第37話
とある朝の出来事。
まだ鶏の鳴き声も響いていない時間。
コルはいつものように自分の体を鍛えようと、町内ランニングをしていた。
朝は寒いが、走ると身体が芯から温まる。
気持ちもシャキッとするし、良いことだらけだ、と鼻歌混じりで町内を走っていた。
「ナナシ!」
「………」
ゆらりと朝靄の中から現れたのは、コルもよく知る少年だった。
「嫌そうな顔すんなって」
会って早々、知り合いに見せる顔じゃなかった。
少年は心底面倒そうで…嫌そうな顔をしていた。
朝からその顔は似合わないと、逆にコルは満べんの笑みで少年に話しかける。
「お前もランニングか?」
「走ってるように見える?」
「見えないな。けど、随分と早起きなんだな」
「…………今日は…あいつと一緒じゃないんだ」
「あいつ?ああ、リブのことか?」
「いつも…腰巾着だから」
「俺が?…あー、まあ…確かにな」
コルは速度を緩めて、少年と同じスピードで歩き始める。
「ねえ…僕のこと、怖い…?苦手…?」
「ん?」
「あの時、傷つけた…から。まだ…痛い?」
「痛い」
「………」
「って言えば、お前は傷ついた顔するだろ。だからあえて言わねーよ。と言っても、俺はお前の金でもう治ってるから、チャラだよ。お前が気にすることじゃねえよ」
「そう…」
何を言い出すのかと思いきや、随分と前のことを気にしているようだった。
コルは、いつも他人に無関心そうにしている少年が、人の心配もできる一面を見て驚きを隠せなかった。
「お前のことは怖いとか苦手…って言う前に、よく知らねぇからな。すぐに判断はできねーよ。これからお前が仲良くしたいって気持ちがあるかどうかにもよるが…」
「別に…普通」
「普通って…」
心を開いてくれたわけではなかったらしい。
「お!そうだ。じゃあ、職場体験しようぜ?」
「職場、体験?」
「俺の本業は農家だ。植物育てるのがどれだけ大変で楽しいか、体験してみようぜ。ついでに、お前が俺と関わっていきたいかどうか決めればいい」
「植物…植物を傷つけない方法が…ある?…元気にする方法…知ってる?」
「そりゃ、まあ。本業だしな」
「じゃあ、行く」
「え、お…おう…」
てっきり断られるかと思ったが、少年はコルの提案をあっさりと受け入れた。
「じゃあ、こっち…。作業の前に母ちゃんと父ちゃんにお前のことを紹介しても平気か?」
「……必要なら………返事するかどうかは別」
「心配すんな。お前が嫌がることはしねーように言っとくから」
人付き合いが苦手な少年と父母との相性は恐らく最悪だ。
あの二人は面倒見がいいから、あれよこれよと絡んでくることだろう。
それがあの二人の良いところでもあるが、悪いところでもある。
コルは少年の特徴を踏まえつつ、父と母にあまり構わないようにやんわりと伝えた。
「今日は水やりからな。簡単めな仕事を任せちゃるよ。俺は肥料を入れるから」
「水…。やっぱり植物には大事…なの?」
「そ、そりゃあなあ…。水はあいつらの飯だからな。それがなきゃ飢えちまうよ。あ、けど、冬だからな。今日は日差しが暖かいから良いけど、寒い日は逆に凍らせちまうから注意だぞ」
「…うん…」
コルは少年に大きめのジョウロと水が入ったバケツを持たせる。
水がなくなったら、あそこの井戸で汲むように指示も出した。
一方、コルは一輪車の中に大量の肥料を積んでくる。
「それは…何?あんたが持ってる…その臭いやつ」
「あー、これは肥料って言ってな。水だけじゃ補えない栄養素を植物に与えてんだよ。人間だってパンばっか食ってても体には良くないだろ?」
「………こんなに臭いのに?」
「こんなに臭いのに、大事な糧となるんだよ」
コルは大きなシャベルで肥料をすくい、植物の畝の肩に溝を作って乗せていく。
手際の良いコルに追いつこうと、少年も隣で水やりを始める。
「葉っぱにあげても意味ねーぞ。根っこに水を含ませろよ」
「え…あ、うん」
少年はあれで水をあげていたと思っていたようだ。
上から葉っぱを湿らすだけじゃ、根本に水が行き届かない。
