第2話

 後を追いかけ始めてから、黒猫は振り向くことなく走り続けた。少年がついてきていることを足音かなにかで把握しているのか、立ち止まることもなく進んでいく。特に複雑な道というわけではないが、その姿は何度も少年の視界から消えかけた。

 小さいうえに闇に溶け込むその身体は、夜に追跡するには些か難易度が高すぎる。時折横切る街灯は一瞬だけ猫の姿を照らすものの、夜道に一瞬だけ現れる明るい空間は逆に少年の視界を混乱させた。


 少年の頭に諦める選択肢が浮かび始めたその時、目の前の暗闇から小さな鳴き声が上がる。何かを伝えようとしているわけではない、ただそこにいることがわかる程度の音。少年は止まりかけた足を再び前に踏み出す。

 別に速度を落としてくれたわけでも止まって待ってくれたわけでもない。ついさっき地面を叩き続けていたときとは様子の違う、素っ気ないようにも思える態度。しかし少年は走り続けるほどに猫への興味が強まるのを感じていた。


 なにせ一定の距離を過ぎる度に律儀に鳴き声を上げている。強く何かを訴えるような感じではないが、猫は逐一存在を少年に知らせ続ける。SOSは解釈違いで、単に怯えているだけかもしれない。だが逃げるなら黙って塀の上にでも避ければいい。

 猫は確かに自分に意識を向けて行動している。危険を知らせているようにも意思確認を繰り返しているようにも聞こえる。少年の頭には様々な可能性が浮かんだものの、結局は見失わないことを第一に考える他なかった。


 走り始めて数分後、猫はとある建物の前でピタリと止まってその場から動かなくなった。建物の前と言ってもかなり端の方で、どちらかといえば建物の横の路地に用があるらしい。その様子は少年の目にもボンヤリと映った。走っている最中は猫に夢中で本人も気づいていなかったが、夜道を行くうちに目は暗闇に慣れ、周囲の空間をなんとなく把握する程度の視界は確保できていた。

 

猫は息をひそめながら毛を逆立てる。少年もうっすら猫の緊張を読み取って歩みを止めた。1人と1匹が音を止めて間もなく、両者の耳には路地裏からの男の声が届いた。少年は足音を立てないようにしてゆっくりと覗き込んでみる。


 詳しい内容は流石にわからなかったが、どうやら数人の男が揉めているらしい。揉めているといっても取っ組み合いの喧嘩とかそういう訳ではない。ただあまり穏やかな雰囲気ではないようで、1人が尻もちをついて残りの男に詰め寄られている。


 黒猫がこの場所に案内したということは、この状況をどうにかしてほしいということなのだろうか。少年が周囲を見回すと、既に黒猫の姿はなかった。近くに隠れているわけでもないようで、遠くに逃げてしまったのかもしれない。もし知り合いが巻き込まれているのなら薄情者とも言えるし、見ず知らずの他人ならお節介ともいえる。


 まぁどちらにしろ初対面の少年にを巻き込んで逃げた時点で無責任ではあるのかもしれない。だが少年本人は猫への印象などとうに頭にはなく、目の前の男たちの動向を注視していた。


 1人を取り囲む男たちの語気は徐々に強くなっている。このままいけば言い争いだけでは済まなくなるのは目に見えている。少年は見ず知らずの人間を進んで助けるほどお人好しではないものの、目の前で理不尽な暴力が振るわれるのを見過ごせるような人間でもなかった。

 

 なによりあの黒猫を追いかけると決めた時点である程度のトラブルは覚悟していたし、猫がいなくなった今もそれを曲げることは許せなかった。そこには祖父との何気ない思い出を蘇らせてくれた猫への、僅かばかりの感謝も含まれていたかもしれない。理由がどうであれ、少年のとる行動は1つだった。


