第十一日目

 何でも今日は大広場で月に一度の市が立つ日だとかで、イリスとルービィと一緒に三人で出かけた。この帝都でもなかなか見かけない珍しいものが出回るらしいが、この世界において珍しいということと俺にとって珍しいということとは必ずしも一致しない。例えば、オレンジが売られていたのだが、それはこの世界では非常に珍奇で高価なものであるらしく、かなり裕福であるはずのイリスにも手が出ない、という。ちなみにこの世界の言葉でのオレンジの呼び方は、甜橙てんとう、である。


 その帰りがけに公衆浴場に寄った。例によって男女別のところ。いちいち日記に書いてはいないが、このところは毎日ここに来ている。イリスやルービィと一緒の時もあれば一人で来る時もある。どのみち中では別々なのだからどちらでも大差はないが。で、風呂に浸かっていたら、ひとりの老人に話しかけられた。


「おや、クロノ殿ではありませぬか。これは奇遇ですな」


 まったく覚えのない声ではないのだが、誰だか思い出せなかった。なので、失礼にならないように名を尋ねた。


「ほっほ。拙老、名をマルス・ドメスティカ・シルヴェストリスと申します。レティクラタ殿から見ますとですな、そうですな、職場の同僚とでも言っておきましょうか。お見知りおきを」

「マルス殿、ですか」

「……いえ。その呼び方はご勘弁を。この世界では、異性であれ同性であれ、三つの名を持つ者を最初の名で呼ぶのは、家族か、恋愛関係にある者だけと決まっておりますれば。……はて、しかし。そのことを、レティクラタ殿から聞いておりませなんだか?」

「いえ。初耳です。では、ドメスティカ殿。今後よろしくお願いいたします」


 確かに初耳ではあるが、そういえば思い当たることはあった。俺がイリスをイリスと呼ぶたびに、何かルービィが少し変な顔をするのである。あれはそういうことだったのか。しかし、いきなり俺からの呼び方が変わるのもおかしいので、当面の間、イリス本人が何か言ってこない限りはイリスと呼び続けることにしよう。


「ほっほ。ところで、ですな。クロノ殿の参られた日本というお国は、どのようなところなのですかな」


 ドメスティカ翁と色々な話をして、その日は家に帰った。そして、その夜のことだった。俺は料理をしていた。


「クロノ様。ちょっと、手の届かないところにものが置いてあって、それを取っていただけたら、と思うのですが」


 と、ルービィに話しかけられた。ん? と思って振り向いたら、その瞬間に、ほんの触れるように啄むようにだが、キスをされた。唇に、だ。俺は咄嗟にかまどの方に向き直り、一言だけ言った。


「ルービィ。そういうことはもうやめてくれ」

「あら。どうしてですか? クロノ様はお寂しいのでしょう? ルービィには分かっておりますよ」


 顔は見ないが、どんな表情を浮かべているかだいたい見当はついた。ルービィの蠱惑的な微笑みにはかなりの魔力がある。こうしたことは、これが初めてでもなければ二回目というわけでもないし。また、イリスに買われてきたばかりの時はガリガリに痩せていたルービィだが、最近は肉付きが人並みになってきて、それに伴って女としての魅力も、まだ幼いところが目立つとはいえかなり増していた。そんなことを口が裂けても俺から本人に言いはしないが。


「An apple pie without cheese is like a kiss without squeeze.」

「へっ? 今何とおっしゃいましたか、クロノ様?」

「チーズなしのアップルパイなんて、抱きしめずにするキスのようなもの。そう言ったんだよ」

「アップルパイ、とは何ですか?」

「リンゴで作る料理というか、菓子の名前。明日にはオーブンの工事も終わるから、そうしたら真っ先に作ってやるよ」

「それは楽しみです」


 そうしたようなわけで、一日が終わった。俺はその夜から、寝室には鍵をかけて寝るようになった。

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