第一日目 その三

 女に連れてこられた場所は、四階建ての建物だった。石か煉瓦か、いずれにせよそんなものでできているように見えた。階段を上り二階に上がる。女が扉を開ける。その扉は木製だった。鍵もついているらしい。


 女はずんずん進んでいく。俺はとりあえず、中を覗き込む。……ひどい有様だった。広い空間になっていて、どうやら何部屋もあるようなのだが、乱雑にものが散らばっていた。物盗りが入った、という雰囲気ではない。何やら巻物だとか、脱ぎ捨てた服だとか、かなり古そうなリンゴの芯らしきものとか、要するに掃除をしていないのだ。こんな空間が公共の場であるわけはない。この女の私宅であろう。外見は美しい女なのだが、相当にだらしがないらしい。いや、どう見ても高貴な身分のようだから、召使いなりなんなり使っているのが普通ではないかとは思うのだが、この有様からするとそのようなものはいないのではないかと思われる。と、いつまでも入り口の前で固まっている場合ではなかった。とりあえず、中に入る。しかし座れそうな場所すらなかった。


「——」


 女は雑多なガラクタや生ゴミなどを素足で蹴飛ばし、床に空間を作って、そこを指差した。俺はそこに座る。なんだかぺたぺたする。気分が悪い。


「——?」


 女は地図らしきものを持ってきて俺に見せた。まったく見た覚えのない地図だった。地球の地図ではないのはもちろんのこと、例えばコンピューターゲームの中の地図であるとか、ファンタジー小説の地図であるとか、そういうものを思い返してみてもこれと一致するものは思い当たらなかった。俺が首を横に振ると、女は何も書かれていない紙と、筆記具のようなものを示した。俺は地図を描き始める。メルカトル図法の、地球の地図。日本だけはこころもち大きめに書いた。そこに、


『日本』


 と文字を書き加える。そして財布から一万円札を取り出し、


『日本国銀行券 壱万円』


 の文字を示す。最初の二文字は俺の書いたものと一致するわけである。これである程度俺の言わんとすることは通じたであろう。


「——」


 と、散らかった部屋の中に、これは手つかずのリンゴの実が積んであった。籠の中だ。それを見る。これを使えば、平面に地図を描くよりもより正確に、地球のことを伝えられるかもしれない。女にリンゴを渡されたので、ペンの軸の方を使って、リンゴの丸い実を地球儀に見立て、もう一度世界地図を彫った。今度はメルカトル図法ではない。


「——」


 女は首を大きく捻り、壺を漁り始めた。巻物がたくさん入っている。この雰囲気からすると、おそらくこの世界には冊子状の書物というものが存在しないらしい。この世界の書物というのはすべて巻物なのだろう。


「——」


 女は手に取った巻物を紐解きながら、リンゴを齧った。俺もそういえば空腹を感じないこともなかったので、さっき地図を彫ったのとはもちろん別の奴をだが、一つ貰って食べることにした。


 ……滅茶苦茶に不味かった。これはひどく古いリンゴだ。味がふわふわになってしまっている。部屋の惨状を考えれば当然のことなのかもしれないが、この女はどんな食生活をしているのだろう。


 女は巻物に没頭してこちらに関心を示さなくなったので、勝手に家探しをすることにした。リンゴの他に食用になりそうなものはなかった。台所らしき場所はあった。ここも雑多なゴミなどが散らばっていて明らかに使われている様子はないが、少しだけ片付けて、かまどを確認する。俺でも使いこなせそうな構造になっていた。火を入れる。水は上水道が存在していた。驚くべき技術だ。白い粉が一種類と、何やら粘性の高い液体のようなもの。まさか毒ではあるまいから少しだけ口に含んでみると、塩と糖蜜のようであった。ペティナイフくらいのサイズの刃物も一本だけだが、あった。これだけあれば、あのリンゴをマシな状態にするくらいのことはできる。


 俺はリンゴを丁寧に八つ切りに割いて、フライパンに水を張り、リンゴを並べて、塩を振り糖蜜を注いだ。かまどだから多少は難しいが、弱火を保つようにして20分ほど煮る。これでコンポートの完成である。皿くらいはあったので、二枚借りてコンポートを盛りつけ、女がいる部屋に持っていく。


「——」

「リンゴを煮てみた。食べてみないか」

「——」


 女はぱあっと表情を輝かせ、一皿分のコンポートをすべて平らげた。そして、名を名乗った。自分自身を指差して、


「イリス」


 と言う。そうか、イリスか。俺ももちろん名乗る。


「クロノ・タツキ」

「クロノ……?」


 やっとお互いの名前がどうにか疎通できるようになった。ところで、既に日が暮れている。蛍光灯なんてものはなく、あるのは月明りばかりで、ほとんど真っ暗だ。俺は困った。で、手帳を取り出し、月明りを頼りに『第一日目 その一』の日記だけを書いた。『第一日目 その二』と『第一日目 その三』は今書いているところだが、今はいつかというと実は既に二日目の昼過ぎである。だが、その話は明日の分の日記の中で書いていくことにしよう。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る