催眠術師の男

@galbomodoki

催眠術師の男

 男は黒髪で短髪。長身によく似合う黒いコートの襟を立て、黒い革靴を履いている。男には昔の記憶がなく、両親の職業はなんだったのか、はたまた催眠術師だったのかもわからない。いつから一人で暮らしていたのかもこの三十年を振り返ってもわからない。けれど記憶が無いことについて男は困ったことがない。男にとって都合の悪いことを聞かれたのなら記憶を消し去ってしまえばいい。そうして自由に生きてきたからだ。男は三十年も独りで暮らしているが、男にめぼしい人がいたことは一度もない。ただ唯一あるのは鉄製の丸い手鏡だけ。茶色く剥げた銀の丸い手鏡は錆びたネジが小さな音を立てて開く。開いた丸い鏡は端が欠けていて決して新しくはないが、男は手放すことが出来ずに常にコートの胸ポケットに入れている。


 男には物欲がない。これが欲しい、と思うこともないし、また男をそうさせるものもない。催眠術を使って人を操ることができるのだから人間関係に悩んだこともなかった。だから男は欲しいものは大抵手に入ってしまう。そのことに男は退屈していた。だから気分転換に海の見える家を買った。


 女は疲れていた。肉体的にも精神的にも、だ。肉体的にも精神的にも疲れるようなことをしていた訳では無い。ただ未来を考えただけで無性に疲れて仕方がないのだ。女は小説が好きだった。中でも芥川龍之介のこの世を去った未来が見えないという理由に深く共感してからは芥川龍之介の書いた小説しか読まなかった。それほどまでに女には未来が見えなかった。女には芥川龍之介と同じ道を辿りたいという願望があった。その願望は女を殺す道でもあるし、女を生かす願望でもあった。女は彼と同じ死に場所として川を選んだ。けれどこのご時世、川に近づいただけで警察、流されようものなら救急隊に助けられてしまう。だから女は海を選んだ。


 男は海に越した。男は決まって日の沈みかける頃に家を出る。男の足は自然と海へ向かう。影を落とした砂浜には海のさざ波に似た、砂をふみしめる足音だけが響く。男が海に視線を移す。日が沈み、反射させる光を失った海は黒くうねっていて、昼間の輝きは一切感じられない。男はそこに海に呑まれるようにして進んでいく人影を見た。男にはその人影が海に入る服装でないこともその人影がこちらの浜辺に引き返す様子がないことも解っていた。男は自らの命を絶とうとする者を何度か見た事があるが、何れにしてもその者たちに男が声をかけることも、男がその者たちを助けることも一切しなかった。けれど男はこの時動いた。後先考えない行動をしたのは何故かと問われても答えることが出来ないように男もまたこのことについて説明することが出来なかった。男は黒い波に攫われようとしている人影に近づいた。声はかけなかった。


 女は気づいたら海に浸かっていた。いずれこうなることはわかっていたし、こうなることを望んでいたのだから、今日がその日なのだと、このまま海に呑まれるということに抵抗を感じることはなかった。ただ、あと少しというところで背後に自分を追いかけてくる気配を感じた。女には男と顔を合わせてからの記憶がなかった。正確に言えば自分を追いかけて海に入ってきた男に驚いて微かに開いた瞳孔に気づくことのできる距離で男の瞳を見たあとの記憶が無いのだ。女が男の瞳を見て記憶が飛ぶ刹那、女は初めて、これから海に浸かろうという自分の目が開いたままであったのに気がついた。


 男と女が打ち解けるのに時間はかからなかった。人を避けてきた男と芥川龍之介と同じ道を辿りたいと常日頃願っていた女には久しぶりの人だったからだ。


 肌寒くなる季節に男に出会った女は肌寒さを身に染みて感じるようになった頃には男に惹かれていた。好きな人のどこを好きになったかと問われても答えることが出来ないように女もまた男のどこに惹かれたのかわからなかった。そして誰もが好きな人から目が離せなくなるように女もまた男から目が離せなくなった。けれど女には男に対する違和感があった。それは女の想いが募るにつれて拭い去ることのできないものになっていた。外に出、人と話すと男と話し相手の会話が途端に噛み合わなくなる。そんな時の会話は決まって男の身の上話が話題とされる時だ。遠くで会話している男から目が離せない時も女の瞳は違和感を捉えて離さなかった。話し相手が笑っていたかと思うと急に真顔になり、また何事も無かったかのように笑い出す。そんな違和感を感じられる時は決まって長身によく似合う黒いコートの立った襟に邪魔されて男の顔を伺うことができない。女には限界だった。この違和感に頭を悩ませる日々も、男に対してのこの気持ちを黙っていることも。常に一緒にいて、女が行くところには必ず男が付いてきてくれる。けれど女にはこの男が自分と同じ熱を持っていないこともわかっていた。だからこそ耐えられなかった。


 男は驚いたものの、全てを話して伝えた。女には納得のいく答えではなかったが信じざるを得なかった。ただ女の気持ちに対する男の返事には納得がいかなかった。女は食い下がった。催眠術で都合のいいように扱ってくれても構わないから、と。泣いて懇願する女を前に男は承知した。


 男は料理、洗濯、掃除の家事をやらせる時だけ催眠をかけた。ただ女の要望である催眠がかかっている時の記憶は消さないで欲しいという言葉通り、記憶は消さずに催眠をかけた。


 女は満足だった。男のそばにいられるだけで満足だったし、なにより考えることが無くなった。催眠がかかれば考えるより先に体が動くし、未来のことは全て男が指示してくれる。女には未来が見えない、と絶望することもなかったし未来について考えることも無くなった。そんな催眠術師の男との日々はしばらく続いた。凍えるような寒さも終わり、肌寒さがまだ残る頃、女は男に催眠術で死なせて欲しいと頼んだ。誰でも好きな人を思い続けるだけで見返りがなくては満足できなくなるように女は日に日にその生活に満足できなくなっていた。男の瞳に自分が映る日が訪れないことを知り、男の瞳に自分を映そうとすることを諦めてからは尚更だった。そして男の指示を待つだけで男と出会う前の何も変わることのない日常に女は未来が見えなくなった。だから女は再び海を選んだ。


 男と女は日が沈みかけた頃、家を出た。足はやはり海へ向かった。男が女の瞳を見つめると女の足は迷わず海へ進み、やがて女の頭は押し寄せた波で見えなくなった。出会った時と違うのは日はまだ落ちきらず、波は光を反射して淡いオレンジ色の灯を煌めかせていたことだった。男は女の頭が波に呑まれるのを見届けると黒いコートの立った襟に顔を埋めて、日が落ち砂浜を呑み込むようにして押し寄せる黒い波に背を向けた。


 女にやらせていた家事を男がやることになったこと以外に男の生活に変わったことはなかったが、女のいなくなった生活で男は何もない空間に呼びかけることが多くなった。その度、男はそこに女の返答がないことに気づき、終わりのない深い哀しみに襲われる。男にはその感情が何を意味するのかわからなかった。ただ女のいない生活は男の生きる意志を削っていった。男は女のいない明日を考えた。男の未来は見えなくなった。男は日の落ちる頃家を出た。足は自然と海へ向く。男は女を見送った海辺で、その長身によく似合った黒いコートの胸ポケットから茶色く剥げた銀の丸い手鏡を取り出した。


 錆びたネジの小さい音を聞いて、日が沈み影が落ちた鏡に映し出された自分の瞳を見つめると男は女を追いかけるようにして黒く、光を反射しない海に呑まれた。

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