第32話 消えた男
オルレア伯を支えながら窓際のソファまで行き座らせると、彼の顔は蒼白で額には脂汗が滲んでいた。息苦しいのか呼吸の度に肩が上下する。心臓に疾患でもあるのかしら?
「申し訳ありません……ご覧の通り体調が……。薬を…飲みたいのですが……水を頂けないでしょうか?」
そう言いながら何かを探すように礼服の内ポケットを探っている。
「お待ち下さいね。今貰って参りますから」
薬を携帯しているなら持病がおありなのだろう。踊りながら話をしたから負担がかかったのかしら?勝手に盛り上がって口説いてる場合じゃないでしょうに。ホント、何してるのこの人は!
私は急いで飲み物の置かれたテーブルに行ったが、出払っているのか給仕がいなかった。急いでグラスに水を注ぎソファに戻ったがそこにオルレア伯の姿はない。どうしたのかと見回していると男性が声をかけてきた。
「こちらの方でしたらテラスに出られましたよ」
窓の外に視線を向けると確かにオルレア伯が崩れるようにベンチに座っているのが見えた。息苦しくて外に出たのかしら?私はお礼を言ってテラスのオルレア伯の元に急いだ。
(……あら?)
よく似た礼服姿のその黒髪の男性は、背格好までオルレア伯に似ていたけれど別人で、ただ酔い覚ましの為にここにいたらしい。それならどこにいるのかときょろきょろしていたら、バタンと何かが落ちる鈍い音が聞こえて来た。テラスから庭園に降りる階段、まさかあそこを転がり落ちてしまったのかしら?
階段の傍に人影は見えず慌てて階段を駆け降りたが、オルレア伯の姿は無かった。では彼は何処に居るのだろうと不思議に思いながらテラスに戻ろうと階段を上りかけた時だった。
「待っていましたよ!」
呼び掛けられた声に振り向くとそこにオルレア伯がいた。真っすぐしっかりと立っている彼に何処かを傷めた様子はなさそうだ。
「こちらにいらしたんですね」
ほっとしたものの違和感を感じた。まだ薬も飲んでいないのにどうして急に元気になったのかしら?顔色も戻っているし私を呼んだ声は力強かった。でもオルレア伯が腕を伸ばして来たので、不思議に思いながらも水の入ったグラスを差し出した。
「ーーきゃっっ!!」
その手はグラスではなく私の手首を握り強く引き寄せた。私の手から落ちたグラスが割れる音が響く。ごめんね、という呟きが聞こえると同時に首筋にチリッと痛みが走り、声を上げる間もなく喉に痺れが広がる。それを追うように体が重くなり倒れそうになるのをオルレア伯に抱き留められた。振り払おうとしても力が入らず、頭がぼんやりしてくる。
「さぁ、一緒においで。このわたしがあれ程情熱的に愛を囁いたのに少しも靡かないなんて、君はおばかさんだね。初めから大人しく付いてきてくれたら手荒な事をしなくてすんだのに」
いーや、あれにほだされてノコノコついて行く方が何千倍もおばかさんだよ、と言い返したいが声が出ない。
オルレア伯は私の肩を抱えて裏庭を目指して歩いているようだった。覚束ない足取りで引きずられるようになりながら、それでも力を振り絞って身をよじろうとしたが彼の腕から逃れる事はできず、靴が脱げて裸足になってしまった足裏が痛んだ。
気を抜くと意識が飛んでしまう。聞こえて来た水音に我に帰るとそこは裏庭の噴水の側だった。このまま真っすぐ進めば裏門に通じる通路がある。そこで待たせた馬車に乗せるつもりなのかしら?その前になんとかしないとダメだ!私はもう一度逃げようともがいたが、余計に拘束を強めるだけだった。
「いい子だから大人しくするんだ。だけどそろそろ歩けなくなるから手伝って貰おうね。馬車まで運んであげるからじっとしているんだよ」
閉じかける目を必死に開けるとすぐ傍に二人の男が立っていて私に腕を伸ばしており、それに合わせて私を渡そうとしたオルレア伯の力が一瞬弱まった。
私は渾身の力でオルレア伯の胸を押し身を翻して噴水に飛び入った。そのまま反対側に向かって走ったけれど追いかけて来た男達に腕を取られて倒れてしまい水しぶきが上がる。腕を引き払おうとして暴れるとバランスを崩して男も倒れた。自由になった両腕を男の体につくようにして立ち上がろうとしたがもう一人の男に羽交い締めにされ、暴れるうちにその男と一緒にまた水の中に倒れてしまう。濡れたドレスが重くて身動きが取れず、すぐに男達に乱暴に引き起こされたがもう私には抵抗する力は残っていなかった。
「何してるんだ、早くしろ。もうすぐ巡回の衛兵が来るぞ!」
声を荒げるオルレア伯に頷いて男達は二人で私を抱えあげ運び始めた。水を吸って身体に貼り付くドレスが刺すように冷たい。噴水の水は氷水のように水温の低い湧水だし夏とはいえ夜になるとぐっと気温が下がる。男達も寒いのか体の震えと苦しげな息遣いが聞こえた。そしてその向こうから聞こえたのは馬車の扉を開ける音だろう。
早く早くと口うるさいオルレア伯の声と男のどちらかがした舌打ちが聞こえた。
寒さのせいでぼんやりしていた頭がちょっとだけはっきりしたんだけれど、それももう限界のようだ。どんなに頑張っても目を開けていられないし、身体はますます重くなってきた。そういえば音が聞こえない、焦ったオルレア伯の声も男の舌打ちも耳に届いてこない。
そう気付いた直後には私の意識は途絶えてしまっていたのだった。
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