第二日目

 イリスにこれを使えと示された寝台の上で、俺は朝を迎えた。他の部屋を覗いた限りでは寝台はこれ一つしか無かったようなのだが、彼女はどうしたのであろうか。まあ、そんなことはどうでもいいと言えばどうでもいいが。


 朝早く、またイリスに手を引かれて、どこかへ連れて行かれることになった。その前に朝食は取らなかった。この国では朝食という風習はそもそも一般的ではないのかもしれない。まあ、それは地球の歴史に照らして考えてもさほど珍しい話ではない。


 で、俺は何やらオフィスのようなところに招き入れられた。みんな俺の顔を見て真剣な態度になって、何やら話し合っているがその内容はさっぱり分からないしまったく見当もつかない。ここはいったい何をするためのどういう場所なのだろうか。一つ驚いたのは、イリスにそっくりな女がもう一人いたことである。姉か何かだろうか。そうだとしたら、双子かもしれないというくらいに似ている。服装はだいぶ違うが。


 と、イリスが銀で出来ているらしい硬貨を一枚俺に示して、それを俺の持ってきた一万円札の隣に並べた。身振りと手振り。どうやら、この紙が貨幣の一種であるということがこの場の誰かに通じたらしい。俺はリンゴの実の絵を紙に描いた。二十個。それくらいの購買力がある、ということである。500円もするリンゴはかなりの高級品だが、それはそれ。


 と、そうこうしているうちに、オフィスにいた男の一人に木製の、何だろうこれは、手形のようなものを渡された。もしかしたら、この世界での俺の身分を保証してくれる証明のようなものかもしれない。とにかく、有難く受け取って、大事にすることにする。


 そのあとはしばらくほっておかれて、何やら大勢でいろいろなことを話していたが、やがてイリスに手を引かれて、そこを出た。そのあと、何やら巨大な建物の前に連れて行かれた。


「——」


 中を覗き込んでみる。……驚いた。裸の男女が大勢いた。だが、卑猥な雰囲気はまったくない。おそらく、銭湯のようなものだ。男も女もいるところを見ると、多分中も混浴になっているのだろう。イリスはそこに入ろうとしたのだが、俺は強く手を引いてそれを止めた。怪訝な顔をされる。だが、俺はとにかくその銭湯に入ることだけは徹底して固辞した。


 イリスも俺を入り口に残して一人で風呂屋に入っていったりはせず、結局例の四階建ての建物のイリスの自宅に戻った。と思ったら、イリスはすぐ出て行ってしまった。置いていかれた。暇になったので、とりあえず一日目の日記を最後まで書き通した。それでも時間が余るので、掃除を始めた。片付けられる範囲は全部片づけたが、まだイリスは帰ってこない。


 金と鍵は渡されていたので、外に出てみることにした。同じ建物の下の階に、食品を商っているらしき店があった。新鮮なリンゴが山積みされている。他にもいろいろなものがあった。卵にバター、小麦粉に似た何かなどを購入する。その隣は金物屋だった。そっちでも色々と買い物をする。そして部屋に戻る。これだけの道具と材料があれば、あれが作れる。タルト・タタン。フライパンを熱し、バターと砂糖でカットしたリンゴをキャラメリゼしていく。そしてあらかじめ用意してあったタルト生地をかぶせ、じっくりと焼く。ロクな道具も何もない状況ではあるが、何とかうまく出来上がった。


 と、ほぼそれと同じタイミングで、イリスが帰ってきた。


「イリス。お帰り」


 と、言ったのは日本語である。帰ってきたイリスは一人ではなかった。年若い少女を一人連れている。何やら動物の耳が頭の上についていて、尻尾もあった。その尻尾はよく揺れた。地球の動物のそれと同じく、感情を表現するものであるらしい。イリスは彼女を俺に紹介した。らしい。


「クロノ、——ルービィ。ルービィ、——」


 名前はルービィと言うらしい。服装からして、奴隷だ。ずっと帰ってこないでどこで何をしているのか不思議だったが、市場に奴隷を買いに行っていたらしい。俺は二人にタルト・タタンを出した。二人ともえらく感激したようだった。そのあとでまたどやどやと商人や下男などがやってきて、新しい寝台が運び込まれた。しかも二つである。ゆうべ俺が寝るのに使った寝台も、居間らしき場所に置かれていたのだが、別の部屋に移動された。それは俺も手伝った。どうやらこの家は、寝室が三つと、居間が一つ、食堂が一つ、それにキッチン、3LDKの物件であるようだ。


 で、夜になったので寝るわけである。点ける気があれば居間にもその他各部屋にもオイルを燃やすランプがある、ということは教えてもらったが、油はタダではあるまいし、基本的には日が暮れたら寝るのがこの家の、そしておそらくはこの社会での一般的なルールであった。


 ただ。一つ、気にかかることがあった。夜、多分イリスはもう寝ているだろうというタイミングで、ルービィが俺のところへやってきた。


「——」


 話しかけられている。何やら手を引っ張られる。で、廊下に出て、自分の部屋を指差す。


「——」


 さらにルービィ自身と俺とを交互に指で指し示す。


「——」


 そして、俺の手を引いて、


「——♪」


 自分の胸に押し当てた。


「やめろ!」


 俺は思いっきり手を引き、ルービィを振り払った。ルービィは別に驚きも怒りもしなかった。ただその幼い外見には似つかわしくない蠱惑的な笑みをこちらに向けて、そして一人で自分の部屋に入っていった。扉には鍵があるはずだが、それをかけた気配はなかった。


 実際に喋っていた内容がどういうものなのかはまったく分からないが、おそらく間違いはない。つまりこれは、いつでも自分の部屋に夜這いに来てくれて構わない、という意思表示なのだ。俺にそんなつもりはまったくなかったが。


「……やれやれ。先が思いやられるな」


 俺は深く嘆息し、シーツを頭まで被って一人で寝た。

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