遅咲きの初恋

紀伊航大

いえなくて

ウグイス嬢のアナウンスが、最終回を告げる。マウンドには青山大成。完投まであと3人にせまる完璧なピッチング。大きく振りかぶるワインドアップスタイルから繰り出されるストレートは、未だ長打を許していなかった。すぐに三振に切って取る。続くバッターはキャッチャーフライ。いよいよ残すところアウト1つ。ここで迎えるは四番バッター。ツーストライクから、大成の1番の得意コースのアウトロー。決まった、はずだった。うなりを上げて腕から放ったボールは、回転数を上げて胸に飛び込んできた。危機的状況下では、周りの景色がスローモーションに見える、というのはあながち間違っていないらしい。薄れゆく意識の中に思ったのは、そんな馬鹿げたことだった。



「全治2か月の怪我ですね。」

医者から告げられた言葉に、高校野球のエースである青山大成は打ちひしがれた。連日連夜練習に励む部員の姿を思うと胸が痛い。あばらを折っているのだから、何もしなくても痛いのだが。これから、という大事な時期にしてしまった怪我は大成を苦しめた。小さな弟妹がいるために入院することになった。痛みにうめくこと以外には何もできない。少し動いただけでも全身に痛みが走る。

だが2週間もすると、鋭い痛みはなくなり動けるようになった。まだ安静にしているようにと、看護師さんたちには念を押された。その頃から面会が可能になり、多くの友人がかわるがわる顔を出してくれた。

野球部の仲間も来てくれ、大成とバッテリーを組む石川航はあの試合について話してくれた。あの日、大成はピッチャーライナーを食らって一時心肺停止になるとすぐに救急車で運ばれた。そのあと3年の内山さんが登板して勝利を収めたらしい。だが続く決勝では内山さんがメッタ打ちをくらい7-1でゲームセット。甲子園への切符を逃した。先輩たちは引退し、今は航がキャプテンとして再始動したと言っていた。

「早く怪我治してグラウンドに来いよ。みんな待ってるからな‼」

キャプテンらしく笑顔でそう言い残し、航は帰っていった。


寝ても覚めても、心配事は野球だらけだった大成を献身的に支えたのは、両親でも、弟妹でも、女房役の航でもなかった。

「またボール触ってるし、ちょっとは安静にしたら。」

航と入れ替わるように来たのは幼馴染の中野菜摘。手には差し入れの果物を持っている。

大成はしぶしぶボールから手を離すと

「毎日来なくてもいいって言ったろ。」

と照れながら言う。思春期の男子にとって私服姿の女子は女神である。それも学年1、2を争う美少女、菜摘のなんて誰もが見たいはずだ。それは大成にとってもなんら変わりなかった。白いブラウスからのぞかせる二の腕はまぶしくて直視できない。

「しょうがないじゃん。大成のお母さんに頼まれちゃったんだから。第一、共働きなうえに下の子らの面倒見なきゃいけないんだから、大成の親は来れないでしょ。誰が大成の身の回りお世話するの。」

「いや、俺だって高校生だぞ。自分のことくらい出来るっての。」

大成がそう返すと、菜摘はジト目で

「へえー、あばら骨折した奴が何出来るの。」

と言い放つ。大怪我で入院した大成に選択する余地は無かった。しぶしぶ謝罪を述べ、頭を下げると何かに気が付いた。

「でも菜摘、夏の大会メンバーだよな。練習いいのか。」

「今更何を。毎日朝練してカバーしてるわよ。心配しないで。」

と力なく笑うと菜摘は帰っていった。

その翌日だっただろうか、菜摘達バレー部が敗退したのは。その日大成は、いつも通りに見舞いに来てくれた菜摘が、何かを必死にこらえている顔をしていることにすぐに気づいた。

「俺の前でまで我慢すんなよな。」

頭をポンと触る。その言葉に堰を切ったように泣き出した。深く聞くことはせず、大成はただただ菜摘の背をさすった。水を取って来る、と大成は受付へ向かった。すると、なんだか談話室が騒がしい。

「それは治るんですか、息子は無事なんですか‼」

「若いので病状の進行も早く、現時点では何も...」

声を荒げる男となんとも煮え切らない医者の声が交互に聞こえてくる。柱の陰からそっと中をのぞいた大成は、はっと息をのんだ。眼前に広がる衝撃的な光景。机を拳で叩き怒鳴り散らす父と、その横で涙を流す母。申し訳なさそうに2人を見ている主治医。ちらりと見えた診断書には“がん”と書いてあった。


