世界の表側より、××を込めて
わさび醤油
序章
???番目の世界
「おい……! 死ぬんじゃねえよ……!」
白い部屋の中にいるのはベッドに横たわる二十歳そこそこの青年と、その傍らにうずくまる様に座る青年より少し年下の少女。
部屋には無数の機械が設置されており、幾つかの機械からはチューブが伸びていた。そのチューブの全ては青年へと繋がっており、それぞれは体中や腕、口元を覆うように付けられている透明なマスクにも繋がれている。
小さくこだまする少女の嗚咽。耳を澄ませばかろうじて聞こえる青年の呼吸。そして、規則的なテンポで鳴り続けるレーダーのような音。
置かれている機械の意味は分からなくても、この部屋の意味は少女に理解できた。
「……そんな顔、を。見るのは……初めてだな」
もはや顔を動かす体力もないのか、目線だけを少女に合わせ青年は苦しそうに口を開く。
少女の顔は涙や鼻水でぐしゃぐしゃにいるが、拭うことはせずに青年の手を握り続けている。いつもなら何を考えているのか、何も考えていないのかすら分からない屈託のない笑顔をしていた少女だったが、今は不安と恐怖に表情を支配されていた。
「……なんだよ、生きてるじゃねえか」
弱弱しくも、しかし青年が口を開いてくれたからか少女の顔が少しだけ緩む。反対に握る手の力が更に強くなったのは、これが最後の会話になると少女の本能が感じ取ったからだろうか。
その握る強さは今の青年にしてみれば苦痛以外の何物でなかったが、この痛みが少女との繋がりを感じられる唯一のものだったので素直に受け入れた。
「勝、手に殺す……なよ」
青年は精一杯笑おうとしたが、僅かに口角が上がっただけ。それは最早、やせ我慢や強がりとすらも言えないものだった。
「まだまだ……生きてやるさ……。少し、休めば……すぐ。に……よ、くな。る」
これは青年の本心でもあった。
これから先も少女と一緒に肩を並べて歩き続ける。
そう願う。そうあってやるという青年の決意とは裏腹に、もうすぐ自分の命が終わることも理解している。
それでも尚、気丈に振舞うのは最後の最後まで少女と対等でありたいからだった。
「当たり前だろ……。まだアンタとは行ってない場所が山ほどあるんだ。全部行くまで死んだりしたら承知しねえぞ?」
青年が長くないことは少女も重々理解している。たとえこの会話が嘘で終わることになったとしても、今は青年と日常の会話を続けたかった。
「そう……だな。お前と、は……色々な場。所に行ったなぁ……」
青年は感慨深そうに呟く。
二人の脳裏に浮かぶのはこれまでに訪れた場所の数々。それらに至るまでの道のりは決して青年にとっては簡単なものではなかった場所ばかりだが、今となっては楽しい思い出になっている。
「最初に行った場所覚えてるか? アタシが場所を伝えた途端、アンタは面白いぐらい血相変えたよなあ」
ようやく少女の顔に笑顔が戻る。それはいつも隣で見ていた笑顔。何か良からぬことを企んでる時に浮かべる意地悪そうな笑顔だ。年不相応とも呼べるその無邪気な笑顔が青年は大好きだった。
「忘……れ。る訳な……いだろ。いき、なり海底……二万マイル。まで、潜るって……」
「アタシらみたいなヤツからしたら普通だぜ? むしろまだ浅いくらいだ」
「たまには……こっち。の、常……識で、考えてほし……かった。よ」
「え~、これでもアタシ的には譲歩した方なんだけどよぉ」
口を尖らせながら少しだけ少女が不機嫌な顔になる。しかし、すぐに表情に笑顔が戻り少女ししし、と小さく笑った。
他愛のない思い出話が続く。
これまでのことを振り返るように。
この時間が永遠に続けば、と二人は思う。
しかし、現実において永遠などは存在しない。
永遠を求めて幻想になった少女と、永遠を望んで現実にしがみついた青年では文字通り生きる世界が違いすぎる。
今までずっと規則的に音を鳴らしていた機械のテンポが徐々にゆっくりになっていく。その音は青年の命が終わる瞬間を示していた。
「……なあ」
少女が静かに口を開く。
青年は何も答えない。思い出話に花が咲いたのも最初だけ。途中から青年の受け答えは減っていき、最後は少女が一方的に話しているだけだった。
今や青年の目は完全に閉じてしまっており、かろうじてマスクが曇る程度の呼吸しか出来ていない。少女の手を握る強さも、もう感じることができていない。
「最後に聞いときたいんだ」
少女の目に再び涙が零れる。
泣きたい。叫びたい。受け入れたくない。
永い時間、幻想を生きてきた少女にとっては久しぶりの感情。
受け入れがたい目の前の現実をなかったことにだって少女にはすることはできる。そうすればこれから先も青年と一緒に歩くことができる。
しかし、それだけはできない。しない。したくない。
少女と違い、現実にしがみつきながら幻想を求めた青年のこれまでを、覚悟を。
なかったことにはしたくない。
人間をやめた少女が、人間であり続けた青年にできることは、人間のまま死なせてやる意外何もなかった。
「もし――もしも、生まれ変わったらさ」
涙は枯れない。枯れることはない。
涙でぼやけきった視界で青年の顔は映らないが、顔を上げない理由にはならない。
少女は自分でも今どんな顔をしているのか分かっていない。それでも、最後に見せる顔は決まっていた。
「もう一度――アタシに会いに来てくれるか?」
少女が言い終わると同時に、機械から耳障りな甲高い音が響いた。間延びするような長い音。
それは青年の命が終わったことを告げいていた。
やがて音は止み、部屋には静寂が戻る。
少女はそっと手を離すとじっと青年の顔を見つめた。
安らかに眠れることを祈りながら、少女は霧散するように部屋から姿を消す。
少女がいたことを示すものは、ベッドの側に落ちた涙の雫だけだった。
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