第7話 変な女に関わったせいで俺がおかしい
地面に木の実や果実を置いた女がこちらへ振り返る。
「では、身体の調子を診る」
細い指が伸ばされる。
身体が強張る。
指が、ザイの額の手前で止まった。
「触診だ、妙な事はせぬよ」
笑った女の顔に柔らかさが増した。
「そうだな、まずそこに座れ」
不本意ながらも腰を下ろし、女の顔を見上げた拍子にひんやりとした柔らかな手が額に触れる。
ザイの鼓動がひとつ跳ねる。
女の顔を直視できず、かと言って具合を確かめる手に顔を動かす事も出来ず、視線だけ下へ向ける。
女の指が角を撫でる感触にどこか落ち着かず、身体に力が入る。
「すまん、つい、な」
「いや」
ザイの様子を察した女の指が離れていく事に名残惜しい気持ちになりながら、小さく答えた。
空いた手が今度は頬をなで、首の脈に触れ、止まった。
「毒の影響もあるが、かなり疲労が身体に溜まっているようだな。今日一日は大人しく寝ていろ」
「この、黒の森の只中でか?」
「そうだ。昨日言った通り、この森は今閉ざされている。私がこの地を落ち着かせるまでこの森からは出る事はできぬ。森の獣や魔物どもは休眠状態にある。こちらが無理やり叩き起こすような真似をせん限りは襲ってくる事はない」
女の目を見るが嘘を言っているようには見えなかった。
森の空気は相変わらず静かで、鳥の声すら聞こえない。
それが女の言葉が真実である事を物語っているのだと彼の本能の部分が告げていた。
「外は何かと忙しかろう、良い機会だと思って羽を休める事だな」
そういって女はザイの傷を確かめ、必要な箇所には薬を塗り直し、包帯を取り替える。
そして仕上げとばかりに鼻を衝く丸薬を飲まされた。
咄嗟の事に抵抗できずに喉すら刺激するあまりの苦さに大きく咽れば、女に水を差しだされ、それをひったくるように奪い、飲み干し地に伏した。
「おまえ……!」
大きく肩で息をして睨めば女はコロコロと鈴の鳴るよう声で笑った。
「苦い薬は苦手か、やはりお前は子供だな、ザイ」
女の言葉にザイの肩が揺れた。自分でもその反応に驚いた。
「子供」という言葉にではなく、名を呼ばれた事に動揺した。
「どうした、ザイ?」
こちらを気遣う声音で名を呼ばれ、胸のあたりをぎゅっと握り込む。
「ザイ?」
名を呼ばれる度に、女の、フェイの少年を呼ぶ名が心地よく、むず痒く、胸にしみ込んでいく。
厄介事を避ける為、最低限しか人と関わりなく過ごしてきた。
どこで聞きつけたのか、見知らぬ女が不躾に名を呼んでくる事もあった。
数は少ないながらも、気の良い知り合いが名を呼ぶ事もある。
だが、ザイにとっては名とは自身を表す記号だった。
時折不快感を感じるものもあったが大半はただの少年を表す呼び方にすぎない。
厄介事を避ける為なら名を捨てろと言われれば捨ただろうし、名を変える必要があれば躊躇いなく変えた。
(なのに……)
彼女に名を呼ばれると捨てられない、変えたくないと思ってしまう。
昨日会ったばかりだ。たまたま命を助けられ、怪我の手当もされた。
ただ、それだけだ。
けれど、彼女は真っすぐザイを見る。
角も瞳も容姿も関係ない。
触れる手から伝わる気遣いと優しさは初めてのもので戸惑いしかなかった。
角を撫でる指は心地よく、もっと撫でてもらいたいと思ってしまう。
そうして優しい声で名を呼んでもらえたなら……。
「ザイ?」
訝しむ彼女の声に我に返った瞬間、カッ、と頭に血が上った。
「とりあえず!!」
突然少年のあげた叫びに彼女が驚きに動きを止めたのが気配で分かった。
けれど、それにどう対処すればいいかわからずザイは顔を伏せたまま混乱していた。
「おれは……大丈夫だ……」
何が大丈夫なのかザイ自身さっぱりわからない。
熱が集まった顔は上げられない。自分がどんな表情をしているかも分からなかった。
「そうか、私はしばらく森の中を確認してくる。毛布と枕はそのままにしておく。ゆっくり休め」
顔を伏せたザイの側にいた彼女が立ち上がり、足音が徐々に遠ざかっていく。
「………………フェイ」
くぐもるような小さな呟き。
足音がぴたりと止まった。
「なんでもない」
フェイが、小さく笑いを零したのが分かった。足音は小さくなり、ザイの耳がその足音が聞こえなくなった頃、ゆっくりと身を起こし、両手で顔を覆い呻いた。
「俺は……、何やってんだ」
顔は未だ熱を持ったまま冷める気配はない。
ザイはその熱を発散させるために力の限り叫びたい衝動に駆られた。
だが、それをやってしまえば間違いなく彼女の目に浮かぶのは奇異の目だ。
異形に対するものではなく、精神に異常を来した者に向ける目だ。
(俺は一体、何を思った?)
ただ、あの細い、滑らかな指に角を撫でられ、名を呼ばれたい。
ただそれだけだ。
たかが額に生えた角、何度となく確認するように触れてきた。顔を洗う、髪をかき上げる。そのたびに手に触れるそれは日常の中で特に意識する事はない。不躾な人間相手であれば警戒もするが、ただそれだけだ。
何度も言うが本当にそれだけだ。
なのに、この心に湧く疚しさは何だと言うのか。
落ち着かない気持ちとグルグルと回る思考に疲れ、ふと、目をやれば、毛布と枕代わりに丸められた外套が目についた。
思いだしたように身体が休息を訴える。先ほど飲まされた薬の影響かもしれない。
普段はこんなに疲れや身体の怠さが出る事はない。
彼女の診立ては正しいのだろう。
ザイは毛布を被って身を横たえた。
外套から香る匂いは落ち着くような落ち着かないような気持になる。
「フェイ……」
彼自身が彼女の為に送った名を口の中で転がすとだんだん心が落ち着いてきた。
少年は睡魔に負け、眠りについた。
何故か不安はなかった。
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