「えっと…、ちょっといいですか」


 路地裏に踏み出した少年が声を発すると、男たちが一斉にそちらへ視線を向ける。座り込んでいたのはスーツを着た中年男性。それに詰め寄っていたのは2人組の若者だった。1人は金髪で1人は茶髪、あまり派手ではないが装飾品を身につけ、いかにも夜遊びといった格好をした軽薄そうな人物。普通ならわざわざ声を掛けようとは思わないタイプの厄介な相手。


 だが目が慣れたとはいえ、真夜中の路地裏では少年の目にそれらの情報はあまり入ってこない。そもそもファッションにも疎く流行も知らないタイプのため、たとえ見えても単純に『そういう服装が好きな人』としか捉えられないだろう。若者2人は突如介入してきた相手に一瞬戸惑うも、平凡そうな少年の様子を確認するとすぐに威圧的な態度で向かってきた。


「そういうことはやめた方がいいと思うんですけど。通りすがりが言うのもなんですが」


 若者2人が迫るのも気にせず、最初に話しかけた際と変わらず抑揚のない声で少年は言葉を続ける。金髪はポケットに手を入れ、茶髪は少し体を左右に揺らしながら少年の前に立ちふさがる。典型的な不良スタイルである。


「キミ誰?通りすがりなら関係ないよね?」

「俺達あのおじさんに用があるだけだから。そんな悪いこともしてないし」

「そうそう。別に喧嘩とかじゃないから気にしないでいいよ」


「…何があったかは知りませんが、周りに人がいないからってやっていいことと悪いことがあると思います」


 遠回しに『帰れ』『引っ込んでろ』と伝えてくる2人だったが、少年は相変わらず声をかけ続ける。


「いやぁだからそんな悪いことしてるわけでもないからさ。明日も学校とかあるでしょ、遅いから帰んなって」

「そうそう、あのおじさんがちょっと俺たちに迷惑かけちゃったから、その分の誠意を見せてもらうだけだし」


「あんまりだんまり決め込まれるとこっちも流石に傷つくんですけど。折角勇気出して見知らぬ人に話しかけてんのに」


 2人は一瞬顔を見合わせる。なにかおかしい。


「待って待って、俺たちさっきから事情話してるよね?」

「黙るってかむしろかなり話してるんだけど」


「いつまでも座ってないでそろそろ反応してくれませんか」


 少年の最後の一言で、2人はようやく自分たちの勘違いに気が付いた。彼は自分達ではなく、ずっと後ろの中年男性に話しかけている。よく見たら視線もとうに自分たちの後方に向けられている。


「…いやぁ、参ったね…」


 唐突に発せられたもう1人の声に、少年と若者2人が注意を向ける。太り気味の男性はおもむろに立ち上がると、億劫そうな様子でスーツの汚れを払った。ついさっきまで腰が抜けていたとは思えない。


「折角いい感じの子たちと会えたのに、邪魔が入っちゃったねぇ」


 ゆったりとしたその語り口は、どこか体にまとわりつくような不快な音が混じっていた。2人の若者は先ほどまで自分たちが脅していた相手に、言いようのない不気味さを感じていた。


「…カツアゲへの正当防衛を言い訳にしたカツアゲ返し…って感じですか」


 少年は頭を掻きながら男性に話しかける。その声は男性に負けず劣らずのけだるさが滲み出ていた。


「はは、ばれちゃってたか。でもなんでわかったんだい?ふつうあの場面なら私は単なる不運なサラリーマンにしか見えないはずだが」


「『そういうのがわかる』としか言えません。昔から悩みの種でして」


「あらら、君も私と似たような感じかぁ」


 少年と男性の会話を聞きながら、若者2人はその場から動けずにいた。軽い気持ちで残業帰りの会社員に絡んだばかりに、なにか理解の及ばない状況に置かれている。 そして突如現れた少年も妙なことばかり喋っている。

 根拠はないが、下手に動けば彼らの注意は自分たちに向くだろう。何をされるか分かったものではない。かといって彼らにはどうすることもできない。


 3日後、若者2人は夜遊びを止めて真面目に学業へ励むようになる。それは十中八九、これから5秒後に起きる出来事が原因である。

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