第18話 本とキャンディと弟
「お嬢ちゃま。向こうのお屋敷からお嬢ちゃま宛に荷物が届きましたよ」
自室で本を読んでいると、ナニーが入って来てそう言った。
「あら、思っていたより早かったわね」
「ホールまでは上げてもらいましたが、重くて重くて。開けてもいいか分からないのでお伺いに」
ファナは読んでいた本を置いて立ち上がり、ナニーについて部屋を出る。
「何を送ってもらったんです?」
「本よ」
ああ、とナニーも合点がいったようだ。
最近ファナは家にいる時は暇さえあれば本ばかり読んでいる。タウンハウスの本棚にあった本にほとんど手を付けてしまい、ついにマナーハウスの書斎から蔵書を送ってもらったのである。
これはエルアの影響が大きい。学園では自分では買えない本がいくらでも図書館で借りられる、とエルアがかなり本を読んでいるのが分かったからある。
(だって、聡明な友達の話について行けないなんて。何かを尋ねられた時に答えられないなんて。恥ずかしいじゃない)
エルアが本に喜ぶ姿を見て、自分がいかに恵まれた環境にあったのかをファナが見直すきっかけになったとも言っていい。
乙女ゲーム的中近世の世界なので、前世の中世のように本1冊で一般庶民の割と良い家が一軒建つなんて物価ではない。しかし、オフセット印刷の本が既に開発されているようだとは言え、まだまだ高級品・嗜好品の部類。学園の書籍も学外への持ち出しは厳禁だ。
それ故、公爵家の過去からの恩恵は、駆け出しの読書家であるファナにはありがたかった。そう遠くない昔に読書家の当主が居たのだろう。マナーハウスの方にはかなりの本が蓄えられている。
(本は安くないもの。家にある分を読み切ったら、借りるか、図書館に通うようにしないと)
ファナにこういう経済意識が芽生えたのも、エルアとの交流があっての賜物だ。
前世でも、本が高価だったときには東西に関わらず貸本屋や読書サークルでの回し読みが隆盛を誇ったのだ。買わずとも知識は得られる。
そして女性は、どこの世界の男性にも眉をひそめられるほど、ロマンス小説や人情本を夢中になって読んだと聞く。ファナとエルアを見ていると、世界が変われどそこは変わらないのだろうと思う。
(あら、ヒロト。今回の本はお勉強のためのものでしてよ?)
ファナは秋からの選択授業で、男女の『向き』など関係なく好きな科目を好きなように取るつもりだ。確かに今回の本は、授業を選択するからには、と取り寄せたものだった。
(分かっていただけたかしら?)
ホールに降りると、公爵が先に居て、包みを開いて中身をぱらぱらと眺めていた。
「何を送ってもらったかと思ったら。最近のファナは勉強熱心だね」
「ええ。学園に通うようになってから、ものを知らないと恥ずかしいとファナも思い知ったのです」
ファナが公爵に臆面もなく素直にそう言う。
これが公爵夫人だと、殿方を恐縮させないよう、あまり『物知り』になり過ぎることに注意するところだろう。しかしファナの期待通り、公爵は嬉しそうに聞いているだけだ。
学園に女性が当たり前に入学し、恋愛結婚を認める風潮があるくせに、意外とこの世界の価値観は古臭い部分がある。学園で繰り広げられる乙女ゲームのシンデレラストーリーに必須となる女性の学問解放や恋愛結婚の価値観があり、同時に、雰囲気作りのための貴族と庶民のような身分差や長男子相続を持つ中近世的価値観がある。それらが矛盾しながらこの世界の現実として落とし込まれた結果だろう。
だから、女子も入学するのに、クラスは実質の男女別になるし、『女が学識をつければ生意気になる』なんて意見を聞くこともある。
