第33話

 旅館へと戻り、日も落ちかけて暗くなってきた頃――

 

「ゴホッゴホ……ゴホッ……ズズッ」


 俺は寝込んでいた。


 寒空の下、長時間気絶していたのが悪かったのだろう……風邪を引いてしまったのだった。

 頭痛はひどく悪寒もする。咳、鼻水も止まらない。あと喉も痛い。

「三七,八度……完全に風邪だね」

 体温計を見てアリサさんが言う。

 三八度近いって結構高熱じゃないか……最悪だ。

 まだ旅行は明日も残ってるっていうのに。

 でも、これは無理かな、明日。

 不幸中の幸いなのは見るべき観光地は既にあらかた見て回っていることだろうか。

 これが初日だったら旅行としては最悪の思い出になっていたことだ。

 風邪を引いてしまった以上、考えてもどうしようもないことだ。俺は考えるのを止め、とりあえず……

「アリサさん……離れてた方がいいよ」

 すぐ傍で看病を続けてくれるアリサさんに言う。折角の旅行なのに移してしまうのは忍びない。

 二人揃って寝込むとか洒落にならん。

「気にしないで」

「いや、でも……」

「いいから」

「あの……」

 アリサさんは俺の額を掌で触れた。

「私がしたいからしてるの。黙って看病されてればいいんだよ」

 そう言って微笑んだ。

 アリサさんの手はひんやりとして気持ち良かった。

 俺はそれを感じながら目を閉じる。

「熱いね」

 アリサさんが額に触れたまま言うが、俺はそれに返事はしなかった。

 額に感じる冷たさが心地よくて俺の意識は段々と薄れていく。

 そんな中で『結局離れてくれなかったな』と思っていた。

 でも、ま、アリサさんが風邪で寝込むとか想像出来ないけどな。


 次に目を覚ましたとき、部屋には俺以外の気配は感じなかった。首だけ動かして辺りの様子を窺ってもアリサさんの姿は見つけられない。

「どこ……行ったのかな」

 なんとはなしに呟いてしまう。

 風邪を引くと一人でいるのが寂しく、不安になってしまうのはなんでなんだろう……身体が弱って不安になるからかな。

「ずっ……」

 鼻を啜って、枕元に置いてある携帯を手に取る。

 辺りは既に真っ暗で、自分がどれだけ眠っていたのか気になったから時間を確認しようと思ったからだ。

「七時……か」

 一時間以上は眠っていた事になる。

「そんなもんか」

 実際、もっと寝ていたような気がするんだけどな……昼に長時間気絶したせいで深く眠れなかったのかもしれない。

「トイレ行こ……」

 俺は布団から起きて――ふらついた。壁に手を置き、倒れるのはなんとか防いだ。

 そのまま壁で身体を支えながらトイレへと向かった。


「…………ふぅ」

 トイレから戻った俺は部屋の電気とテレビの電源を点けて布団へ戻った。テレビを点けたのは何の音もないと余計寂しくなってしまうと思ったからだ。

 布団の中で目を瞑り、テレビから流れるバラエティー番組の騒がしい音を聞いていた。

 暫くしてテレビ以外の音が耳に入ってきた。

 部屋の扉が開く音だ。

 目を開けてそちらを見る。

「あ、起きたんだ」

 そこにはアリサさんの姿があった。手にお盆を持っている。

「旅館の人に言って消化にいい物作らせて貰ってきたよ」

 そう言って俺の元まで歩いてくる。

 どうやらアリサさんはわざわざキッチンまで借りて俺の為に料理を作ってきてくれたらしい。

 お盆の上には一人用の土鍋と空のお椀、小皿には数種類の漬物。それと水と薬が用意されていた。

「食欲は?」

「あんまり……でも良い匂い」

 俺は上半身を起こしながら答える。

 正直アリサさんに言ったとおり、あまり食欲はなかったのだが土鍋から漂ってくる匂いはそれでも食べたくなるほどのものだった。

 アリサさんが土鍋の蓋を開ける。

 中は雑炊……見た目は人参に解した魚の身、卵でとじて刻みネギが振りかかっていた。

 ……普通に美味そうだ。

「これなら……全然食べれそうかも」

 と俺が呟くと、

「ほんと? よかった」

 アリサさんは嬉しそうに笑った。

 俺は恥ずかしくなって視線をアリサさんの手元へ向ける。

 お椀へ移し終えたところで受け取ろうと手を差し出すが、アリサさんは此方に渡す素振りを見せず、お椀からレンゲで雑炊をすくい出し――

「ふぅ……ふぅ……はい、あ~ん」

 と、レンゲを俺の口元へ差し出してきた。

「…………」

 俺は口元に差し出されたレンゲを見つめて固まった。

 まさか……こうくるとは。

 弱った男、看病する女。この二つが揃ったときの王道的な展開であることは俺にも分かる。

 だけど実際に『あ~ん』して食べるのは恥ずかしすぎる。となれば、俺がとれる行動はひとつしかない。

「あの……自分で食べ」

「いいから」

 俺の抵抗は呆気なく阻止された。

「でも……」

「樹君は病人なんだから遠慮しないで」

「いや、遠慮とかじゃなくて……その……」

「はい、あ~んして」

 さらにレンゲを近づけてくるアリサさん。

 レンゲが唇に触れる。

「…………あ~ん」

 俺は観念して口を開ける。

 雑炊はほとんど噛まなくても飲み込めるほど柔らかかった。食べてみて分かったが、人参以外に大根の拍子切りも入っていた。この二つが柔らかい中にも食感があっていい感じになっている。

