第9話 変わっていく日常と私
[劇団集団きなりいろ]に入団してから私の日常は大きく変わった。
ただ大学で当たり障りなく過ごし、週数回入ればいいだけのバイトをこなす日々だった頃が既に遠い過去のように思える。
今では一日とはこんなにも短かったのかと驚くほど朝から晩まで劇団中心の目まぐるしい毎日を送っている
まず、芝居というものが何かわからないずぶの素人である私が、劇団の皆さんと舞台に立つためにはしなくてはならない事が山積みだった。
第一に、とにもかくにも舞台に立つための基礎体力と身体づくり。
常にいかに楽をして生きていけるかを考えて省エネ生活を送っていた私にはとにかく体力がなかった。
それから高校を卒業してから運動という運動をしてこなかった私には台詞を発するための声を鳴らす最低限の筋力も十分ではなかった。
これらがなければ舞台一本最後まで板の上できちんと居続ける事すら出来ないのだ。
加えて教えてもらった発声練習に早口言葉、アクセント確認といったまずは基礎中の基礎を繰り返す。
ただ大声を出せばいいという問題ではない。いかに明瞭に聞きやすく正しい言葉を発する。
これがとにかく難しい。口の開き方、舌の位置や動き、顔の筋力、身体の使い方、全てを意識しなくてはいけないのだ。
さらに、空っぽで何にも興味を持ってこなかった私にはインプットが必要だった。
勧めてもらった簡単に読める小説から読み始め活字に慣れつつ物語に触れる。
様々な映画やドラマ、舞台、音楽といった作品を観て聞いて自分の中に自分の感情と共に落としていく。
他にもやるべきこと、やった方がいい事が毎日増えていきなんとか一つ一つ消化していくのがやっとだった。
もちろん今まで通り大学もバイトもきちんとこなす。特にバイト。
両親がお金を持っているだけしか能がなく今まで私もその脛をかじっていたがこれからは自立して一人で生きていけるようになりたいという意識に変わった。
だからこそ今は出来る限り稼いでもおきたい。バイトの日数を増やしてもらい、親から与えられたお金は全て貯金へ回した。
このようにこの一カ月はとにかく忙しくて手探りで息をつく暇もなかったが、不思議と嫌ではなかった。むしろ今までの人生が嘘だったかのように毎日が輝いて見えとても充実していた。そして純粋にお芝居というものが本当に面白いのである。
「夕日ちゃん、劇団に入ってからなんか変わったよね」
劇団やお芝居を何よりも優先し以前よりも付き合いの悪くなった私は美代やの周りに嫌味を言われることが増えたが、もう何も思わなかった。
大学で上手くやろうとかそういう事はどうでもよくなっていたのだ。
嘘ばかりで固めた大学生活や友達よりも、もっと大事な事がある。
もちろん、そのせいで面倒な事に巻き込まれたり影口を言われたりと居心地は悪くなったけれど、そんな事にかまっている暇は私にはなかった。
それに、大学に居場所がなくなっても私には帰る場所が出来た。
昔も今も変わらず、優しさと強さと可愛さに溢れたフゥーシェ様…いや章さん。そして尊敬する皆が待ってくれている、そう[劇団集団きなりいろ]というかけがえのない場所が。
「ま、もう二度と行かないけど」
怜吾君は心の底から吐き出した盛大なため息と共にその話を締めくくった。
あぁ、本当に嫌だったんだなぁ。っていうかここまで思わせるなんて野木君達何にも成長してないんだ…まぁ想像はついたけれど。
[劇団集団きなりいろ]は舞台稽古集中期間以外では週に一回の集合日を除いて稽古場兼事務所へ来ることは自由だった。
私はとにかく稽古が人よりの数百倍必要だったので時間が取れる限りはこの稽古場で過ごしていた。
そんな私に付き合ってくれたのは入団以来仲良くしてくれている聖と怜吾君だった。
