第11話

 一歩、二歩、三歩……ノブに手をかけ、

「……ゴクッ……」

 唾を飲み込む音がやけに大きく聞こえる。

 俺は一度深呼吸して、ドアを開――

 ――シュバッと俺の横を何かが通り過ぎる気配がした。

「…………え?」

 俺は横を見る。

 何もなかった。

「なんなんだ…………ヒィッ!!」

 アリサさんの部屋に向き直った瞬間、目の前にアリサさん。

 俺が侵入しようとしたのを察知して慌てて来たようで、アリサさんのメイド服は慌てて着たのが分かるぐらい色んなところがはだけていた。

 なんか肩とか見えてて、すげぇ色っぽいです。

「な、なにかご用でしょうか、樹様?」

 普段俺には見せない笑顔だった。

 でも、どこか違う。

 なんか迫力がある笑顔だ。

「い、いや、ドアが開いてたから……」

「開いてたから進入しようと?」

「し、閉めようと思っただけっす!」

「本当……ですか?」

「本当です!」

 俺はアリサさんの笑顔が怖くて本当のことなんて言えなかった。

「そ、それより、アリサさん」

 でも、まだ何もしてないのに怖がらされるのもなんか納得いかなかった。

 なので、やめとけばいいのに反撃しようと思ってしまった。

「いつも完璧で弱みを見せないアリサさんがそこまで慌ててるってことは、部屋には見られたくないものがあるってことですね?」

「え……な、なんのことでしょうか?」

 あからさまに狼狽えるアリサさん。

 これは……余程のものがあるに違いない。

「…………」

「な、なんですか?」

「おりゃあ――――っ!!」

 俺はアリサさんをすり抜け、開いているドアの隙間から中を覗こうとした――が、俺のしようとしていることを理解したアリサさんは俺より素早く、

「キャ――――ッ!」

 俺を振り切って神速の速さで部屋の中に入り、ドアを閉める。

 隙間が開いていた場所を覗ける位置に移動したときには既にドアは完全に閉まっていた。

「…………」

 俺は部屋の中を覗けなかった悔しさよりも、アリサさんのアリサさんらしくない悲鳴が気になってしょうがなかった。

 キャーって、普通の女の子みたいじゃないか。いつも冷静で完璧なあの人らしくない。


 その後、アリサさんは部屋から出てくる気配はなかった。


 ――翌日。

 朝、珍しく――というか初めてアリサさんが起こしに来なかったので自分で起きた。いつもより相当遅い。朝ごはんを食べる余裕もない時間だった。

 さらに、リビングに行っても、いつもなら用意してあるはずの朝食がない。

 それどころかアリサさんの気配がなかった。



○ ○ ○ 



 それから数日、一学期最後の日。

 あの日からアリサさんは帰ってきていない。

 どこに行ったのかは分からない。

 アリサさんの部屋には鍵が掛かっていて入れないけど、玄関に靴もないし何より俺以外の人間が居る気配がないことからも彼女がこの家に居ないことは間違いない。

 この状況は俺の望んでいた通りのものだ。

 こうなる為に、今までいろいろやってきたわけだから何の問題もない……はずだったんだけど。

 