(お父様が先進的でよかったわ)
公爵が愛娘のファナの意志を傷つけるようなことは言わないというファナの自信は凄まじい。しかしこの優しさや甘やかしが、違う世界線ではファナを手のつけられない悪役令嬢になるのを許したとも思うと、甘受は出来ない。ファナもファナで自分に甘い父親が大好きだからこそ余計に、だ。
ファナはそんな公爵を喜ばせることがあったと思い出す。
「そう言えば、エドワード殿下が夏至の時にまた踊って欲しい、と」
『春の舞踏会』でファナとエドワードをお膳立てした公爵の顔がぱっと明るくなる。
「そうかそうか!」
側に控えていたナニ―も同じように喜びの声をあげた。
「お嬢ちゃま、これは奥様にもご報告しなくてはいけませんよ。きっとお喜びになられますから」
公爵とナニ―の喜びように、自分で言ったくせ、ファナは内心苦笑いをした。
エドワードがファナを誘った理由は、そんな喜ばしい恋愛感情ではなく、『虫よけ』としてファナをご入用だからだ。そんなことはファナを溺愛する公爵には口が裂けても言えないが。
(でも、夏至に殿下と踊れば、秋学期から殿方が取るような授業を取ってもお母様には文句は言われないわ。そこは殿下に感謝ね)
エドワードも王子なりにも好きにしたい所があるようだが、ファナには負ける。
エルアはエドワードとハーゼルのルートへ進んでいるはずだが、どの授業を取るつもりだろうか。今度確認する必要があるかもしれない。
(私は好きにするわ。例の件で殿方には怖がられてるし、文句は言われないでしょう)
ファナが宣言するが、それは文句を言わせない、の間違いだろう。しかしファナの選択には従おう。
(貴方も、刺繍やダンスの授業よりはマシでしょう? これでも気を使ってあげてるのよ)
ファナはふふんと笑った。
「ああ、重い。運んでもらえばよかったわ」
何往復もしながら、ホールから自室のある最上階の階段の上まで本を運ぶファナはめまいを感じていた。すべてはコルセットをつけたまま動き回らなければならないせいだが。
(女子の基礎授業に運動が無い理由が知れるわね)
最後の数冊を持って階段を登りきる。すると、予想していなかった人物、いやファナの隣の部屋なのだから何度も本を運んでいれば音で気が付いただろう――オセローがいた。邪魔そうにファナが積んだ本を見ている。しかし、本を持って上がってきたファナに気づくと理由を察したようだった。
ファナの顔は今、だいぶ青いのだろう。ファナを避けてばかりだったオセローも、見かねたのか眉をしかめて言う。
「誰かに頼めばよかったのに、馬鹿じゃないの?」
最近は無視に近いくらいだったオセローの第一声は、やはり皮肉に満ちている。『春の舞踏会』でのファナの癇癪以来の、オセローからの会話だ。あれから完全に変わってしまったように思われた姉弟の関係性だったが、その言葉にファナは安心する。
確かに、オセローの皮肉など、久しぶりだ。懐かしささえ感じる。
「…………」
ファナが言い返さないので、オセローは少し気恥ずかしそうな表情になった。ファナの腕の中の本をひったくって、本の上に積み上げる。
「それで? 部屋にこれを入れたいの?」
「え、ええ」
ファナがやっとのことで肯定すると、オセローはファナが苦労して運んだ本の山をひょいと持ち上げた。
(え!)
ファナがオセローの力に愕然とする。
いや、舞踏会の時点でファナはオセローを振りほどけなかったのだから、自分より力があることは分かったはずだろう?
(だって、つい去年まで私よりも小さかったのに!)
