A-2

「はっ、はあ、はあ、は、」

 細いハンドルを握りしめているのが見える。握っている手は零花の血ではなく自分の汗を帯びている。外はかつての騒乱が嘘だったかのように静かに靄を受け入れ、流転を隠していた。

「どしたの、早く行こ」

 その声に肩をびくつかせ振り向くと、やはり騒乱を忘れたかの如く、零花が後部座席から身を乗り出して、こちらに問いかけていた。

 何も、答えられない。

 自分が殺したのか救えなかったのか、とにかくさっき彼女を死なせた。それを過不足なく体現する血のぬめりも、この汗としてよく記憶している。

「ごめん。ちょっと、待ってほしい」

 落ち着け。考えろ。靄がかかっていて、「早く行こ」との言葉が出うる状況。

 ……たぶん、振り出しに戻ったんだ。『人間の光たれ』の門をくぐる前に。

 車を降りたら何が起こるかわからない。降りようが降りまいがそれは変わらないと、頭ではわかっているつもりだが、とにかく安心できる場所を構築しておきたかった。

 車を、降りるな。

「やめよう。少し……休ませてくれ」

「急に変だよ。どうしたの」

「っ、……頼むから、そっとしといてくれ。頼む。ごめん」

 本当に何も覚えていないんだろうか。何も覚えておらず、「目的の廃工場に到着して車を止めたところでいきなり久の様子が変わった」と認識しているのだろうか。

 とにかく、零花にも関わってはいけない気がした。また彼女か自分に突発的な異常が降りかかるのを目の当たりにしたくなかった。

 ……あの女、なんなんだ。まるで意図がわからない。それどころか何もわからない。いきなり現れて、いきなり零花がとち狂って、その零花を刺した。

 刺さる体勢を作ったのは自分だ。他に何か道はあったんじゃないのか。

「……お弁当食べようか」

 いても立ってもいられない。何かしていないと落ち着かなかった。やり場のない焦燥感を弁当にぶつけることにした。

「……」

 まずい。昆布も梅干しもねこまんまも、こんな気分で食うからまずい。こちらの意味わからない気分に付き合わされて一緒に食わされている零花も同じことを思っているだろう。真顔でねこまんまを頬張っている。

 親の気まぐれを子供に付き合わせることだけは避けたいと、子供などできもしない生活を送っているうちから信念として持っていた。身近では、人の気分ほど理不尽なものはない。親という(ほぼ)絶対的な権力を持つ立場に置かれては、とにかくここに留意したかった。ましてやこの子だ。とんでもない環境から新しい家として自分のところに巡ってきた以上、できる限り自由にさせてやりたかった。そして今、理不尽に付き合わせてしまっている。

 ごめんな。そう言いたかった。しかしこの言葉すら自己満足の産物に過ぎず、言われた側は深く勘ぐってしまうだけなのだ。

「今、何考えてる」

「気分悪い」

 それ以上に会話は続かない。続けようがない。いっそすべて話してみたら、何か――


「気分悪い」


 外からだ。まずい飯に気をとられて気がつかなかった。

「!!」

 あの女だ。運転席の扉に手をかけている。と知ったときにその扉はもう開いていて、隙間から伸びる細い腕が、件の手槍を膝に置いていた。

「これ。あんたのだろう」

「何を、」

 覗く眼に吸い寄せられる。現実に見たことのないスカイブルーが、自分を、自分の意識そのものを、どこかへ連れ去るようで、実際そうだった。



「こんなもの知らないぞ。あんたのことも」

 自宅の地下にある作業場。仮眠用に敷いたマットレスの上で、二人。

「あんたがを知らないのは当然だが、確かにこれは君の槍だ」

 仰向けの姿勢に彼女が乗る。首に腕を絡め、満足そうに顔を見つめている。

「ちょうどいいところに来てくれた。いや来ることは決まっていたんだろうな、とにかく離しはせんよ」

 満足などしてはいなかった。ご馳走を食らう前のときめきだった。息を荒げて倒れ込み、抱き枕にでもするように、全身を以てオキシトシンを感じている。

「やめろ、人が嫌いなんだ。ましてあんたのことなんか」

 寝床に他人を寄せつけたくなかった。家族だって許したことがない。寝るときは外界から自分を隔絶し、自分以外の匂いを持ち込むことを是としない。

「なんだ。人間でさえなければいいのかい」

「できるんなら猫でもなんでも連れてきてみろよ」

「据え膳も食わんヘタレとわかりゃ、猫くらい連れてくるさ」

「どっちが据え膳だ、いい加減にしろ」

 言ってしまった。まばたきを挟むと、鬱陶しい碧眼の女は、同じくらいの体長の赤狐に姿を変えていた。動物の表情から感情を読み取るすべは持っていないが、体色に合わせたレッドタイガーアイからは何となく意地の悪い愉悦を感じる。

「……やられたよ。猫じゃないがもう何も言えん」

 殺人鬼も混乱と愛嬌に乗じればここまで人につけ込める。ぼんやりと理解してはいたが、この巨大なもふもふに抗えるはずもなかった。

「私は焔。廃墟に住む孤独な化け狐さ」

 狐の姿で人の声を出す。なるほど化け狐だ。

「寄生虫でも広めようってのか、寝床にまで潜り込みやがって」

「駆虫薬の摂取は歯磨き同然だ。心配するな。……終宿主へのワクチンの開発は日本国の解体に間に合わなかったようだが。まったく、肝心なところで人間は役に立たん」

「知るかよ。ところでどうやってこの地下室までやってきたんだ」

「あんたの記憶にお邪魔してるだけだ。人を化かすもんでね」

 面倒だ。獏改めシロサイちゃんは焔を「この世の主」と呼んだ。あの時点では焔の世界観にこちらが入り込んでいたようだが、今俺と焔がいるのは俺の記憶だ。いくつかの世界を行き来していることになる。……、面倒だ。



「自らの血を飲むか」

 人間に戻った焔が俺の腹にあの手槍を突き立て、愛おしそうにその裂け目を眺めている。

 どうしてこうなった?

「なんなんだよ、……夢ん中だからってよ、」

「夢も記憶も想像も全て別の世界だろうに。……どうでもいいか、あんたが私のところへのこのこやってくるもんだから、こんなことされたって仕方ないさ」

 額に浮かぶ脂汗を焔が舐め取る。そんなことに構ってもいられないほど、血肉をなぶるそれは全ての意思を削ぎにかかっていた。

「いいじゃないか。死ねばまたやり直せる」

 しばらく死なせる気がないのは明らかだった。人体のにじり方をよく知っているようで、わざと六腑も血管も避けるように槍は刺さっている。

「何が、したいんだ」

「あんたが自分を据え膳だと言ったんじゃないか。なら喰わん手はないだろう。久々の人間なんだよ、人間は大好きだ」

 膳の頸に牙が立つ。溢れる血を余さず飲み込み、恍惚で返す。

「あんたの記憶の中なんだから、いつだって私を追い出せるだろう。どうしてそうしない」

「初め、俺たちがあんたの世界観に迎えられた。こんなのちっとも面白みがない。あんたにとっても。目的は別にあるんだろ」

 焔は答えず、その槍を深く沈め、とどめを刺した。


 しかし久は甦る。

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