〔 墓守り紋次の物語 〕

猫屋敷 中吉

プロローグ  俺は、君を知っている



 茫洋ぼうようとした世界と薄闇。

 目を開けると静寂と朧げな世界だった。


 どれほどの広さなんだろう、暗すぎてよく分からない。


 何も聞こえない、何も感じない。

 

 音も無い、匂いも無い、風も無いし、空も大地も無い。感覚も無いから、そもそも自分があるのかさえ分からない。


 視界は有る、開けている。薄闇の空間にただ見えるのは漂う光りの玉だけ、それだけだった。


 漂う球。色はバラバラ。様々な色彩の光る球は神秘的でとても綺麗で、白、黄色、赤、紫色と実に多彩で、俺は頭の中で海にたゆたうクラゲの群れを思い浮かべていた。


 アレは何なんだ? 

 しかもなんで俺はここに居るんだ?

 こいつらの住処ってことなのか?


 夢の中で夢だと気付く夢。


 不可思議な空間。非現実的な世界で『夢』そう割り切れば少しは気が楽になった。


 ふわりふわりと浮遊するだけのコイツら、漂うばかりの光体に変化が生じた。

 

 ただ漂うだけのひとつが、まるで意志を宿したみたいに俺に近付いて来た。しかも、一際デカイ奴がだ。


 デカイ光体はふわふわしながら近づいて来る。

 実態の無い光体。奴の真ん中らへんに、人の顔らしき影が見えた気がした。なんか不気味だった、ちょっと怖い。


 怖くなって後退りしようとしたが……あー、俺には体が無かった。だから逃げる足もあるわきゃあ無い。

 あるとすれば、今自分を認識しているこの意識だけ。


 我慢? 諦める? ーー困ったもんだと溜息を吐く。そっか、溜息を吐く口もないんだった。ふふ、滑稽な自分に、なんだか逆に楽しくなってきた。


 そう、だってこれは『夢』なんだから。夢はいつか醒めるもんだから。


 そうこうしてる内に、球体が近寄ってくる。一番デカイ奴。

 どんどん俺に近付いてくる。後ろからもう一つ、おまけみたいに銀色もついて来る。


 どんどんと、ふわりふわりしながら二つは近付いてくる。


 俺、このまま取り込まれるんだろうか?

 呑気にそんな事を考えていたら。


「…………チリ〜ン」


 涼しげな音が響いた。

 音、あるんだ。しかも風鈴って。


「……チリ〜ン」


 風鈴の音が近くで鳴った。

 だけど、どうなんだ。

 音源が見えない、暗くても見える距離な筈だろ、どうなってる。あれっ、デカイ奴とおまけの奴、固まってる。


「チリ〜ン」


 まただ。でも、目の前で鳴ったよな。そして……。


 【次の瞬間。__暗転】



♦︎♢♦︎



「ッダァーーーーーーーーーーーーーーーーーーー」


 いきなりの場面展開。そして全身ずぶ濡れ、濡れ鼠だ。何だべこれ、最悪。


 今度は、大雨のロケーション。いや、風がキツい、これは嵐だな。薄暗いのは変わらんが、さっきよりも酷い。夜、なんかな?


 ボヤいていたら突然襲う体調不良。 


 おぷっ、ウゲェェッ! 気持ち悪りぃ。関節っ、痛ぇ! 頭も痛ぇし、腹も痛ぇ。身体全部が痛ぇ!!


 急な場面展開と激痛に脳と顔面が空回る。気持ち悪さと倦怠感、それに疲労感と諸々の内臓の不調で既に、俺の身体は満身創痍だった。


 どうなってんだ? 何が起きてる?


 自分の状況が分からない。俺はじぶんの身が心配になり過ぎて、視線を落としてみた。


「なんじゃあ、こりゃあっ!」


 俺は叫んでいた。

 口から思わず出てきたのはあの名台詞。人生で初めて言ったった。


 でもしょうがない。叫びたくなるほど、目を疑うほど俺ってば、全身泥ドロで血濡れている。


 マジで何があった!?


