本編


 音楽を進んで聴いた記憶がないが人間生きていればあっちでもこっちでも何かの曲は耳にしてしまう、だからわざわざCDなどを今ならストリーミングサービスなどを駆使しなくとも流行りの曲だとか著作権の切れたクラシックだとかナントカカントカのゴールデンミュージックFMだとかが俺の耳に無許可でいくらでも入ってくる。だから急に思い出す、どうにか採用された特筆すべきところのない中小企業の事務所で働き始めてから俺の脳にはいつも音楽が鳴っている。やっつけ仕事。特徴的な歌声の女性歌手の曲。どこで聞いたのか知らないが覚えてしまったので思い出し、とても激しくガンガンガンガン、やっつけないとどうにもなんないよなとか共感する。

 結構平凡だった。もう既に過去形だ。本日も仕事をやっつけタイムカードを切り現場作業員の居残り組にまた月曜とか声をかけて俺自体は明日も休日出勤だったりする。だがしかし関係がない。俺にではなくあいつに。

 明星陽平あけぼしようへい。俺の住む一人暮らし用の狭いアパートに転がり込んできた小学校の頃の後輩、後輩って呼ぶほど在学中の接点はないにしろ後輩である明星陽平は部屋の前にいるから鍵開けてというメッセージを寄越してきた。こいつのせいでもうあまり平凡ではない。会社を出る。スーパーに寄って二人分の惣菜とか弁当を買う。秋になったから日は少しずつ短くなる。とっぷり暮れて夕陽も消えた街中を、俺は無言で歩いて段々息苦しくなってくる。仕事をやっつけても明星はそうもいかない。こなせば成果が現れるものでもない。一週間ほど前にふらっと出て行ってから連絡ひとつ寄越さないまま、俺から送るのもなにかがおかしいとなにもタップできないまま、何事もなかったかのように戻ってきては鍵開けてなどとメッセージを投げてくる。ああ、と嘆きたくなってすんでで堪えて目頭を揉む。がさりとスーパーの袋が暴れる。住宅街の角を曲がれば見慣れた五階建てアパートが見えてくる。

 さっさと溺死させてくれ。

 いやに破滅的になりながら俺は二階の自室に向かって階段を上る。

「お、遅かったな、大河さん」

 星灯りや室外灯に照らされながら光りすぎる男が振り向く。

「腹減った、アップルパイとかシュークリームとかいちご大福とかある? あるな、あんたなんだかんだオレに甘いしさ」

 部屋の扉前で待ち構えていた明星はぼさぼさの髪をばりばりと掻きながらにっと笑った。くたびれた上着はもらいものらしい。首元が緩いシャツも。色褪せ気味のジーンズも。全体的にだらしがないのに抜群に整った顔と妙に鋭い眼光だけでチャラになる。それが悔しい、と考えていれば痺れを切らしたように寄って来た。鍵は与えていないので律儀に待っているがこんなにもしょうもないことで律儀なんて使ってしまって瞬時に恥じる。退かせて扉の鍵を開け、先に入れば後ろからさっさと抱き締められて、でも腕は俺のぶら下げるスーパーの袋を持っていく。

 なんだかんだ明星に甘いのは純然たる事実だ。半額シールの貼られたケーキを明星は素直に喜んで、俺の耳にキスなどしてから部屋の奥へと入っていく。独居用のキッチンつきアパートは狭い。真ん中に置きっぱなしのテーブルを挟み向かい合わせで座り込み、明星は赤い苺がかわいいショートケーキを、俺は鯖の塩焼き弁当を声も掛け合わず好きなタイミングで食べ始める。

「次はいつ出て行く?」

 いつかもした問いに明星はふふふと笑う。本当にふふふと言った。手掴みで乱暴にケーキを齧り、拗ねるなよ、と合言葉のようにまずは置く。

「そういうの、止めたほうがいいって。例えばじゃあ四日後に出て行くわってオレが決めたら、縛られるのはオレじゃなくて大河さんだろ。あと三日、あと二日、あと一日、今日出て行くのかって考えなくてもいいのに考えてさあ、寄る辺がなくなっちまうんじゃねえかな、なんて、オレ個人としては思うんだけど、どう?」

「……いつ来るかわからなくて友達も誰も呼べないよりはいいと思うけど」

「オレがいても呼べばいいじゃん」

 呼べるわけないだろ、とは、言わないでおいた。本当は呼べるからだ。ちょっと後輩泊めてんだよね、で済む話だ。そうできないのはひとえに俺の頭が硬いから、というよりは、明星が。

「まあ、誰か来るってなったら出て行くけどさ。特になんだっけあいつ、苦手なんだよな、イケメンで人当たりよさそうなふりしてるやつ、あいつとか呼ぶって言われたらすぐ出てくな」

 鯖を放り込み、じっくり噛んでわざと間を取る。そうだよこいつは誰かが来るってなれば絶対にふらっと消える、下手をすれば二度と来ない。だから誰も呼べない上に俺は明星が来なくなるほうが圧倒的に堪える、堪えてしまうのでこんなことになっている。

