第三十七話
泣き叫びながら自分に食って掛かるラクテアを、皇帝は平然とした顔で宥め続ける。ラクテアの立場がどういうものであるかはみんな知っているので、誰も止められない。わたしがやったら殺されるだろうが。
わたしたちは既に退出を許されているのだけど、だからといって出て行ける空気ではなかった。他の人々もみんな場に吞まれている。しかしそんな中、口を開いた者があった。アンフィスバエナ。
「クリス様。もう無理ですよ。どうにもなりやせん。わっちらの負けです」
「でも、でもアンフィス……! わたくしは……わたくしはっ……! 許せない、こんなの、こんなの、許せないよっ……! やだよ、いやだよお……こんなのいやだ……あ……ああ……」
「……聞き分けのない子ですね。しゃーない。じゃ、わっちが最後に一肌脱ぐといたしましょうか。わっちの大切な、かわいいラクテア様のためですからね」
誕生直後に母を殺された彼女にユーフォルビアの領地と名を与え、貴族の地位に引き立てることでその身を守った父は死んだ。たった一人残った姉さえも裏切った。そんな孤独な女に残された、最後の愛が。
いま、そこに立っている。
「次の朝日を拝める方は、覚えてお帰りくださいまし。わっちの名前はアンフィスバエナ。しがない竜人の奴隷でございやす」
そう言うやいなやアンフィスは隠し持っていた短剣を抜いた。ここは皇帝のおわす宮殿の謁見の間である。絶対に許されることではない。ずらりと並んだ近衛の兵たちがほぼ同時に、一斉に剣を抜く。
「おっと。一つ言い忘れてた」
そしてアンフィスはその短剣を放って捨てた。だがそうしたところで近衛兵の方までが剣を収めはしない。距離を詰めていく。
「局長閣下。あの甜橙の件はわっちが一存でやったことですんで。それについてはクリス様を責めないでやってくださいましね」
わたしは返事をしなかった。というより、できなかった。圧倒されていた。その余りの気高さに。その余りの美しさに。
「お命頂戴しましょうか」
近衛兵の一人が倒れた。
「水先案内しましょうか」
二人目が倒れた。アンフィスは徒手空拳で次々に近衛兵たちを叩き伏せていた。信じられないような身のこなし。わたしの理解など遥かに超えている。こんな場面に置かれるとわたしはただの学者女に過ぎない。
「惚れて添えぬは浮世の定め」
歌うように。舞うように。
「可愛ゆてならぬはおぼこの貞女」
即興詩を口ずさみながら。
「行きはよいよい帰りは怖い、お代は見てのおかえりよ、っと!」
アンフィスバエナは群がる近衛兵たちをなぎ倒し、ただ一直線にルービィに肉薄した。
「……アン」
「わりーな、ルー」
隣にいるが、わたしでは盾にもなれない。そう思った。そしてアンフィスの両手がルービィの華奢な首にかかろうとした。そのときだった。
「御前であるぞ。狼藉は許さぬ」
「へっ?」
「ミカ君!?」
ミハイル2世が自らその身を晒してルービィの前に立ちはだかった。彼はもちろん帯剣しているのだが、腰の鞘に差したままだ。つまり素手。そして。
「あ、ぐっ……!」
打ち放たれた皇帝の拳がみぞおちにめり込み、アンフィスはその場に崩れ落ちた。だが、剣を持った近衛兵たちが殺到するのを制止して、皇帝はさらにこう言った。
「これは狂人だ。医者に診せよ」
「拙老でよろしければ……」
教授がおずおずと挙手した。もちろん御典医も呼ばれてきて、その辺に転がってる近衛兵たちも含めて全員が診察を受けた。結果として。
この場のこの一連の騒ぎで、死んだ者も大怪我をした者も一人もいなかった。泰山鳴動して鼠一匹。
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