 其処彼処そこかしこに打撲、切り傷、血は流れっぱなしで靴すら履いてない。意識が膠着する。なんじゃこりゃ状態だ。


 でも、夢なんだよな。これ。


 現実味のある状況につい、疑ってしまう。

 全身の痛みがその証拠に思えて……。


 俺は立ち尽くす。

 今は腰ほどの棒切れを支えに何とか立ってはいるけれど、痛いほどの雨風に晒され、倒れないでいるのがやっとの状態。

 

「ハァ、ハァ、ハァ、クソッ! 雨で前髪がくっつく、邪魔くせぇ」


 えっ……声に違和感を感じた。俺、こんな声だったっけ。


 我鳴る強風が耳朶じだを打つ。

 雨粒が目に刺さる。

 勢いを増す嵐の中で……音、を聞いた。

 

 轟音に混ざり、微かに金属どうしのぶつかり合う、甲高い音が聞こえる。一つや二つじゃ無く、何度も。


 何の音? 耳をそば立て目を細める。周りで何が起きているのか慎重に確かめる。


 ーーんっ。


 視界を遮る前髪、そこから垣間見えたものにビクンッと肩が跳ねた。


 雨で霞んだ先に、人だと判るものが見えたんだ。


 “ ドギャアァァァァァァンッ! ゴロゴロ…… ”


 はひっ! 雷? 急にくんなよっ、ビックリすんじゃん。


 すぐ側に落ちた雷に盛大に驚く。

 突然目の前でまばゆい閃光と稲光りが起きたんだ。

 一拍遅れて腹に響く雷音、轟音がうるさい。

 間近であがった打ち上げ花火のように内臓を震わす。

 

 スンスン、なんか生臭い。潮の香り? 辺りが磯臭い。ここは、海……なのか? 


 暗闇を照らす雷光に今更気づく。

 彷徨わせた視界の隅で打ち寄せる白波がぶつかり合い、淡い飛沫しぶきを散らしている。

 ぐるぐると回る渦巻く強風が、辺りに潮臭さを強めていく。


 うん、浜辺だな、ここ。

 足元に砂しか無いしな。

 海辺だと分かったついでに、霞んでいた人影がどんな奴なのかが確認できた。


 何故って? 答えは簡単……俺の前にソイツがいたから。黒一色の変な奴が。


 ソイツは頭のてっぺんから爪先まで黒、黒、黒。

 仰々しいまでの全身黒甲冑。奴は時代劇映画から抜け出したような鎧姿で、俺の前にいたんだ。


 突如ピカッと、鎧武者の背中越しに稲光りが走った。間を置かず、高音と重低音が辺りに響き渡る。


 閃光を背にする奴の姿が雷影に塗り潰されて、黒味を増す。眼光だけを光らすこいつが、俺にはドス黒い化け物に思えた。


 えも言われぬ恐怖を感じてしまった。


 こいつそのものが『本物の死神』のようにも思えてブルッた。

 しかもだ。こいつってば、手には抜き身の刀をぶら下げていやがる。


 濡れた刀身が輝く閃光を受けて、妖しい光を放つ。

 

 やべぇだろ、こいつ。

 キチだろ。

 頭、オカシイんちゃうんか。

 それでも夢の中の出来事と高を括る俺は、どこか他人事のように受け止めていた。


 その所為で初動が遅れた。事もあろうにこの野郎、急に俺を蹴りつけて来やがったっ!


 っっ、いったっ!

 思いっきり尻餅をついた。

 満身創痍まんしんそういである俺の体が受け止められる筈もなく、下半身を蹴られた勢いで、いとも簡単に倒されてしまう。


「何だよ急にッ! 洒落になんねぇって! マジで痛えんだけどッ! これホントに夢かっ!?」


 牙を剥いて鎧武者に吠えまくる。

 文句たらたらで、下腹部の痛みに顔をしかめる。

 そのまま視線を上げて、奴を威嚇していた。


「ふざけんなよっ、馬鹿っ! あー、ケツ痛え。」


 俺の文句に未だ無言を貫く鎧武者。

 雨を弾く漆黒の鎧が、時折落ちる稲光りを反射して、怪しさを増していく。

 物言わぬ奴の態度がより一層、不気味さを倍増させる。

 

 喉を鳴らして息を呑む。

 黒鎧は緩慢な動きで刀のつかを両手で握りしめ、腰を落としたから。

 野球のスイングのような格好で、刀を横薙ぎに構えだした。て、おい、おい。ちょっ、まて、まてって。


 溜めを入れてーー次の瞬間。


 シッ、奴の口から息が漏れる。一閃ッ。


 ひっ! 思わず反射で首をすくめて、両腕をあげてガードしていた。


「トンッ」


 軽い音、刹那の間。

 何が飛んだ。

 目が点になる。だから、何が飛んでった?

