第86話
リーシャの所属するハイランド軍の医療部隊──リーシャは初めて経験する戦争のその凄惨さに言葉を失っていた。
どれだけ治療を施しても、血まみれの兵や手足を失った兵、意識を失って瀕死の兵が次々と運び込まれてくる。その中には聖魔法が間に合わずに、絶命してしまった者も多くいる。想像を遥かに絶するその光景に、リーシャは思わず涙してしまった。
(これが……こんな悲惨な事がこれまでに何度も行われていたというですか?)
どうして同じ人間同士でここまで酷い事ができるのか、優しい彼女には到底信じられなかった。今回のは特に酷いだけ、と周囲の神官達が教えてくれはするが、そういう大小の問題ではない。この戦争という行為そのものが、悍ましく恐ろしい。絶対に二度と起こしてはならないと思わされる。
もはや命が尽きるという寸前なのに「最後を看取ってもらえるのが王女様で幸せだ」と言ってくれた者もいた。それだけ辛い目に合っているのに、兵は最後まで国を想って逝ったのだ。
たった今も一人、リーシャに手を握られたまま一人の若い兵士が息絶えた。
(私は……私は何も知りませんでした。私達の平和が、こんな残酷な犠牲の上に成り立っていたなんて……!)
もはや目覚める事のない若き兵の頭を抱き締め、リーシャは嗚咽を堪える。
ヴェーダは、そんな泣き崩れる王女の肩をそっと抱いた。
「リーシャ、無理し過ぎよ。奥で休んだ方がいいわ」
「……大丈夫です」
リーシャは首を横に振って続けた。
「一人でも多く救わないと……私がここにいるのは、その為なんですから」
涙を拭い、リーシャは立ち上がって新たに運ばれてきた怪我人のもとへ走る。
新たに運ばれた怪我人は剣で腹を裂かれ、意識ももう殆ど残っていないほどの重傷を負っていた。流れる血の量が多く、治癒魔法が追いつかない。
治癒魔法はそもそも本人の生命力がないと効果を発揮できない。その兵士の生命力は既に尽きかけており、多くの神官が諦めようとしていた。
「諦めてはいけません!」
リーシャはその瀕死の兵士を抱きかかえ、必死にその兵士に呼び掛けた。
「しっかりして下さい! あなたは何を残してここに来たのですか⁉ あなたを待っている人の為にもあなたは生き残らなければなりません! だから、お願いします……生きて下さい!」
涙を流しながらも、そこには先程の弱気になった姫君の姿はなく、民を導く王女……いや、聖女の姿がそこにあった。
彼女の体から聖なる光が溢れ、その光は瀕死の兵士へと吸い込まれていくと、裂かれた腹はみるみるうちに塞がった。そして、瀕死だった兵士は安らかな寝息を立て始めたのである。
その瞬間に、歓喜の声が医療部隊を包んだ。彼女は今、奇跡を起こしたのだ。
「凄い……これがマルファ=ミルフィリアの末裔の力だというの?」
ヴェーダは呆気にとられた様子でその光景を見て呟いた。
先程のリーシャの聖魔法は、常識の範疇を遥かに越えた範疇だった。治癒魔法の域を超え、蘇生魔法に近いものだったのだ。
リーシャはそんな彼女の気持ちも知る由もなく、笑顔をヴェーダに向けていた。もはや彼女の服は怪我人の血で真っ赤だったが、それでも彼女の神々しさは失われることはなかった。
(まさしく〝聖女〟ね)
〝ハイランドの聖女〟リーシャ──この瞬間を目の当たりにした者は、口を揃えて彼女をそう讃えたのだった。
*
同時刻──医療部隊討伐を任されたイグラシオ師団は、ハイランド側から見て左翼の森林の深くに潜っていた。
斥候を数多走らせ、イグラシオはハイランド左翼のラーガ部隊の後方に医療部隊があることを見抜いていたのだ。
彼は自ら直轄のランス部隊五〇人だけを率いて、ラーガ部隊後方の医療部隊に標準を当てる。医療部隊の側面は、ラーガ部隊が1列だけ隊列を守備として回しているだけで、守りとしては薄かったのだ。
正面側の戦況としては、ラーガ部隊の前衛は一進一退を繰り広げており、陥落した西部戦線と違い東部戦線は戦況が動かなかった。その為、前線の援軍として後方の守備部隊を送っており、医療部隊を守る防壁は薄い状態となっていたのだ。
「いいか、お前達。最初の一撃で医療部隊を守備している隊列を貫く」
イグラシオが静かな声で語る。
「あくまでも目的は医療部隊の壊滅だ。いくら我々がローランド最高峰の部隊といえど、たった五〇騎ではここからラーガの本陣まで貫くのは不可能。医療部隊を叩いてすぐにこの森へと退却する。一旦森へ深く入り、そこからローランド本陣へと戻る。いいな?」
ランス部隊は静かに敬礼でそれに応えた。
彼等とて死を覚悟した玉砕作戦に等しい。ラーガ部隊の前衛が守備に回り、ランス部隊を叩きにくれば即座に終わる。
しかし、五〇以上の騎兵部隊となると動きが大きくなり、奇襲が成立しにくくなってしまうのだ。
イグラシオはあくまでも任務である医療部隊討伐を優先したのだ。
「いくぞ」
イグラシオはランスを獲物に向け、そして気合の声と共に突撃した。
ローランドにとっても、この奇襲は戦いを左右する程のものである事には間違いないのだ。
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