第10話 疑念

 ジュノーン達がローランド街道を走り抜け、リマ草原へと足を踏み入れようとしていた時──ローランド城内にある会議室に激震が走った。リーシャ王女脱獄の報告である。

 日夜会議の議題であるその人が牢獄から抜け出していたというのであるから、ローランド帝国としても大問題だった。


「バカな! 小娘があの牢獄から抜け出したというのか⁉ 有り得ぬ! 一体どんな方法を採ったというのだ!」


 ローランド帝王・ウォルケンスの怒号が飛んだ。


「それが、鍵が焼き切られていたとの事で……」


 脱獄の報を届けにきた兵は、敬礼したまま答える。


「小娘にその様な力があったというのか……! 看守は、看守は何をしていたのだ⁉」


 帝王は円卓をバンと強く叩いた。

 捕縛した重要捕虜に逃げられるなど、失態も良いところである。


「それが……看守によれば、ジュノーン卿が来訪したとの事で」

「ジュノーン、だと?」


 宰相マフバルの顔色が、その名を聞いて変わった。

 それは彼の耳にもよく入る名だった。彼の武勇によって救われた事は数多い。

 だが、それ以外にもマフバルは彼に興味を惹かれるものがあった。彼の自分を見る目がどうにもだったので、意識してしまうのだ。それは、憎悪──かの下級貴族からは、そういったものを向けられていると感じるのだった。


「マフバルよ。貴様、あの者に面会許可を出したのか?」


 王が宰相に問うた。


「まさか。私は何も聞いておりません。仮に聞いていたとしても、あの様な身分の低い貴族に一体誰が許可を出しましょうか」


 マフバルは慌てて首を振った。

 重要捕虜との面会は、基本的にマフバルの許可が必要だ。かの要人との面会など、万が一があっても認めるはずがない。


「ですが、ジュノーン卿であれば納得ですな……鍵を焼き切る芸も可能かもしれません」


 牢獄の鍵を焼き切るなど、高名な炎術系魔導師でもない限り不可能な事だ。だが、ジュノーンは〝黒き炎使い〟という異名を持つ炎術師でもある。それはこの国の住民であれば誰でも知っている事だ。


(おのれ……ジュノーン卿め。まさか、これまでの政治犯脱獄にも関与していたのではあるまいな)


 この脱獄の報を訊いて、過去何度か人知れぬ脱獄があった事をマフバルは思い出した。

 今回の脱獄があまりにも手際がよかったので、おそらくジュノーンが裏で絡んでいたのだろう。


「おのれ、あの異端者めが……!」


 ウォルケンス王は歯を噛み締めて怒りを示した。


「陛下、どうかお気を静め下さい。我らが何としてもかの異端者は仕留めてみせましょう」


 マフバルは慌てて王を宥めにかかる。ウォルケンス王に癇癪を起されてはまとまるものもまとまらなくなるのだ。


(しかし、ジュノーン卿が今回どうしてこの様な謀反を?)


 宰相は彼の奇行に首を傾げた。

 彼から見て、ジュノーン=バーンシュタインは若くして優秀な騎士であり、良き領主でもあった。領地は小さいながらに税はしっかりと納め、戦が起これば我先にと翔け参じていた。それに、対ハイランド戦や他国の外敵との戦での武功もあり、民衆からの人気も高かった。

 国への忠誠心は高いと思っていた下級貴族だったが、今回のこの脱走劇に加わる意味がわからなかったのだ。


(報酬や褒美に不服だったか?)


 マフバルはジュノーンという下級貴族に対してあまり深い感心を持っていなかった。

 だが、彼に出世欲があったならば、もっと何かしら別の動きがあったはずだ。それに、彼は先のティアナ平原の戦いでの武勲に対する褒美で新たに領土を与えるといった王の申し出に対して、断っていた。

 国政への参加にも興味がなかったのだろう。欲の無さは父のバーナードとよく似ているとさえ思った程だった。


(父? いや、ジュノーンはバーナード卿の養子だったか……?)