 一瞬、訳が分からなかった。地面に、砂地に落ちていたのは人の腕。それも、俺の。……そして直ぐに。


「ギャッ、ハァッ……!!」


 間を置いて、脳天を突き抜けるような痛みが俺を襲う。左腕に激痛が走るッ!


 左手!? うそ、左手を斬られたっ!


 確認するまでもない、目の前にあるんだから。

 俺の左腕は真っ赤な切断面から血を噴き出す。

 ショッキングな見た目に頭が白くなる。

 激しい痛みに激しく悶える。

 剥き出しの神経を捏ねくり回されるような激痛に、意識そのものを手放したくなる。


「ギャアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!」


 恥も外聞もありゃしない。全身全霊で叫んでいた。


「ううぅ、フウー、フウー、フウー、フウー」


 落ちた左手をそのままに、切断面剥き出しの左腕を抱えてうずくまる。

 切り口から壊れかけの噴水みたいに、ビュッビュッと鮮血を噴き出している。そのさまに、グロテスクな断面に、顔から一気に血の気が失せた。


 ヤベェ、血が止まんねぇ! 痛すぎて洒落になんねぇ! もう夢なら覚めるレベルだろっ!!


 蹲りながら猛烈な痛みと戦う。あまりの痛さに、涙と鼻水が止まらない。

 早く止血しないと死んでしまう。痛みと恐怖でガタガタと体が震え出す。


 そんな俺を見下ろしながら、奴はまた無造作に、無慈悲に蹴りつけてくる。


「ーーひゃあっ!」


 ドンッと肩に衝撃が走り、そのまま仰向けに倒された。

 その開いた胸を片足で抑えつけられていた。

 怖い。

 俺は顔面蒼白で身動きが取れない。

 俺を足蹴に奴は、緩慢な動きで刺突の構えを取っている。マジで勘弁しろって、夢ならさっさと醒めろっ。


 切っ先が狙うのは俺の首、完全に殺す気だ!


「ハァッハァッハァッハァッ」


 息が荒くなり呼吸が乱れる。見開いた目に、大粒の雨が降り注ぎ、視界を曇らせる。


 俺は焦る。焦る、焦る、焦るっ、焦るッ!


 左腕に感じる灼熱感と激痛。それに反して、冷えた大地が容赦なく体温を奪ってゆく。


 どうすればいい? どうすればッ! 何も思いつかない、何も考えられない。

 夢か現実か区別がつかない。半ばパニックになりかける。


 終わりか、終わりなのか……死ぬ。

 死ぬ……。

 いやだ、イヤだっ! 死ぬのは嫌だッ! 俺は死にたくないッ! こんなとこで、こんな……。俺は死にたくないッ!!


 身をよじり、足をバタつかせて醜態を晒す。

 生への執着で最大限にもがく。だが、胸に重くのし掛かる片足は微動だにしない、動かない。

 肺が圧迫されるだけで何も変わらない。息が猛烈に苦しい。


 剣先が揺れる。シッ、息が漏れる音。

 来るッ。

 ……俺、終わった。


「モンジ!!」


 ガンッ! 最後を悟ったその時だった。

 曇った視界の先、眼前にいる黒甲冑の首が『く』の字に折れ曲がり、短いうめき声と共にソイツが横倒しに倒れ込んだ。


「モンジッ! モンジッ! ……くそッ!!」


 助かった、のか。

 いかつい岩を顔面に貼り付けたようなオッサンが、俺に叫んでいる。

 もう熱しか感じなくなった左腕に、険しい顔で手拭いのような物をグルグルと巻き付けている。止血をしてくれたんだ。

 

 何も出来ずに、されるがままボンヤリと見やる。


 何なんだ。


 安堵からなのか、不意に全身の力が抜けた。仰向けに倒れたままの俺は、されるがままこのオッサンに身をまかせていた。

 

 声? 遠くで声が聞こえる。


「モ"ォ〜〜。モ"ォ〜〜」


 牛の鳴き声みたいな声がする。女の人の声。目だけを動かし、声のする方へと視線を送る。


 視界に映るのは、紫色の着物をずぶ濡れにした女の子の姿が。赤茶けたショートヘアーをペッタリと顔に貼り付けて、砂上を駆けてくる。


「……イエ! 頼むっ!!」


 イエと呼ばれた女性を残し、厳つい顔のオッサンは、大雨の中を走っていく。



「うぅっ、ぅっぅっ。……ふぐっ、ぅっぅっ……」


 泣き声を必死にこらえている彼女。

 イエ……。

 彼女の名前が、何故か心に響いた。

 

