが気になる方がいらっしゃるの?」
早合点はいけない。そう思い、ドキドキしながら美しいひとに訊いてみた。
鼓動はすでにない筈なのに胸が高鳴って仕方ない。
「きに、なる、というか、その……」
視線を斜め下に向けて言い淀み、口の中で言葉をもごもごさせる。
その初々しさといったらない。
もう、その光景だけで恋バナの予感に期待が高まる。嘆きの源泉が干上がりそうだ。
もうこれは上位存在がどうこう言っている場合ではない。対等な女同士の語らいで洗いざらい聞き出すしかない。
こうしてはいられない。
「フェイ様、フェイ様、お相手はご一緒のあの鬼の方?」
ぴくり、と肩が揺れる。図星だ。
角が少々気になるが、あれは大変見目の良い男だった。
彼女自身の好みからははずれるが、悪くはない。あの冷たく鋭い眼差しが、この
白飯5杯はイケる。
食事自体の概念は変わってしまったけれど、気分の問題だ。
彼女は生前、恋愛小説の愛読者だった。
特に身分差はいい。開きがあればあるほど興奮する。自身の境遇も相まって大好物だ。
そんな恋物語がリアルで、今目の前で起ころうとしているのだ。
いや、起こしてみせる。
この、自覚の薄そうな彼女に自覚を促すくらいはして見せる。
これは不敬では決してない。
嗜好と実利を兼ねた恋のキューピッドだ。
「まあ、まあ、まあ、フェイ様はあの鬼の方に恋を?」
「ち、ちがう! その、だ。偶然、結果的に、求愛を受け入れてしまって……」
求・愛!!
なんて素敵な響きだろう。
あの見るからに不愛想で怖い男が畏れ多くもフェイ様に求愛し、尚且つ受け入れられたなどと。
しかも当の彼女もまんざらでもないご様子。
もし、生きていたなら本を一冊書き上げて周囲に布教していただろう。
生前の同好の士の顔が次々と思い出される。
その誰もが満面の笑顔でサムズアップしていた。
生前の彼女はミーハーだった。
これはもう、応援するしかない。
フェイの強調した『偶然』と『結果的に』という言葉はもはや
§
ヒトの中でのイメージは陰鬱で常に悲しんでいる。主に男に裏切られたり、子を亡くしたりと、とにかく深く強い嘆きを持って死んだ女が
目の前の女もそうだ。
身分違いの駆け落ちの末に追い詰められ、白霧の峡谷に逃げ込んだ。
怪我をして動けなくなった女に男は必ず迎えにくると言ったきり姿を消して戻らず、その言葉を信じて残って待ち続け、一人寂しく死んで化生となったのがこの
恋人は結局戻ってはこなかった。恐らくこの峡谷のどこかで息絶え、骨も残っていない事だろう。
彼女の為に助けを呼びに行ったのではない。この峡谷の恐ろしさを肌で感じ、足手まといとなった彼女を見捨てて逃げたのだ。
二人でここに逃げ込んでおきながら、彼女を背負ってでも助けようとせず、ここに置き去りにして、一人で逃げようとするなど酷い話だと思う。
どちらにしろ、二人は助からなかっただろうが、それでも彼女は独りで死ぬ事はなかっただろう。
彼女は今も尚、迎えにこない恋人を想って嘆き続けている。
その筈なのだが……。
私はひどく困惑した。
最初に出会ったときは確かに
愛ゆえに深い嘆きに囚われた憐れな化生。
それが今、私の質問に対して瞳を輝かせ、ものすごい食いつきを見せている。
何故か、少し前の小さなザイを相手にした時の自分自身を見ている気持ちになった。
ちょっとやるせない。
彼女は私がザイに対して恋をしたのかと問うたが、答えは否だ。
そもそも恋というものを知らないから教えを乞いにきたのだ。
実際にその身を以て恋を知る化生に。
徐々に変わりゆく私の内面にいろんなものが追いつかない。
心はいつももぞもぞするし、跳ねるし、暴れるし、驚きもする。
それを起こすのはいつもザイだ。
そこから逃げ出したいのに、何処へ逃げればいいのかわからない。
静かなところで一人考えたところで答えはでないし、その感情を何と表せばいいのかさえもわからない。突然ひょっこり顔を出したそれの形を確認しようにも、手の中をすり抜けてしまう。
今の私の中は不定形でもやもやしたものでいっぱいだ。
整理しようにもどのように手をつければいいのかわからない。
きょうだいはかつての私の中にあったもの。
人間の頃の私はどうやってこれらを身の内にうまく収めていたのだろうか。
そんな己の形容しがたい変化に頭を悩ませていた時に、人里で『恋』という言葉を聞いた。
恋ならば知っている。ヒトが使う『好き』の一つだ。男女が番いたい相手に抱く感情だ。
ヒトの『好き』にはいろんな種類がある。
私がザイに抱く感情も『好き』だ。だがこの好きが一体どの『好き』に当たるのかが分からなくなってしまった。
最初は見た目に反する中身の愛らしさに惹かれた。
最初ザイに抱いたのは確かに他のヒトの子に対するそれとは違っていた。
三年離れ、再会した時には既に大きいザイだった。けれど、小さいザイに抱くそれとそれほど変わらないものだと思っていた。
そうして共に過ごす内、大人になったザイの事もやはり好きだが、子供の頃のそれとは形は変わってしまった気がする。
だけど、番う相手に抱く好きとは違うのだと思う。
そのとき、ふと、思ったのだ。
『恋』の『好き』とは一体どんなものなのか。
それを知ったなら、このたくさんの感情の中のいくつかの『好き』の形の糸口は掴めるのではないか、と。
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