「おい春田! アリサさんはまだ帰ってきてないのか!?」

「今岡か……おはよう」

 教室に入ると同時に今岡が勢い良く掴みかかってきた。

「うん、おはよう――じゃなくて! アリサさんは!?」

 律儀に挨拶を返してきた今岡だが、やはりその話に戻ってしまう。

 まあ、こんなことで誤魔化せるとも思ってないけど。

「帰ってきてないよ」

 俺は事実をそのまま伝える。

「な、なんでだよぉ〜っ!」

 号泣しながらすがり付いてくる今岡を鬱陶しく思いながら考える。

 ……なんでかって、そんなこと俺も知らねーよ。

 思い当たる事といえば、部屋を覗きそうになったってことだけだけど……そんな程度のことで出て行くとも思えないんだよな。

 でも、それ以外に原因らしいものはないのも事実。

 それはつまり、サッパリ分からないってこと。

「俺に訊かれても知らないって」

 そんな状況では、そう答えるしかない。

「うぅ〜、どこに行ってしまったんだよぉアリサさぁ〜ん……」

「うわ……マジ泣きだ」

 本気で泣いている今岡を見て若干引いてしまった。

「そりゃ泣きたくもなるさ! アリサさんに会えないなんて」

 そんなにか……。

「とりあえず落ち着け。……なんか凄い注目されてるから」

 夏休みを前にして、楽しい雰囲気に包まれた教室でいきなり泣き出した今岡に、さすがに視線が集まっていた。

 入学以来、こんなに多くの視線に晒されたのは最初のHRの自己紹介以来だった。妙な気分だ。むず痒いというか……。

「お、おちっ、落ち着いてなんかいられるかぁ〜」

 うわぁ……鼻水まで出てるし。

「ほ、本当に落ち着け! アリサさんが帰ってきたら一番に連絡するから!」

「う、うぇ……ひっく……ほ、ほんとに?」

「あ、ああ……」

 こんなに本気で泣いてる高校生男子を、俺は初めて見た。

「…………わかった」

 今岡は小さくそう言って自分の席へ座り、机に突っ伏した。

 帰ってきたら……か。

 

「ただいま」

 家に帰ってそう言うが、やはりアリサさんからの返事はない。

 今岡にああは言ったものの……アリサさんが何で出て行ったのかも定かではない以上、帰ってくる保証もない。

 俺としては、このまま帰ってきてもらわない方が良い。

 精神的に攻撃されることもなく一人平穏に過ごすことの、なんと素晴らしいことか。

 部屋で着替えを済ませ台所へ向かう。

 帰りに買ってきた弁当を温め昼飯にする。

 今日は夏休み前、最後の学校。

 終業式の日で今日は半日で下校だ。

 そんなわけでちょっと高めの弁当を買った。一学期を頑張った自分へのご褒美だ。

「……ほんと、静かだよな」

 レンジに入れた弁当が温まるのを待つ間、俺は部屋を見渡して呟いた。

 庭付きの一軒家という広さ、そこに居るのは俺一人。

 どう考えても家の大きさと住んでる人間の数が合ってない。

 いや、アリサさんと二人でも広いんだよな。この家は。……それでも、今まではそんなことを考える余裕もなかった。

「…………」

 温まった弁当を口に運ぶ。

 アリサさんが居なくなってから、もうずっと弁当だ。

 最初は良かった。

 けど二日目からは美味しいと思えなくなった。

 それに、なんだか身体の調子も悪い気がする。

「やっぱ……アリサさんの作るご飯って美味かったんだな」

 多分、栄養とかも色々考えられていたんだろう。

 そういえば……ここ最近は野菜を食べた記憶もない。

 とはいえ、アリサさんに戻ってきて欲しいかといえば微妙な心境ではあった。

 追い出そうと色んなことをして、実際アリサさんは居なくなって。急なこととはいえ、これが俺の望んだことのはず。

 だけど、なにか納得いかない、心が晴れない。そんな気持ち。

 これはきっと、アリサさんが出て行ってしまった理由が分からないからだ。だから何か心がモヤモヤするんだ。

 

「うわ〜……洗濯溜まってんな〜」

 掃除でもしようと風呂場までやってきたら、近くにある洗濯機には溢れんばかりの洗濯物。

「とりあえず洗わないと……えと洗剤は、と。あれ、洗剤どこだ?」

 洗濯機の近くには洗剤が見当たらない。

 どこにあるんだろう?

「あれ〜、ないのかなぁ……」

 あとで買いに行くか。

 先に風呂の掃除をしてしまおう。

 アリサさんが出て行ってからは、面倒でいつもシャワーだけで済ましていたからな。今日はお湯を入れてガッツリ入ろう。その為には浴槽を念入りに洗わないとな。

「………………マジか」

 風呂場に入る……そこには浴槽用の洗剤がなかった。

 シャンプーなどは整理して入れ物に入っている。が、風呂掃除用の洗剤はそこにはなかった。

「え〜、これも切らしてるのか?」

 洗濯、風呂用、それぞれの洗剤を同時に使い切ったのか?

 アリサさんのことだし買い置きぐらいあると思うんだけどなぁ。あるとして、どこに置いてあるのかな。

 というか、今思ったけど……俺、家のこと何も知らない。

 印鑑とかどこにあるんだ? 通帳は?

 全部アリサさんがやってくれてたから気にしたことなかったけど、他にも大事なものって沢山あるよな……。

 どうしよう……家、全部探すか?

 ヤバイ……アリサさんがいないと俺は自分の家のことも分からないじゃないか。

 自分一人では何もできない衝撃の事実に呆然と立ち尽くす。

 ……とりあえず、洗剤を買ってこようか。

 うん、大きな問題は後回しにしよう。

 俺はそう思い、買い物に出掛けた。

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