 可愛いらしい子だった。

 霞む視界に映る彼女は顔を雨と泥で汚して、嗚咽を噛み殺している。


 イエ……。タイプかも。


 息も絶え絶えで今にも死にそうな俺は、そんなことを思ってしまった。


 彼女は柳眉を歪めくやしそうな表情をしている。

 俺と同じ緑色の瞳。

 その大きな瞳からは雨なんかよりずっと暖かい雫を、ポツリポツリと俺の顔にこぼしてくる。


 イエ……、泣かないで。


 イエ、……そう、夢。そうだ夢の中だ。俺は以前も夢の中で君と会っている。


 ……もう、何年も前から俺は君を知っている。



 仰向けに倒れている俺に、彼女は優しく身体を重ね合わせて来た。キュッと身体を硬直させ、俺の負担にならないようにとても優しく。

 彼女の行為がまるで、この豪雨から、この世界から、俺を守ってくれているみたいで。


 気持ちが落ち着く。

 心が満たされていく。

 彼女は彼女なりの今出来る精一杯の事を俺にしてくれている。


 彼女のか細い泣き声が鼓膜をくすぐる。

 肌けた胸元から直接感じる、心臓の音が早鐘を鳴らしている。

 抱擁から感じるその温もりと慈しみに似た優しさに、恋人同士とは少し違う。

 そう母親の温もりに似た想い。

 俺が無くした、もう二度と手に入らないと思っていた掛け替えの無い想いを思い出せてくれた。


 だから俺は。

 泣きそうになった、嬉しかった。

 一番欲しかったものを、今やっと見つけた気がして。


 救われた気がしたんだ。


  大丈夫、大丈夫だからと、もう声にも成らない言葉を吐いた。残った右手だけで、彼女の薄い背中をさすっていた。


 キュッと少しだけ力を込めた彼女。

 俺は堪らなく愛おしく感じて、だから。


 思い出したよ。

 この子は俺をずっと守ってくれていたって、俺にとって大切な子だったんだって、やっと思い出せた。


 奥歯を噛み締める。

 眦を吊り上げる。

 固めた拳で消えかかる意識をぶん殴る。

 心に火が灯る。 

 彼女から貰った火がドンドン広がり炎となる。乾ききった心に、消えない業火となって燃え広がった。


 すべてを無くして、心を閉ざしてしまった過去。それを燃や尽くす業火に、あの時の想いが火をべる。


 ふざけんな、ふざけんな、……ふざけてんじゃねぇぞ、クソがッ! 同じ轍なんか踏めるかよ! あの時みたいに成るのはゴメンだ! 皆んな死んで俺だけ残るなんてクソだッ! 誰も死んで欲しくない、誰もだッ! 俺は好きな人と一緒に居たいだけなんだ。ただそれだけなんだ。

 何にも要らない、何も望ま無い、何も無いから、何も持ってないから、だから……だからせめて守れる力が欲しい、好きな人を守れるだけの力が欲しい。

 格好悪くても構わない、情け無くても構わない、ズルくても、汚くても、俺は好きな人を守れる俺になりたいッ!


 感情が決壊する。

 それは道理も摂理も運命すら関係ない、ただの子供じみたわがままに過ぎない。

 けれど、心の重しとなっていた一切合切いっさいがっさいを取り払った丸裸の感情。ひた隠しにしてきた純粋で真っ新な、嘘偽りのない俺自身の想いだった。


 暗闇を照らす一条の光。

 彼女が光りの道となって、俺を照らしてくれる。

 心が軽くなっていく。身体の隅々まで暖かい何かで満たされる。


 そんな気がして、自然と頬が緩んでいた。

 

 イエ、俺は君と生きていく。


 覚悟が決まった瞬間だった。



【プツンッ!】 まるで、テレビの電源を落としたみたいに、不意に意識が途切れた。


 __暗転。



♦︎♦︎♦︎


 