 会話の続きをしないまま弁当を食べ終わった。明星は既にケーキを消費しており、他にも買っておいたエクレアの袋を開けて表面のチョコを指で剥がして食べていた。曰く、甘いものはいくらでも食えるらしい。健康が心配だ。でも意外にも煙草やら酒やらはやらないので身体に支障をきたすほどではないのかもしれない。エクレアは三口ほどで消えた。満たされたらしい明星の視線は俺を捉える、口元に浮かぶ笑みの形は結構イリーガルだが嫌いじゃない。横に座られて拒否しないどころか先に風呂に行って来るとか言ってしまう。シャワーを被りながら俺はやっつけなければと考える、流れては吸いこまれていく湯がうみだした渦巻きを、架空の沼と感じて勝手に溺れた気になってくる。でも実際溺れてはいる。家で風呂入ってきたなどと言いながら腰を抱いてくる明星に口を合わされて押し倒されて息が詰まってくるといつも感じる。明星陽平。眩しい名前しやがって。俺は今、自ら溺れにいっている。


 土曜出勤で仕事をやっつけた。のらりくらりとやっている中小企業だ、午前で残した仕事は終わって昼過ぎには開放された。開放された旨をほとんど無意識に明星に連絡して、じゃあどっかで落ち合って昼飯食べようという誘いにそのまま乗る。

 アパートと職場の間くらいに位置する駅前で待ち合わせ、けっこう晴れてるなと思いながら土曜の道路を徒歩で進んだ。いつ出て行くかわからないがいる間はほぼべったり傍にいる。それだけは確信できるほど事実で、一番よすがにしている部分だ。ついため息が出る。俯きそうになって無理矢理上を向くと晴れた青空があった。駅舎が建物と街路樹の合間に見えている。

 明星はわかりやすいところに立っていた。駅の中、改札からは離れた併設のコンビニ前。スマホを片手に立っているだけでどうにも目を引くので明星は次元がずれている。俺にはやっぱり眩しいのだが、声をかけようとして止めたのは気が引けたわけではなく、俺より先に人が近付いたからだ。女性だった。明星は笑顔で対応した。わりと距離が近くてこれはあれか一度は致した相手かとすぐに気付いて、でもこういうことはそれなりに起こった。またウチ来ていーよ、なんて美人の女性にしっとり迫られる明星を見たのは一緒に映画を観に行った時だったし、明日空いてるよーなんて明け透けかつ気軽に誘われた明星を見たのは意味なく繁華街をぶらついている時だった。今いる女性は明星の腕やら肩やらを意味深に撫でてから離れていった。ぼうっと立ったままの俺に向けて明星が手招きしたのは女性が改札方向に消えてしまってからだった。

「何食べる? 金持ってるからオレが奢るよ」

「……明星ってどうやって金稼いでんの? ホストとか?」

 絶対に天職だと思いながら聞くが、明星は冗談だと思ったらしくあっさりと笑い飛ばす。

「ほとんど稼いでねえよ、じゃなきゃ人の部屋に転がり込んだりしないって」

「それはつまり、俺のとこから出て行っても、また違う人のところにって話だよな?」

 さあなあ、と濁される。明星は重要な話を与えない。よっぽど俺は不服な顔をしていたのだろう、歩きかけた明星はこちらを振り返り苦笑した。計算した苦笑なのか本当の苦笑なのかはわからない。

 昼は本当に奢ってくれた。中華を食べてからスーパーに寄り、明日はどこかに出掛けるか部屋にいるかと予定を話し合いながら気がつけばベッドの上にいた。明星がいる間はベッドにいるほうが多く、恋人がいたときはこんなに致したことはないなと記憶を探りながら明星の上に乗っていると、不意に大河さん、と低く静かに呼び掛けられる。

「オレずっと思ってたんだけど、大河さんって、男相手初めてじゃねえよな?」

 薄暗い部屋の中、飲み込んだ問い掛けの返事を迷った。お前は自分の話をほとんど聞かせない癖に俺の話は要求するのかよ。そう言いそうになって、止めて、ダサい方法しか思い付かずキスして会話を終わらせた。前に付き合っていたのは女性だった。その前も女性だった。でも明星の言葉に事実を返すならイエスのみだった。教えなくともいいだろうと思ったし、ちょっとしたささくれにでもしてせいぜい気にしてろよとも思ったし、あまり詳細を話したくなかった。明星は追求しなかった。いつも通りに行為をして、いつの間にか眠った。明星とドライブに行く夢を見たが俺は車を持っていなかったし、起きるといなくなっていたので正夢には成り得なかった。あけぼし。寝起きの掠れた自分の声がひとりきりの部屋では妙に反響して、突然恐ろしくなって飛び起き今度ははっきり呼んだけど返事はなかったし明星はいつも通り急に来て急にいなくなっただけだった。


 そのあと一ヶ月来なかった。とてもとても長い一ヶ月を俺は過ごした。


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