聖とは少しずつ打ち解けてはきたが怜吾君何を考えているかはよくわからない。むしろあまり好意的に思われていないのも分かる。
それなのにこうしてこんな私の稽古に付き合ってくれているくらいなのだからいい人なんだろうなとも思う。
そして今日も三人で集まって稽古をしていたのだが、休憩時間をとった際に聖が怜吾君に要さんが[修練の日]と名前をつけた野木君達の演劇サークル稽古へ彼が同行した時の話を聞きたがったのだ。
怜吾君は「思い出すもの嫌だけど」と前置きしつつ淡々とその時の事を語ってくれた。
聖はうわぁ、だとかそれひどいねぇ~と苦笑いをしながら相槌を打っていたが話を聞き終わると腑に落ちない顔で怜吾君へ尋ねた。
「でもさ、怜吾君あんなに一緒に行こうって誘われてたのにずっと断ってたじゃない?なのになんで今回一緒にいったの?」
「え?そうなの?」
「うん、前からね、要さん一人で行くのは精神的辛いからってずっと怜吾君を誘ってたの。でも、ほら行かなくてもなんとなくわかるでしょ?どんな感じかって…。怜吾君は少しでも近づく事すら嫌だっていってのになぁって」
「そうんだんだ…」
確かに。
ここの劇団の皆は支援して下さる方の顔を立てるために、強制的に毎度あの野木君達のダメ舞台を観劇しなければいけないと聞いた。だからこそ実際に行かなくてもどれだけ稽古が最悪なものかはわかるだろう。芝居に対して真剣に取り組んでいる怜吾君が拒否するのも分かる。でもだったらどうして?私が不思議そうに見ていたことに気が付いた彼は少し鋭い目で私を見つめ返してくる。そして小さくため息をつくと私へこう答えた。
「…夕日、お前が入ってきたからな」
「え?」
「何でそこで夕日ちゃんが出てくるの?」
まさか私の名前が出てくるとは思わず私は少し動揺してしまう。
確かに私が野木君と知り合いだという事はもう皆知ってはいるけれど、それと何か関係があるのだろうか。
「旗揚げ公演が終わって、第二回公演の準備も今進んでいる。そしてそれが俺達の本当の意味での第一歩だともいえる。だから、ここで一度本気で嫌だったものに触れてみて何か得るものがあるかもしれないって思ったんだよ。小川夕日という章さん一押しの毎日なんだかんだ頑張っている新入団員に負けないようにな」
「怜吾君…」
「ま、得たのはあんな風には絶対になりたくないって思わせてくれた事くらい。あとは苛立ちと呆れと…まぁ不快な気持ちの方が強すぎてなんとも言えないけどな」
「なるほどね~そういう事かぁ~!確かに私も夕日ちゃん見てたら負けないように頑張ろうって思うもん、だから夕日ちゃんには感謝してる~!」
「そんな、私は何も…」
「ま、とにかくそういうことで稽古頑張りましょうって話だ…あんな風にならないためにも、な」
せせら笑いながら怜吾君はそう言った。
確かに、その通りだ。今の私は彼らと同じレベル、いやそれ以下なのだから。せめて彼らと同じレベルにまで到達してからじゃないと彼らを批判する資格もない。
「頑張ろう~頑張ろう~!だって第二回公演も迫って来るしね」
「第二回公演…」
「まさかこんな短いスパンで公演を打てるとはな」
「白尾さんが頑張ってくれたって章さん言ってた」
「いやほんと何者なんだよあの人…」
「でも嬉しいよね、まさかこんな早く夕日ちゃんと舞台に立てる日が来るなんてさ、ね夕日ちゃん?」
「え…あ…うん…」
そう、私が少しでも早く成長しなければいけない理由がここにもある。
私も出演させていただくことが決まっている第二回公演が四か月後に決まったのだ。稽古が始まるのはその約一カ月前、つまり私が集中して基礎作りが出来る期間はあと三ヶ月しかない。
「ねぇ夕日ちゃん、焦らず丁寧にいこう、ね?」
難しい顔をして黙ってしまっていた私に聖は優しく微笑んでくれる。
温かくて眩しい彼女の存在が私にとってとても大きな支えだった。