 頬が熱い。

 熱で覚醒していく。

 吹き付ける熱風が、チリチリと肌を焦がす。

 徐々に鮮明になる視界の中、ゴウゴウと燃え盛る炎の壁が映し出される。


 目の前には火の海が広がる。真っ赤に燃え盛る炎に目を奪われた。


 灰色の夜空に火の粉が舞い上がる。

 それはまるで、水面みなもより一斉に飛び立つ『蜻蛉かげろう』のようだった。


 とても美しく、とても恐ろしい光景だった。


 火事で崩れた家屋の隙間に、黒く煤けた腕が見える。

 人影の無いこの町で、燃え盛るこの町で、煤けた奴等しかいないこの町ので俺は、独りなんだと気付いた。


 幼い自分。

 怖かったんだ。寂しかったんだ。誰かに助けて貰いたかったんだ。


 荒れた道の真ん中で、怯えて突っ立っているだけの俺。

 誰かがこっちに歩いてくる。

 ……女の子。

 赤く揺らめく炎を背に、少女は真っ直ぐと近付いてくる。とても大事そうに何かを抱えながら。


 影になっているせいで、その姿、表情はうかがえない。目の前に来て、初めて彼女のその凄惨せいさんな姿に気付く。


 裾の焼けたすすけた着物に、赤黒く焼けただれた両手。胸の中で大事そうに抱える……人の形をした小さな炭の塊。


 両耳と鼻から出た血は既に固まっていて、髪も所々焦げている。

 見上げた少女の目からは、大粒の涙が幾重にも流れ、煤けた頬に白い筋をつけていた。


 スッと、両膝を地面に落とした少女は、小さな炭の塊を優しく地面に降ろすと、そのまま俺をギュッと抱きしめてくれた。


 少女の涙が細くポツポツと、俺の額に降ってくる。

 暖かい春の雨のように……。

 安心感や安堵感、そして切なさで俺はーー吸い込まれるよう少女の薄い胸に、顔をうずめていた。


 小気味よく聴こえる彼女の心音がとても心地良くて、頼もしくて、まるで産まれたての赤子のように、大声を上げて泣きじゃくっていた。


 そうだ、この少女も緑色の瞳をしていたんだっけ。



♦︎♦︎♦︎



「ジリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリッ!カチッ」


 いつもの目覚まし時計で目が覚めて、まず最初にバッと両腕を確認していた。


 左手が……ある。


 夢がリアルすぎて、現実とゴッチャになってる。実際、寝汗が凄すぎて寝間着代わりのTシャツがびしょびしょだった。普通にキモチワルイ。


 火事の夢はたまに見ていたんだが、その他は初めてみる夢だった。もう二度と見たく無い、あんな怖い夢。


 でも、今回はしっかり覚えている、いつもなら曖昧な感じにしか覚えていないから。


 ……イエ。また逢いたいな。


 感傷に浸りながら時間を確認すると、いつものバイトの時間に遅れ気味で幾らか焦ってしまった。


 パンパンッと、音が出るくらいに頬を張り、寝ボケた頭を覚醒させる。

 ヨシッ!の一声で、気合の入ったフリをしてバイトに行く準備を始めた。 ……フリって案外大事だと思う、何となくやる気になるし。


 身支度を整えアパートを出ると、俺の大好きないつもの光景が目に飛び込んで来る。


 うん、今日も綺麗だ。


 心地良い潮風に初夏の朝日を浴びて、煌めく澄んだ青い海。

 絵に描いたような美しい入り江が、悪夢で沈んだ気持ちを前向きにしてくれる。

 安アパートの前に広がるオーシャンビュー。

 俺の海、なんて俺だけの海ではないが、でも、プライベートビーチって感じでなんかいい。




 親戚の持っていたアパート。

 ここに、二年前に引っ越して来てから、綺麗な海だけが取り柄の、夏限定でしか集客力の無い、この寂れた街並みが。

 不思議と懐かしくて、凄く落ち着いて、出来ればここに骨を埋めたいとさえ思ってしまう程に、俺はこの街を気に入っていた。


 目の前には入り江に沿って走る国道があり、少し北に行くと、その国道沿いから山頂に延びる長い階段がある。


 階段を登った頂上には、木々に覆われてひっそりと佇む古びた神社『森山神社』がある。

 そこに向かっていつもしてる事がある。それは、一礼、二拍手、一礼、いつものルーティン。


 ペコ、パンパン、ペコ。よしっ、コレで俺の一日が始まる。


 駐輪場に止めてある愛車の原チャリに跨り、急ぎバイト先である新聞配達所に向かった。


 国道を飛ばしながら悪夢で見た光景を思いだしていた。

 そしてヤケに心に刺さった名前『モンジ』って名前が、いつまでも俺の脳裏にこびり付いて離れなかった。




 

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