「...いせい、たいせーい!」

菜摘の声に意識が引き戻される。

「お水取りにいってから大成変だよ、何かあった。」

動揺が顔に出たのかと、挙動不審になる大成。

「いや、何も。ここテレビないからな。甲子園どうやって見ようか。菜摘も見ような。」

わざとらしく笑みを作る大成に違和感を覚えたものの、触れられなかった。大成の横顔が寂しそうに見えたから。

「私は甲子園になんて興味ないですよーだ。」

大成に合わせて、菜摘も明るく振る舞う。

「な、甲子園“なんて”だと⁉全国の高校球児が雨の日も、風の日も甲子園を目指して死に物狂いで練習するんだぞ。その夢の舞台がな......」

「あー、はいはい。わかったから。」

顔を見合わせて2人笑う。


空が赤く染まり夕暮れ時を知らせる。

「夕ご飯の支度あるし、そろそろ帰るね。もし、よくなったら一緒に甲子園生で見ようね。」

女優顔負けの笑顔に大成は撃ち抜かれる。


菜摘が帰ってから数時間。先刻までの赤い空は青黒く変化した。狭い病室に1人きり。人は、1人になったときにマイナス思考に陥りやすい、と何かのテレビ番組で言っていた気がする。大成も例外では無かった。寝つきの良いはずの大成だったがこの日ばかりは何時間経っても寝られなかった。

それから数日。談話室には大成、両親、主治医がいた。

「青山大成さん。大変申し上げにくいのですが、がんが見つかりました。スキルス性胃がんという進行の早いもので転移も全身に見られます。あなたの余命はもう2週間ほどです。いや、いつきてもおかしくありません。」

目の前が一気に暗くなった。プロ注目のエースだった大成。プロはおろか、もう野球ができない、生きられない。

病室に戻っても何も考えられない。唯一浮かんだのは菜摘のことだった。毎日欠かさず見舞いに来てくれている彼女にこの残酷な事実は何も言えない。



「はい、今日の分。着替えとお菓子。ここに置いとくから。」

「ありがとう。」

余命宣告されてから初めて菜摘に会う。大成は焼き付けておこうと菜摘の顔を盗み見る。整った顔に、少し焼けた肌。長いまつげは風に揺られて上下左右に動く。まるで大成の心のようだ。棚から菜摘の持ってきたお菓子を出して食べ始める。元気な大成の姿に安心したのか、菜摘の顔がほころんだ。

「なんだ、すっかり元気じゃない。退院の話とか出てないの。」

ポテトチップスを喉に詰まらせる。ゲホゲホと咳で呼吸を整えると、大成は必死にごまかそうした。

「あんま回復に向かってないらしくて。いつになるかわからない。甲子園は見に行けないと思う。」

大成がそういうと、菜摘は寂しそうにそっか、とつぶやいた。大成は言いよどんだが、覚悟を決めて言った。

「菜摘、もう明日から来なくていいから。」

突き放した言い方をする大成にムッとして言い返す。

「誰が毎日着替えとか持ってきてると思ってんの。」

「俺、自分でやるから。この前、航に菜摘がいるとこ見られたんだよ。恥ずかしいからもう来るな。」

椅子がガタンッと音を立てて倒れる。

「もういいっ。二度と来ない。」

ドアから走り去っていく菜摘を見送る大成の目は陽に照らされて光っていた。


嫌な電子音が病室に響く。その日の夜、急に病状が悪化した大成の口元には酸素マスク。両親と、唯一事情を知る航、主治医に看取られて、大成は享年17歳にして帰らぬ人となった。


明朝、中野家に1本の電話が入った。菜摘はその瞬間泣き崩れた。なんの記憶もないまま葬式は終わり、前を向こうと学校に行っても、ずっと非常階段の前にいた。ある日、いつも通り非常階段に行くと先客がいた。石川航だ。

「よ、やっぱここにいたか。」

能天気な男の横を通り過ぎようとすると、腕をつかまれて、屋上へと引っ張られる。

「ちょっと、なにすんのよ。」

「俺は親友の最後の願いのために動いてんだよ。」

そういって封筒を押し付けられる。裏返すと几帳面に宛名が書いてあった。その筆跡は嫌というほど見た、彼のものだった。

「なんで、石川は知ってたの。」

「まあな、最期にも立ち会った。そのときに渡されたのがこれだ。最期の最後までアイツは中野のことだけを心配してたよ。」

泣き叫ぶ菜摘。

「今度の日曜、墓参りに行かないか。」

そういう航の目も赤かった。きっとこの男もずっと苦しんだのだろう。

青く、青く晴れ渡った空には2人の泣き声だけが響いていた。


墓石にはたくさんの花が添えられていた。航と菜摘も花を活け、線香をあげて、両手を合わせて話しかける。

帰っていく2人をいつまでも大成は見ていた。



桜満開の今日。菜摘たちは高校を卒業する。そんな彼女の顔は晴れやかだった。机の上には彼からの手紙が、震える字が連なった彼女のたからもの。

最後の便箋の残り数行分は濃く、はっきりと書かれていた。

「菜摘、行くわよー。」

母に呼ばれて出発する。


あの頃と同じ晴れの空に“わたし”はつぶやく。

「そんな大事なこと直接言いなさいよ。私なら後悔したくないから言うわよ。」


そのとき菜摘の部屋では、開いていた窓から風が吹き込み手紙が机から落ちる。


『菜摘、好きだ』


                                     fin

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遅咲きの初恋 紀伊航大 @key_koudai

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