 その時、マフバルの脳裏に何かが引っかかった。バーナード=バーンシュタイン……それは、彼が政敵として闇に葬り去ったシュルツ家と親交が深い貴族の名だ。

 マフバルの中で何かが繋がりそうになった時、それもウォルケンス王の怒号によって掻き消される。


「おのれ! あの小僧めが、調子に乗りおって! 看守もジュノーン卿と通謀していたという事か!」

「はっ。それが、看守はジュノーン卿に陥れられた、と主張しており──」

「殺せ!」


 報告兵の言葉を途中で遮り、ウォルケンス王は言った。


「その看守を処刑せよ! 通謀していたにせよ、していないにせよ、自らの責務を果たせぬ者に用は無い」

「はっ!」


 兵はもう一度国王に敬礼してから、会議室を後にする。


「くそ! 捕虜に逃げられるとは……何たる醜態だ!」


 ウォルケンス王はテーブルの上に置いてあったワイングラスを壁に投げつけると、マフバルの方を向いた。


「マフバルよ……この件は貴様に一任する。ジュノーンについては生死は問わぬが、王女は生け捕りにせよ。絶対にハイランドには行かせるな。この様な機会、またとないのだぞ!」

「はっ、承知致しました」


 ウォルケンス王はマフバルの返事を聞くと、苛立った素振りを隠さずに会議室を後にした。


(全く……自分は何もしないくせに、いい気なものだな)


 マフバルは王に対して心の中で唾を吐きつけると、同じく会議に同席していたローランド帝国の大将軍であるヘルメスの方を向いた。


「ヘルメス将軍、一番足の速い騎馬部隊を叩き起こして、国賊ジュノーンを追撃させよ。先行の騎馬部隊と増援部隊の編成は貴殿に一任するが、敵は〝黒き炎使い〟だ。一人と言えども油断はするな。騎馬部隊も猛者で揃えよ」

「それは承知の上です、宰相殿。ただ、味方にいた時こそ心強いと思っておりましたが、敵に回るとこれ程恐ろしい者もおりません故……」


 どうなる事やら、とヘルメスは額を指で押さえた。

 〝黒き炎使い〟ジュノーンとは、個人の武勇だけで言うならローランド帝国で一・二を争う実力者だ。彼を屠れと命じられても、こちらにどれだけ犠牲が出るのか、想像もつかない。


「全くだ。単騎であれほどの武力を持つ武将もそうはおらぬ。心してかかるが良い」


 マフバルは続けて従者にジュノーンの経歴を調べるように言った。彼が謀反を起こす理由が想像できなかったのだ。ジュノーンという男の背景を知る必要があった。


「ジュノーン卿の館にも部隊を送りましょうか?」


 ヘルメスが訊いた。


「いや、要らぬ。奴とて未だローランド市街地付近にいる程愚かではあるまい」


 おそらくジュノーンの屋敷に誰もいないであろう事は簡単に想像ができた。彼がこれまでに挙げた武勲を鑑みれば、頭もかなり切れる事が想定できる。

 将軍の言う通り、味方にいる間は心強い人間であったが、敵に回すと恐ろしい武将だ。


(まさか、ハイランドと内通していたか? いや、それはないか)


 一瞬敵国との密通も考えたが、その疑念を振り払う。

 先のティアナ平原の戦いで〝賢王〟フリードリヒをジュノーンは撃退しているのだ。彼の活躍がなければ、ローランドとて危うかった。その様な武功を上げる人間が、密通をしていたとは考え難いし、理由も思い当たらない。やはり、マフバル宰相にとっては理解が追い付かぬ事ばかりだった。

 とにもかくにも、ジュノーンの情報があまりになかった。ただ武勇に優れる無欲な弱小貴族、という程度しか印象に残っていなかったのだ。


(おのれ……面倒な事をしてくれたものよの、下級貴族めが)


 マフバルは舌打ち、会議室を去った。

 それからすぐに、ジュノーン討伐及びリーシャ王女の捕獲部隊が編成され、ローランド=ハイランド間の関所へと向かった。また、ハイランド関所にも王女脱獄の通達が出された。

 なお、たった今ウォルケンス王自らが処刑通告を出した看守も、処刑兵が彼のもとに辿り着いた頃にはローランド城から脱走していた。その際、看守の監視に当たっていた兵士が、まるで、首を斬られて死んでいたという。

 この夜、これでローランド城からは二人の脱獄者が出た事になる。ウォルケンス王が再度顔を真っ赤にしたのは、言うまでもない。

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