紫の花に口づけを

碧月 葉

第1話 自分勝手なあなた

 ほら、私の言ったとおりじゃない。

 あなたはいつも馬鹿なんだから。


 澄み渡った秋の空を見上げて、心の中で何度目か分からない悪態をつく。

 ここ数年、何度も怒ったり悲しんだりしたせいで、沸点は大分高くなり、大抵の事は笑って済ませられる様になったけれど、今日ばかりは涙が出てしまう。

 でも私が悲しむと、辛く思う人達がいるから。そんな姿、人前では見せたくないのよ。


 爽やかな青空を、連なったトンボが飛んでいった。


 嫌だわ。


 トンボの番すら羨ましく思うなんて。

 深く息を吸って、心を落ち着かせ、涙を瞳の奥に留める。


 全く。


 頼りない夫を持つと妻は苦労するんだから。

 申し訳無さそうに頭を掻く優男を思い浮かべながら、気合いを入れた私は会場へ向かった。

 


∗∗∗



 10年前。

 私と夫は大喧嘩をした。


「何で、何でそんな大切な事、勝手に決めるのよ」

 思わず怒鳴ってしまった。

 夕食の席での夫の突然の告白に、好物のロールキャベツの味も分からなくなった。

 怒りのあまり、手が震える。

「直美、そんなに怒らなくても良いじゃない。むしろ喜んで欲しかったのに……」

 私の剣幕に気圧された夫は、背中を丸め小声でブツブツ言っている。

「喜べる訳無いでしょう。なんで何でも簡単にはいはい引き受けてしまうのかしら。もう、馬鹿っ」


 夫の実弟の英樹が、腎臓病を患ったらしい。症状は重く、腎臓を提供してもらい移植を受けないと、あと数年も生きられないという。

 そこで夫は、適合検査を受け、英樹のドナーになることにしたというのだ。

 私に相談も無しに。


「酷いなぁ。たった一人の弟だよ。僕が助けなきゃ誰が助けるんだよ」

 馬鹿馬鹿責める私に、夫もムッとして言い返す。

「腎臓を提供するって簡単にいうけれど、ドナーのリスクだってあるんでしょ。ちゃんと考えたの?」

 夫は元々そんなに丈夫でも無い。手術で体力を奪われて病気になるかも知れない。

 コツコツやってきた仕事も、漸く軌道に乗り始め、ここからが正念場というところだ。

 将来、彼が何か病気になった時、たった一つの腎臓で耐えられるのか。

 ちょっと考えただけでも、不安材料が次々と出てくるのに、のんびり屋の夫は本当にきちんと考えたのだろうか。

「僕だって悩んださ。でも、英樹の未来を守りたいんだ。あいつが弱って死んでいくのを、ただ見ていることはとても出来やしない。僕に出来る事はあるのに、見殺しになんて出来ないよ。僕には出来ない」

 出来ないだろうな。私もそう思った。

 

 英樹は、結婚して少しは落ち着いたとはいえ、独身時代はそれを謳歌し、仕事もそこそこに遊び歩き、毎日のように大酒を飲んでいた。そのツケが来ているだけだ。

 酒も飲まず、遊びもしない夫が、なぜそのツケを払わねばならないのか。

 意地の悪い私は、どこまでいっても釈然としない。


 しかし優しい夫は、そんな弟を見捨てられる人じゃない。

 もしそんな事をしたら、精神を病んでしまうような人だ。


 ただ、例え結論は同じでも、相談して欲しかった。

 貴方の人生だけじゃ無く、私達の人生に関わることなのだから。


 だから私の怒りは鎮まらなかったのだ。



∗∗∗



 その時の手術は成功し、英樹は無事健康を取り戻した。

 そして、人が変わったように仕事にも真面目に取り組むようなり、出世して、今では会社の支店長。地域の人にも慕われているらしい。

 手術の2年後、子宝にも恵まれて順風満帆な時を過ごしている。


 一方夫は、術後しばらくは平穏に過ごしていたが、4年前に英樹と同じ病を発症した。

 夫にドナーは現れず、彼は逝ってしまった。

 残された私は、一人きり。


 そして今日は、お通夜だ。

 料理や酒を振る舞い、思い出話をしながら、夫と最期の時を過ごしている。


「おばちゃん。寂しくなったらいつでも言ってね。実花は直ぐに駆けつけるから」

 私と夫に懐いていた姪の実花は、クリクリした目で心配そうに告げる。

「ありがとう実花ちゃん。頼りにしているわね」

 微笑んで答えると、実花は小さな胸を張ってしっかり頷いた。



 通夜会場をひと通り回って、自席で一息ついていると、同じように挨拶を終えた義弟の英樹が隣に戻ってきた。

「お疲れさま。お茶でも飲む?」

「ああ、ありがとう。しかし、兄さんは慕われていたな。流石だよ。しみじみ感じたよ」

「そんなことないわよ。お世辞よ。それより、さっき実花ちゃんに励まされたわ。素敵なお嬢さんに育ったわね」

「お陰様で、俺の子とは思えない位に優秀なんだ。この間も学校のテストで1番だったって。」

「うふふ、それは将来が楽しみね」

「『お医者さんになりたい』って言ってる。兄さんの姿を見て、治したいって言っていたんだ…… あの、義姉さん。本当に」

「言わないでって、言ってるでしょ。私も和彦さんも。これで良かったって思ってるのよ。本当よ」

 英樹は、びょ濡れのハンカチで再び目を押さえた。



 これで良かったんでしょ、あなた。

 はぁ、全く自分勝手なんだから。

 

 私、本当はこれで良かったなんて思っていない。

 薄紫色の花畑で、

「一生守ります。結婚してください」

 って、プロポーズしたの。

 私は忘れていませんからね。


 嘘つきなあなたが嫌い。

 優しすぎるあなたが嫌い。

 ずっと側にいて欲しかった。


 あなたを愛してる。

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