第20話 神話

「驚きましたか?」


 ジュノーンの傷口を全て塞ぎ切ると、リーシャは一息吐いて、額に垂れた汗を手で拭った。

 もう大丈夫、と言わんばかりに安堵の笑みを漏らしている。


「リーシャ王女はミルファリアの神官だったのか」

「いえ、少し違います」


 ジュノーンの言葉に、リーシャ王女は眉根を寄せて少し困った様な笑みを浮かべた。


「違う?」

「私の母の家系は……その、言っても信じてもらえるかわかりませんが、ミルファリア神に仕えたとされる五大使徒のうちの一人、マルファ=ミルファリアの血を継承しているんです。私にも当然、その血が流れていますので」


 このぐらいならできます、とリーシャは付け加えた。


「さっき呟いていた言葉は? 俺は初めて聞いた言語だったんだけど」

「先程の言葉は古代神官語です。ミルファリアの使徒のみが使うとされているので、ジュノーン様が聞いた事がないのは当然だと思います」

「ミルファリアの使徒のみって……」


 青髪の少女から語られた真実は、ジュノーンを困惑させた。

 マルファ=ミルファリアと言えば、歴史の教科書にも出てくる様な人物だ。創世記の光の神ミルファリアと闇の神メフィストの対決で、光の神の勝利に関わった五大使徒の一人であり、光の使徒とも呼ばれている。


(王女の創作話……なわけがないよな)


 作り話と言われた方がまだしっくりくるが、実際に今はこの少女に瀕死の傷を癒されたばかりである。信じざるを得ない状況ではあるが、まさか神話で出てくる光の使徒の子孫が自分の目の前にいて、そして会話を交わすとは夢にも思わなかったのだ。

 本来、この様な俄かに信じがたい話を聡明なジュノーンが簡単に信じるはずがない。だが、疑う事すら必要ないと思える程、妙に納得してしまった自分にも気付いていた。


(リーシャ王女が持つ優しさ……それに、この行動力。彼女がそこいらの貴族や王族の女と違うのは、その偉大な血筋の所為なのかもしれないな)


 彼女のこれまでの行動を思い浮かべると、何んとなしに納得してしまうジュノーンであった。

 母の為に単身敵国に乗り込み薬草を探す度胸、そして捕縛されたにも関わらず無事に脱出。加えて、本来本国に戻れたはずなのに一介の騎士の為に敵国に留まり、更にジュノーンの救出にも成功する……これらの一連の流れは奇跡に近い。

 この短期間の間に彼女が起こした行動を見ても、彼女が常識を逸する存在である事には間違いがなかった。そして、その運の良さには、まるで何かの加護があるかの様にも感じられたのだ。


(そんな王女に惹かれるのも当然だったのかもしれないな)


 ジュノーンは少女の柔らかい微笑みを眺めながら、何となくそう思うのだった。


「ジュノーン様は信じて下さるのですね」


 銀髪の青年が疑う素振りを見せなかったので、リーシャは少し安心した。

 嘘だ、と言われたならば、さすがの彼女でも傷付くのだ。


「信じるさ。信じるからさ……いい加減、その〝ジュノーン様〟と言うのはやめないか? それに敬語も。俺はもう帰る場所も何もない流浪の身で、爵位も何もない。比べてリーシャ王女は、ハイランド王女であり、かのマルファ=ミルファリアの子孫……本来なら俺なんぞが話すのも烏滸がましい存在のはずだ」

「ですが、私はあなたに命を救われました。命の恩人に対して、感謝と敬意を持つ事は当たり前です」

「なら、俺も同じだ。俺もリーシャ王女に危機を救われ、怪我まで治してもらった。間違いなく命の恩人さ」


 ジュノーンがそう言うと、リーシャは少し困った顔をして、ううむと唸った。


「どうした?」

「いえ……敬語をやめて欲しいと言われても、これは私の癖みたいなものなんです。だから、その……今更変えろと言われても難しいものがあります」


 彼女曰く、人の身分に変わらず、誰であってもこの話し方なのだそうだ。それが従者であっても、国王陛下の面前であってもそれは変わらないのだと言う。


「なるほど、癖か。それなら、無理に話し方を変えるのはよくないな」


 彼女は王女という身分にも関わらず、誰にでも丁寧な言葉遣いを癖付けているという事だ。尊大な物言いしかできないローランド帝国の貴族達に彼女の爪の垢でも飲ませてやりたいとすら思った。


「それなら、『様』付けだけでも何とかしてくれないか? 王女殿下から『様』付けされるだなんて、体が痒くなる」


 ジュノーンがそう言うと、少し納得できないという様な、不服そうな顔をするリーシャ。

 いくら不服そうな顔をされても、こればっかりはジュノーンとて引けなかった。彼はもともと下級貴族であるし、今は爵位を捨てて謀反を起こしている身である。王女殿下に様付けされる身分ではないのだ。


「それなら……私からも条件があります」

「条件? なんだ?」


 どうして様付けをやめるのに条件が必要なのかと思ったが、そこで反論しても堂々巡りなので、その条件とやらを訊いてみる事にした。


「私に〝王女〟とつけるのを止めて下さい。私は……あなたに名前で呼ばれたいです」

「名前ったって、お前な」

「それは、そんなにいけない事ですか……?」


 少女は顔を赤らめて、上目を遣って懇願する様に言った。

 五大使徒の子孫であるかどうかなど欠片も感じさせないその一般の女のような仕草に、ジュノーンはどこか心が暖まるものを感じた。女にこの様に懇願されて拒絶できる程、青年は我が強い男ではなかった。


「わかったよ、リーシャ」


 ジュノーンが名前で呼ぶと、リーシャは顔を輝かせ、同時に頬を少し紅く染めた。


「男性の方にこうして名前を呼ばれたのは、お父様以外で初めてです」

「え⁉」


 その言葉を聞いて、思わず息が苦しくなった。

 今更ではあるが、彼女はこうした人懐っこい性格ではあるものの、王女殿下である。王女殿下を呼び捨てにできる人間など、そう何人もいるわけがない。


「あ、もう遅いですよ? さっき約束したんですから。だから……これからも宜しくお願いしますね、ジュノーン?」


 リーシャが彼の逃げ道を防ぐ様にして、ジュノーンの名を呼んだ。そこで二人顔を見合わせ、互いに照れくさそうに笑うのだった。

 脱獄を幇助し、反旗を翻して母国と戦い、死地を乗り越えながらも、二人はこの時確かに幸福を感じていた。こんな非常時で絶望的な状況でも幸福を感じるのか、とジュノーンは呆れていた程だった。

 だが、これは彼らが敵国の騎士と敵国の姫の関係から、人対人の関係になった瞬間でもあった。

 ここから、本当の意味で二人の物語が始まる──この時の二人は、どことなくそんなものを内心で感じ取っていたのかもしれない。


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