第百十六話 月白の宿意
夏。雪月の世界。
緋色と翠色が融け合い、交差する揺らめきは、雪白と白雲に反射する。
二刀を握る手はかじかんで痛むし、奴の能力で支配されたこの死地では、まるで己が水底にいるのではないかというほどに、体が思い通りに動かない。
決して手放すことなどないようにと、確かめるように、二刀を強く握りしめた。
今目の前には、雪辱を遂げるが為の空想級魔獣。再び合間見えたことに歓喜して、それを忘れるほどに猛り、今は冷静さを以って奴に相対している。
俺の後ろにいる彼女は今、無力の掌握に努めようと、月色の輝きを発露させた。俺を追い越すように月光が宙を進み、千手が照らされる。
「ギギ、ギギギギギッ」
無力が奪取されていることに気づいたのか、雪女が不快そうな声を上げている。断言しよう。先ほどまでの御月を守るために行われた俺と奴の攻防は、決して俺が空想級と対等に戦えるほどに、強くなったということを示したわけではない。
奴はいつも同じだ。俺の様子を見るように━━━━恐らく弄ぼうとして、手加減をしてくる。空想級の本気を放たれれば、俺に対抗する術などない。俺が生きているのは、奴の一存でしかなかったのだ。
しかし今、その前提が崩れようとしている。奴とて、奴と対等以上に戦える御月が無力を掌握しようとしているのは、絶対に無視できない。
愉しむように。裂けた頬に貼り付けられていたような笑顔が、すっと消えた。奴を殺し得る御月を殺すためには、俺が、邪魔。
千手が
こちらを抵抗もなく飲み込んでしまいそうな、白魔の濁流。俺一人に向けられるドス黒い純白に、気でも狂ったのか、懐かしさすら覚えてしまいそう。
烈火の霊力。それを掻き消してしまうほどの、吹雪と大嵐。霊感を通した脳髄を突き抜ける感触に、胃液がせり上がってくる。気持ち悪い。揉みくちゃにされて、自我を失ってしまいそう。
彼女の無理難題は、一分。その時間の価値はこの死地において、一生に匹敵する。
誰も共にいないのが、こんなにも怖いなんて。一人で戦場を駆け巡った、彼のような最強になりたいと願ったけれど、どうこの感覚に対処したのだろうか。両肩と心に乗る重圧は、恐れの証。奴と戦いたかった。そう思っていたのは、間違いない。奴と戦う時のことを考えて、ひたすら修練に励んだ。けれど。
今の俺では、絶対に奴に勝てない。不可能だ。俺如きでは、無理なんだ。俺じゃ、まだ奴には━━━━
雲間から切れ込む陽光。右手に握った
奴から目を離さぬまま、ゆっくりと生唾を飲み込んだ。
何を自嘲的な感慨に浸っているんだ。クソ野郎。少し変わったからといって、強くなった気になって調子に乗っていた。
彼らと駆け抜けた時は、足手纏い。
防人として魔獣と戦った時は、命賭け。
血盟と戦った時は差を思い知らされ━━━━彼女を傷つけた。
いつもそうだったじゃないか。俺は。何を今更恐れている。弱いことを。
(開き直れ、馬鹿野郎!)
吹雪に掻き消されそうになっていた、烈火の意志に薪がくべられる。追い風が闘志を煽る。絶対に勝てない敵を前に、立ち向かう不退転の意志が、燃え上がった。
怪我をした御月を助けるため。どんなに強くたって、関係ない。女の子を置いて戦わないで逃げるなんて、絶対にできない。
俺の戦う意志に呼応するように、暁の緋色が最高潮を迎える。二刀をだらんとぶら下げて、奴を見つめた。霜で覆われた並木道。雪桜。そこに今、俺という存在を、刻み込む。雪月風火。この世界の中で、緋色と翠色は揺蕩う。
「なあ、玄一」
彼女の声が聞こえようとも、もう、振り返りはしない。俺は、彼女にどう映っているのだろう。
「なんだ。御月」
「完全じゃなくていい。ある程度掌握が確立したら、君は退いてくれ。決して、死ぬようなことはするな」
「......ああ」
念を押すように言った彼女が、更に月光を放つ。それを見て、雪女が動き出した。
機は、今。この場において弱者である俺を見て、奴は俺が防御に徹すると考えている。確かにそれが無難なのかもしれないが、奴の能力で自由に動けない俺は、物量で来られたら対処できない。攻めに徹し斬りかかる━━!