女子の方が男子よりも発達の時期が早いのだ。オセローは十四歳。秋になれば十五歳だ。何もおかしくはない。背だって、ファナもまだ伸び続けてはいるが、オセローの方がすでに高いのだ。
ファナは気づいていなかったようだが、ファナと意識が混ざった時にはすでに、オセローと話す時にはファナが見上げる姿勢になっていた。
「姉さん、せめて扉くらいは開けられるでしょう?」
オセローがファナのドアの前で苛立っている。
ファナはまだショックから立ち直れていないが、言われるがままにドアを開いてオセローが入れるように支える。しかし、オセローが本を出入口に置こうとしたところで我に返った。
「そんなところに置かれても困るわ。せめて奥のチェストの上に置いてちょうだい」
ファナのリクエストにオセローがうんざりした顔になる。ファナの部屋には入りたくなかったのだろう。仕方なさそうに部屋の奥のチェストまで本を運び、ものすごい勢いで部屋から出てきた。
ファナはそんなオセローに、にっこりと笑う。
「助かったわ、ありがとうオセロー」
オセローは怒った顔だ。
「姉さん。前も言ったけど、姉さんは子ども過ぎる。簡単に自分以外を部屋に入れない方がいい」
「何故? エマもナニ―もいつも断りなく入ってくるわよ」
怒りの表情から、信じられないという表情に変わる。
なんとなく、オセローの言いたいことは分かった。家族や親しいものへの洋風なスキンシップの文化はこの世界にもあるが、『男女七歳にして席を同じうせず』とまではいかなくても
苦労性の弟がうんざりした様子で天真爛漫な姉を注意しようとする。
「それは、姉さん、が――」
しかしオセローの声は途中で裏返ってそこで止まってしまった。
ひっくり返った自分の声に自分でも驚いたのだろうオセローが赤面する。
これは前世でも経験がある。声変わりだ。
(なんだか苦しそうだけど、それは痛いの?)
人によってすごく痛む場合もあるらしいが、どちらかというと今のオセローのように人前で話している時や合唱の練習の時に声が変になるのが恥ずかしかった。今の今まで忘れていたが、成長期の悩みの一つだった気がする。喉のかすれはのど飴なんかを舐めている時は気休め程度にはマシだったが、声が裏返るのはどうにも出来なかった。
(分かったわ。飴、ね)
飴という情報にファナは反射的に部屋にあったスパイスとはちみつを固めた飴を持ってきて、黙り込んでしまったオセローに渡す。
「アニスが入っているから喉には良いと思うわ」
ほら、とガラスの容器からひとつ取り出して、ファナが口に入れて見せる。オセローはちょっと驚いたようだったが、黙ってうなずき、容器ごと受け取った。
「とにかく、助かったわ」
自分の部屋に帰っていくオセローの背中にもう一度声をかけるが、オセローはちらりと振り向くが何も返さなかった。ファナもそれを見てドアを閉じて自分の部屋に入った。
(驚いたわ。あんなに女の子みたいだったオセローが……)
ファナのオセローへの距離感の無さは、オセローのイメージを幼少期からアップデートが無いせいだろうか。ファナが時々言う『姉だから』という言葉にしろ、オセローは終生、わがままで認識を変えられないファナの弟をしなくてはならないのだ。なんだか、だんたんとオセローが可哀そうに思えてきた。
(まあ、失礼ね。それはきっと頭の中に貴方が四六時中居るせいよ。距離感もなにもないわ)
こう、言葉遣いがご令嬢らしくなくなってきているのも、そのせいだろうか。
「やっぱり貴方は私達を作っただけあるわ。オセローみたな皮肉ばかりですもの」
ファナが口の中でのど飴を転がしながら、そう言う。
(でも、オセローと久しぶりに話せてよかったわ。もしエルアがあの子を選んだら、厄介な小姑にはなりたくないもの)
オセローもこの飴を今頃舐めているだろうか。声変わりは人によっては何カ月も続く。もしかしたら、ファナを避けていたのも、声を気にしてのことだったのかもしれない。
やれやれ、思春期とは難しい。自分もそうだったはずなのに、つい忘れてしまう。
ミントのようなかすかに甘く苦いアニスの味と匂いが鼻の奥をつんとさした。
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