「…………どう、かな?」

 不安そうに上目遣いで訊いてくる。

 そんな風に訊くまでもないでしょうに……アリサさんの作った料理で美味しくないものなんて今までなかったでしょうが、とはとてもじゃないが言えず、俺が言えたことといえば、

「美味しいです」

 という一言のみだった。

「ほんと? よかった!」

 それでもアリサさんは嬉しそうに、本当に嬉しそうに笑うのだった。

 その後も、食べ終えるまでアリサさんに『あ~ん』された。そのおかげかどうかは知らないが用意された料理は全て平らげることができた。

 そして、薬を飲んで横になる。

「そういえば……アリサさんは何か食べたの?」

 気になったので尋ねてみる。

 ここで食べた気配はなかったし、俺の食べる料理を作ってたとなると時間もそんなになかったのではないだろうか。

「え、うん。作りながら少し食べたよ」

 それって食べたって言うのかな……ただの味見なんじゃないのか。

「折角なんだし普通に食べたら? 勿体無いし」

 無料で来てるとはいえ、折角美味しい料理が食べられるんだから食べなきゃ損だ。

「でも……」

 アリサさんは俺を気にしてるのか乗り気じゃない。

 そんな顔を見ると申し訳ない気持ちになってくる。

「俺のことはいいから。なんか俺のせいで食べれないみたいで嫌だし」

 自分でも卑怯な言い方だと思う。でも、こう言えばアリサさんは食べてくれるはずだ。

「わかった。じゃあ、片付けるついでに食べてくるね」

「うん。そうしなよ」

 俺が食べ、空になった鍋や食器を持って部屋を出て行くアリサさん。だけどその顔はやはりどこか渋々といった様子を含んでいた。

「…………はぁ~」

 アリサさんが部屋を出て行くのを確認して息を吐きつつ目を閉じる。


 それから多分二〇分も経たないうちにアリサさんが戻ってくる。

「ちゃんと……食べた?」

 あまりに早い帰還に俺はすぐさま訊いていた。

「うん。食べたよ。ちゃんと」

「なら……いいけど」

 アリサさんは嘘はつかないと思うけど……ホントに『ちゃんと』食べたのかな?

 ま、俺に確かめる術なんてないんだけどな。

 そうは言っても気になるものは気になるけど……今はそれより――

「あの……もっと離した方が……」

 俺の隣に布団を用意するアリサさんに言う。

 アリサさんは俺の寝ている布団のピッタリ隣に自分の布団を用意しだしたのだ。これはツッコまずにはいられない。

 あまりにも近すぎる。確実に昨日より近い。ちょっと寝返りうったら触れ合ってしまいそうなほど近い。

「風邪移すと悪いし……もっと離れた方が良いんじゃないかと」

 こんな近くにいたら眠れないし。移すと悪いって思ってるのも本当だけどね。

「大丈夫だよ」

 何が!?

 くそ、離れる気ないな、これは。

 だったら――

「てか寝る前に温泉入ってきたらどう? 折角の温泉宿なんだから」

 俺はアリサさんに風呂を薦める。

 俺は風邪だし入れないけど、アリサさんは普通に入れるんだから入ってきたほうがいいはずだ。

 女の子は一日だって風呂を欠かしたくないって言うし。

「そうだね」

 完璧に俺の隣に布団を敷いてから、アリサさんは頷いた。

「それじゃ、行ってくるね」

 浴衣を手に取るアリサさん。

「うん。ごゆっくり」

 風呂に向かうアリサさんの背中に向けて言った。

 浴場から水音が聞こえてくる。

 昨日はドキドキしたて外へ出て行ったが、今日はそうもいかない。 

 それに――今日はやらなければいけないことがある。

 俺はふらふらと立ち上がり……横の布団を引きずって離していく。

 限界まで離して自分の布団に戻る。

 途中、テレビの音を大きくする。勿論、アリサさんが温泉に入っている音を聞かないようにするためだ。

 布団に横になって目を瞑る。

 テレビの音は大きいが、それでも微かに浴場からの音は聞こえてきてしまう。

 それを考えないようにして俺は眠ろうとした。

 出来ればアリサさんが出てくるまでに寝てしまいたかった。

 まぁ、眠れるはずないんだけど……。


 少し時間が経って――アリサさんが髪を乾かすドライヤーの音が聞こえてきた。

 その後、部屋に帰ってくる。

 俺は寝たふりをしていた。

 アリサさんもそのまま寝てほしい、このまま何事も怒らなければいいのに……そう思う俺の心臓はドキドキしていた。

「…………」

 アリサさんの動く気配がする。

 そして――布団を引きずる音。それも段々近づいてくる。

 薄目を開けて様子を窺う。

 俺の抵抗空しく、ピッタリ隣まで移動していた。

 アリサさんが布団に入る。なんだか、滅茶苦茶近く感じる。昨日とは比較にならないほどに。

 息遣いも鮮明に感じることが出来た。

 俺がドキドキしていることが気付かれないか不安になる。

「おやすみ」

 耳元で声が聞こえ、部屋の電気が消された。

 寝返りをうつふりをして反対側を向く。

 今日も眠れぬ夜になりそうだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る