新垣一馬

鷹山トシキ

第1話 ゾンビ

 新垣一馬あらがきかずまは次男として種市村(後の種市町)で出生し、地元の小中学校を卒業後、一時は父が営んでいた廃船解体作業を手伝った。父の死後、1968年(昭和43年)ごろからは転々と船を替えながら漁船員をしたり、土木作業員などをして働いてきた。1973年(昭和48年)ごろに胃炎で青森県八戸市内の病院へ入院した際、同じ病院に入院していた女性、沙織さおりと知り合って懇ろの仲になった。当初は財産もなく、生活も安定しないとの理由で沙織の両親から結婚に反対されたため、東京方面に駆け落ちするなどしたが、結局沙織が妊娠したことから結婚を許され、1974年(昭和49年)10月4日に沙織(当時22歳)と入籍した。その後、実家近くの住居地(事件発生現場)に借家住まいし、妻・沙織との間に長女・多紀子たきこ、長男・夏樹なつき、次男・春樹はるき、三男・正樹まさきを次々にもうけ、はた目には平穏な家庭生活を営んでいた。


 しかし一馬は必ずしも勤勉な性格ではなく、対人関係の拙さもあって、一定の船主の漁船に乗り続けることができず、転々と乗る船を替え、あるいは漁期の途中で次の仕事の宛もないのに下船してしまうことが重なった。陸上では土木作業員などをして日銭を稼いだり、失業保険金の支給を受けたりすることもあったが、育ち盛りの子供たちを抱えて一家の収入は必ずしも安定せず、家賃すら満足に払えなかったため、沙織が内職の針仕事をして辛うじて家計を保つという生活が続いていた。そのうちに、1987年(昭和62年)初めごろに一馬は例によって、船主と水揚げの精算のことで折り合いがつかなかったことや、船頭と気が合わないことなどを理由に、当時働いていた漁船から下りてしまった。以降は土工などとして働くこともあったが、一家を養うだけの収入もなかったため、沙織の内職により辛うじて一家の糊口を凌ぐ生活をせざるを得なかった。そのため、一馬と沙織との間でしばしば口論が起こるようになり、1988年(昭和63年)春ごろには、沙織から「働きがない」と難詰された一馬が興奮し、沙織に殴る蹴るの暴行を加えたため、沙織が一馬との生活の前途に見切りをつけ、八戸の実家に戻った上で離婚を求め、子どもたちもそれに従うという事態になった。この時は、一馬が再三沙織に謝罪し、「以降は真面目に働き、無断で仕事を辞めたりしない。暴力も決して振るわない」と誓約し、一馬の母親らもよく監督して誓約を守らせることを沙織や実家の父親らに保証したため、1か月あまりで解決し、沙織や子どもたちも一馬のところに戻ってきた。


 一馬はしばらく上述の誓約に従い、八戸港所属の漁船(イカ釣り漁船)に乗って漁船員として働いた。当時は漁期の途中に船が八戸港へ寄港した際、帰宅して一家団欒をするなど平穏な生活を送っていたが、1989年(平成元年)7月20日に船が漁期の途中で八戸港に一時寄港した際、他の漁船員の働きぶりに対する不満を理由に船を下り、出港当日(7月26日)に迎えに来た漁労長(一馬の従兄弟)の誘いを断って家に帰ってきてしまった。さらに同月26日夜、一馬はその事情を知った沙織から口うるさく難詰されたことに腹を立て、沙織の顔面を殴った。先述の誓約がことごとく破棄された結果になったため、沙織はまもなく町役場から離婚届の用紙をもらってきて一馬に突きつけ、離婚を迫ったりする気配を示したが、一馬はその場で用紙を破り捨てた。沙織もそれ以上は離婚話を持ち出さなかったため、一旦は家庭内の雰囲気も落ち着くように見えたが、沙織は同月29日 - 30日に「実家の家業(民宿)を手伝う」と言って八戸の実家に帰った。そのため、一馬は「もともと沙織の実家は沙織と自分との結婚自体に反対しており、先の離婚騒ぎの時も離婚に積極的だった。沙織は実家に帰って再び自分との離婚について話し、実家側もそれに賛意を示しているのではないか」と気を回し、穏やかでない心境になっていた。