屈み込んでから、跳躍。二刀を握り、奴の首目掛け飛び出した。
たった数十秒が、果てしなく長い。どれだけの時が経ったのだろう。奴の能力によってこの世界は停滞しているが、時間にすら影響を持ってるのではないかと疑ってしまった。
空を機動し、木々の間を縫って、奴に斬りかかる。
集ってきて俺の体を這おうとする、千手を叩き斬る。奴にこの刃を届かせようとも、届かない。千手の肌色。雪白に氷の青。視界を埋め尽くすそれに順序をつけて、対処をする。余りのも数に、思考が、追いつかない。
細い氷柱が、肩の辺りに突き刺さった。血が、流れ落ちていく。奴も学習しているのか。大きなものを射出するよりも、小さいものの方が対処が難しいということに気づいたらしい。
音は聞こえない。視界と霊感を刺激するこの情報量に、聴覚へ割く余裕などあるか。今度は太腿に、氷柱が突き刺さった。融けるように熱い傷口に、冷たい感触。
背に叩き込まれる、降り注ぐ
心臓と脳髄を目掛けて放たれる氷柱。回転し軌道を描いて、拍をずらしながら肉薄する雪の結晶。
吹き荒れる冷たい風に、頬がかじかんで凍傷を負っている。目だけ動けば良い。まだだ。まだ足りない。彼女が奴に勝つためには、もっともっともっと━━━━
戦え!
霊風と霊火を駆使して、奴の気を引く。幾つもの傷を負っても、戦う心は挫けない。ボロボロになって体が動かなくなってきたはずなのに、逆になんだか軽くなってきた。まだ、終わらない。体も温まってきた。せめて一太刀。
交互に右へ左へと機動する。奴が俺の動きに合わせ始めたところで、反転。奴目掛けて真っ直ぐに突き進んだ。
氷柱が、視界を通り過ぎていく。吹き荒れる嵐のような攻撃の中を突き進むのは、兄さんとの訓練以来だろうか。朝鍛に緋色の霊力を。夕練に吹き荒れる暴風を閉じ込める。
右肩の上に乗せるようにして、二刀を構えた。氷柱が左の二の腕をえぐりながら突き進んでいく。今度は霰が右のこめかみに当たって、血が流れ始めた。しかし、視界は紅に染まらない。
「ガァぁああああああああッッ!!!」
自分の声を認識したのに合わせて、誰かの声が聞こえた気がした。
誰だろう。甲高い助けを求めるような叫び声に、思わず、気がほんの少しだけ取られてしまった。
目の前に、氷柱。それは、俺の、額へと。
頭に途方も無い衝撃が走ったのを認識したのと共に、崩れ地に堕ちる。視界に、一面の空。おれは、時間を稼げたのだろうか。あとはきっと彼女が、どうにかしてくれるはず。
「ねえ......? どうして? もうやめてって......大丈夫だって私は言ってるのに」
さっき氷柱が体に突き刺さったみたいに、脳髄を貫かれ死んだと思った。どうして、俺はまだ考えて、生きているのだろう。仰向けになって地に倒れ込んでいる。
一面の青空が、段々と暗くなってきた。空から地に堕ちて、雪に触れているはずなのに、体は濡れないし、冷たさを感じない。
「ギギギギギっ!! ギギギャガギャギャギャッギャギャギギギギギギッ!!!!」
鬱陶しい羽虫を討ち取った割には大袈裟な、歓喜の声が聞こえる。まだだ。結局、一太刀も加えることは叶わなかった。まだ、戦わないと。
体をどうにか動かして、うつ伏せになる。太腿と肩に刺さっている氷柱が動いて、激痛が走った。
かろうじて顔を上げた俺の目の前にいるのは、目を見開き奴を見つめる
「嘘......私なんかが変な期待をしなければこんなことには......どうして.......どうして、退かないの? どうして、挫けないの?」
「ギギギギギギギギががガガガがっ!! ギギギャガゴギャギャギャッギャギャギギギギギギッバギャがギギギギギッッ!!!!」
必死な、何かに気づいた声。
「私は一人で戦えばいいのに」
零れ落ちる、独白。一人じゃ、ダメだよ。
空を掴んで、手を地に置く。気づけば二刀が手元にない。代わりに、俺の手に触れたのは雪じゃなかった。それは、灰色の砂塵。
雪が灰塵と化し消えている。
木々が枯れ落ち朽ちていく。
天守が崩れて溶け落ちる。
この世界は、もう奴のものではない。
無力の『完全掌握』━━━━
今この世界は、彼女に下った。これが、彼女の描く新世界。
一面。灰色の砂塵の他に何もない。
ぽつんと立つ彼女は、白い砂漠に一人。腰元まで伸びた黒髪。艶やかな黒に紛れて、内側の髪の毛が、月白に染まっていた。金色。月色の輝きはもう失く、月白の霊力が彼女を包んでいる。
真っ平。特徴的な地形はなく、ただただ、灰色の地平線が広がっている。青空が何故か、広がる無窮の闇と重なった気がした。空を泳ぐ白雲が、星雲に見えた気がした。
なんて、寂しい。
ああ。この世界に触れてから、身が竦むように、体が動かない。視界が暗くなって、意識が消えていく。途切れていく。
「私は
掻き毟るような音。
「私は一人でいい! 誰も私を助けて、いや、わたしは一人でいいんだ。私のせいで、できるんだって! 私はできるのに!!」
「ギギギギギギガ、ギキャカキャキキキキキッカカカグカァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアあああああッッ!!!! ギャガギャガぎゃギギギギガカカがクァぎがガァアアアアアアアアアああああッッッ!!!!」
「チッ━━」
「うるせえな。はやく死ねよ」
見えないはずの、
月の裏側が見えた気がした。
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