少年は重たいバケツを持ちながら、始めた地点に戻り、ジョウロの水を根元に向けて放った。
「水魔法とか使えれば楽になるぞー」
「…杖をなくしちゃって…でも、覚えてないから…無理」
「魔力のこめ方って難しいもんな。わかるわ〜」
体にいつか根付くと思っている魔力を日々引き出そうと試みているコルは、少年の苦労を察する。
「…呆れないんだ」
「呆れるってのは期待してる時に生まれる感情だよ。俺も自分の魔力に期待してねーからな。記憶がないお前にも期待してねーよ」
「…あっそ…」
それだけ返すと、少年は無言のまま黙々と作業を進める。
「あっそ…って。ははっ。もう少し笑ってみろよ。無愛想だとまたリブに喧嘩売られるぞ?」
「口ばっか動かしてないで手を動かせば」
「言うようになったじゃん、見習い〜」
「うるさいし…」
ふと少年は立ち上がり、バケツを持って歩き始める。
「ん?どこいくんだ?」
「…水…なくなった」
「おー、いってこい。井戸の使い方はわかったか?」
「………うん………」
コルは「あ、この顔はわかっていないな」と思ったが、あえて何も言わずに少年の好きなようにさせることにした。
きっと少年は関わりすぎると鬱陶しいと思うタイプだろう。
あえて近すぎない距離で彼のことを見守る。
井戸はコルの家の裏手にある。
勝手口の近くだ。
コルは腕を止めて、少年の様子を伺う。
ヘルプが必要になりそうならすぐに駆けつけようと思っていた。
少年は井戸の中を覗き込んだり、周りをウロウロとし始める。
やはり分かっていないようだ。
もう少し様子をみようと思ったが、勝手口からコルの母親と水汲みにバッティングする。
「あ、ヤッベ」
別の意味のヘルプが必要になりそうだ。
コルは農機具を地面に置いて、井戸の元まで駆け出す。
母も父は少年のタイプと真逆。
少年は後退りしながら、近づいてくる母親に困惑しているようだった。
「………」
「どうしたの?黙ってちゃわかんないじゃない。水を汲みたいんじゃなかったの?」
「母ちゃん!!大丈夫!!俺が教えるから!!」
「えぇ?けど…」
「いーの。いーの。ほら、母ちゃんが先にやって。俺らはゆっくりやるから、さ!!」
コルは少年と母親の間に入り、あえて彼女の視界に少年が入らないようにした。
ひょこひょこと顔を出そうとする母親を急かし、さっさと彼女の用事を済ませる。
「悪かったな。うちの母ちゃん、お前の嫌いなタイプだろ?まあ、ポジティブにさ、良い出会いだったと思ってくれよ」
「………出会いも別れも全部面倒だよ。辛いと思う感情も、楽しいと感じる一瞬さえも愚かで…迷惑」
「しょーがねーじゃん。それが人間の存在意義みたいなところだし。俺は出会いも別れも意味があると思うぜ」
「意味を作らないといけないとか、無駄じゃん」
「無駄じゃねーよ。それらを通して俺らは成長していくんだから。喜怒哀楽、過去、未来、そして現在。辛いことも楽しいことも、全部を通して自分の糧になる。無駄なんてこと、一個もねーだろ?」
「なにそれ。超ポジティブシンキング」
「よく言われる」
コルは井戸の中にバケツを沈ませ、井戸の中から水をすくうとロープを引っ張り上げる。
空だったはずのバケツは水でいっぱいになっていた。
コルは水を少年が持ってきたバケツの中に移し、満べんの笑みで少年にバケツを渡す。
「ほい、こうやって水を汲むんだよ。分かったか?」
「………こんなん初見でどうにかなるような代物じゃない…じゃん。万人にわかるように設計してもらわなきゃ…」
「ははっ!そりゃそうだ。けどよ、これのお陰で遠くの川まで水を汲みに行かなくって済むわけだよ。ちょっとした工夫で、辛かったもんが楽しく感じる。人生なんてそんなもんだろ」
「…ちょっとした工夫で…人生って楽しくなるもんなの?」
「そりゃそうだろ」
「………意味、わかんない…」
受け取ったバケツは思った以上に重くて、少年の服に水がかかった。
「重すぎ…」
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