 そして同年8月8日、一馬は沙織の実家から「沙織の父親(義父)が病院で検査を受けるので、翌日沙織を実家の手伝いに寄越してほしい」という趣旨の電話があったことを実母(近所に在住)から聞かされ、「沙織が実家に帰ってしまえば、いよいよ離婚させられ、前回の離婚騒ぎの時と同様に子どもたちも沙織について行ってしまい、自分は一人きりになってしまうのではないか」と不安の思いを深めることとなった。そして同晩、一馬は不安を隠したまま沙織と一緒にウイスキーの水割りを飲みながら台所兼居間で寝込んでしまったが、翌9日(事件当日)5時ごろに目を覚ました。寝直そうとした一馬は沙織と三男が寝ていた東側七畳間に入り、沙織の隣で寝ようとしたが、その弾みに自身の左腕が沙織の右腕に触れたところ、沙織はこれを跳ね除け、一馬に背を向けるような動作をした。一馬はその際、沙織が目を動かしたように感じられたため、「沙織は目を覚ましており、先ほどの動作は自分に対する嫌悪感の現れだ」と感じ、そのような態度に出る以上は自分との離婚の決意は固く、『自分が沙織や子どもたちと別れさせられ1人になるくらいならば、妻子を道連れに自分も死んだ方が良い』との思いに駆られ、就寝中の妻子5人を皆殺しにしようと決意した。


 一馬は同日(1989年8月9日)5時ごろ、勢いをつけるため、一升瓶に約7合くらい残っていた日本酒をラッパ飲みにし、自宅の居間兼台所北西隅天井近くに設けられた神棚から凶器のマキリ(刃体の長さ約15.5 cm)を持ち出し、自宅東側七畳間で就寝していた沙織(37歳没)と三男(6歳没 / 種市町立種市保育園の園児)を、西側七畳間で就寝していた長女(14歳没/ 種市町立種市中学校3年生)・長男(13歳没/ 種市中学校1年生)・次男(10歳没/ 種市町立種市小学校5年生)を、それぞれ殺意を持った上で頸部を掻き切ったり刺したりして殺害した。被害者は寝込みを襲われたため、長男を除く4人はいずれも抵抗する暇もなくマキリで頸部を掻き切られて殺された。長男は弟が殺されそうになった際に目を覚まして逃げ出し、驚愕のあまり逃げ惑ったが、一馬により執拗に部屋の隅まで追い詰められて背中を刺され、最終的には頸部を掻き切られ殺された。


 その後、一馬は凶行におよんだ寝室・子供部屋から居間兼台所へ戻り、隣室(沙織の仕事部屋)から持ち出した日本酒一升瓶の封を切り、約5合の日本酒を飲んでその場で寝込んだ。一馬は同日22時ごろに目を覚まし、冷蔵庫の上に置いてあった沙織の鞄の中から141,000円を抜き取り、洗面道具・飲み残しの酒が入った一升瓶を携え、犯行現場を他人に見られないよう、留守を装って玄関の外側から南京錠を掛けて自転車で実家に向かい、実家で眠った。


 一馬は事件翌日(8月10日)10時ごろに起床し、ちり紙にペンで「みんなつれていく ゆるせ」と書いてこれを財布の中に入れたほか、物置の中からロープを取り出し、その先端に輪を作った。そのロープを持って実家近くの川尻川に架かる鉄橋(国道45号)の下に行き、ロープを橋桁の鉄骨部分に掛けるなどして自殺を図ろうとしたが、断念して実家に戻り、屋敷内の木陰にござを敷いて日本酒を飲み、昼寝するなどして過ごした。一馬はその翌日(11日)・翌々日(12日)も食事もせず、ぶらぶら過ごしていた。その間、実家の台所から持ち出したマキリで手首を切って自殺しようと考えたが、マキリを構えただけで手首に当てることもせず断念した。


 その後、一馬は格段に自殺を試みようとはせず、超能力刑事、安河内雷也やすこうちらいやが現場に駆けつけたところ、同月遺体はその間、4日間にわたり放置されたため、発見時にはいずれも腐敗して悪臭を放ち、蛆虫が湧いていた。一方でこの間、近隣住民や被害者である子供たちの同級生は彼らがクラブ活動の練習・夏祭りの神輿作りに来なかったことを訝しがっていたが、当時は盆近くだったため「実家にでも帰ったのだろう」と信じていた。


 久慈川の近くを一馬は歩いていた。ゾンビが5体襲いかかってきた。🧟‍♀🧟🧟‍♂🧟🧟‍♀一馬はマキリで全て倒した。

 一馬は人を殺すごとに妖怪倒せる、魔界の住人だった。

 

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