「うん…稽古お願いします」
「もちろん!」
初めは前世の記憶に引っ張られるような形でこの劇団に入団してしまい、未だにフゥーシェ様の願いが私の原動力となっているのも事実だ。
正直、記憶を取り戻してからの自分はどうにも不安定で自分という存在がどういう者なのかよくわかっていない部分もある。
これからどうしたいのか、果たしてこのまま進んでいいのか。
だけど、メロニア=リックではなく小川夕日として、自分の意思で私はこの劇団で皆とお芝居をしていきたいという気持ちは確かだから。
まずは今やれる事を全力でやろう。そうすれば何か見えてくるかも知れない。
私は自分に喝をいれ、再び稽古に戻っていった。
一方でそんな私を怜吾君が冷たい目で見ていた事を今はまだ知らなかった。
そして、第二回公演に向けて稽古を続けていたある日、今後を大きく変える出来事が起こる。
その日は週に一回の劇団集合日で外部での仕事で誰かがいない事が多い周多さん、要さんや美早子さんといったメンバーも今日は勢揃いしていた。
「皆が揃うのって久しぶりだからなんか嬉しいなぁ」
聖はいつもニコニコしているがその大きな目を一段と細くして嬉しそうにしていた。
そんな聖を眺めながら要さんはしみじみと呟く。
「やっぱり可愛いねぇ、恋する乙女ってやつは」
「うわ、親父クサっ。止めてもらってもいいですか~?ウチの聖にそういうの」
美早子さんが即座にツッコむ。
「恋する、乙女?」
聞きなれないワードに私が反応すると章さんがこっそり教えてくれる。
「まぁ、そのうち分かるよ。そうだなぁ…あと30分くらいって言ってたかなぁ?」
「はぁ…?」
私が理解できずにいると聖とは正反対にいつもよりも険しい顔をした怜吾君へ周多さんが話しかける。
「で、なんでお前はそんな顔してんの?」
「…別に、聞いてなかったんで、俺は、今日あの人たちが来ること」
「あぁーなるほどね、拗ねてんのか、そうかそうか!大好きなあの人が来るのに教えてもらえなかったから~こころの準備っていうものも必要だもんなぁ~」
「違うっ!!!…あ、いや、違わないけど…」
「ちょっと~周多もウチの怜吾からかわないでもらっていいですか?」
「はいはい、すみませ~ん」
美早子さんと周多さんのやりとりに挟まれながら小さくなる怜吾君はいつもよりも幼く見えてしまう。普段は年齢よりもかなり大人びて見えるのに少し可愛い。ところがそんな事を考えている事がバレたのか怜吾君にこちらを思いっきり睨まれてしまう。
その目線は思ったよりも冷淡で背筋が少しゾクリとしたがすぐに目を逸らされ安堵した。
やっぱり私は彼に嫌われているんだと改めて実感し調子に乗っていたかと反省する。
「んじゃま、そろそろ始めましょうか」
そうこうしていると章さんの号令で稽古が開始される。
稽古が始まれば恋する乙女だとか気になっていたことも少し落ちた気持ちもすぐに晴れていく。
やはり全員が揃うと一気に華やかで明るくなる。行われているエチュード稽古も見ているだけでも勉強になりそれぞれのエチュードにくぎ付けになる。
そして滞りなく稽古が進んでいた時の事、章さんの言う通り約30分経った頃だろうか稽古場の扉が突然開く。
稽古場にはメンバー全員既に集まっているのでもし誰かが来たとしたら外部の人間だ。
私は少し緊張しながら扉の方を見やるとそこには二人の男性が立っていた。
瞬間全身が固まったのが自分でもわかる。
「嘘…」
こぼれ出た言葉に怜吾君が鋭くこちらを睨むがそんな事気にしていられなかった。
エリットン=ロイ様。
まさか、貴方にもこの世界でお会いできるなんて。
フゥーシェ様が心から愛した、貴方に。
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