第70話 いつからそれが『正しい』と錯覚していたの?
――
その知らせを聞いた瞬間、レイチェルはその言葉の意味がよく分からなかった。
倒れた? 誰が? あの彼女が? ――そんなことがあり得るのか?
さっきまでの彼女に、そんなそぶりはまったくといっていいほどになかった。いつも通り、元気そのものだったのに。
言いようのない不安を抱えながら、レイチェルは焦るユーグに連れられてアンリのいる執務室まで急いだ。
◆ ◆ ◆
執務室の中には、ヴォルフとフランシスカ、そしてベヒモスがいた。
部屋に入るなりユーグは、レイチェルを視認できない二人に、レイチェルの到着を説明し、魔王が倒れた時のことをもう一度説明するようにお願いしていた。
そんな中で、レイチェルは不安げな顔でアンリを見やった。
倒れたというわりには、穏やかな顔をしている。まるで、ただ居眠りをしているかのような、そんな安らかな寝顔だった。
ただ、上手くは言えないが、――何かがおかしい。
何となくアンリの様子が気になってしまい、触れられないとは知りつつも、そっと手を伸ばした。
もうすぐ手が頬に触れる。その刹那、バチリ、と痛覚のない指先に電流が走ったような鋭い痛みを感じた。
「……えっ?」
思わず一歩のけ反って指を引く。右手の指先には、チリチリと焼けるような痛みが残っていた。
――レイチェルは霊体だ。肉の体を有さない彼女は、この数百年の間、痛みはおろか、物にさわる感触すら感じたことがない。それなのに。
アンリが無意識のうちにレイチェルのことを拒絶した?
いや、でもこれはそうではない。彼女の魔力ではなく、もっと別の――。
心の奥から這い上がる恐怖を押さえつけながら、レイチェルはユーグの方に向き直った。
――何か大変なことがアンリの身に起こっていることは確実だ。でも、今は彼らに詳しい話を聞かないことには、どうにもならない。
「……ユーグ」
「はい、女神様」
準備はできています。と言いながら、ユーグはヴォルフに説明を促した。
◆ ◆ ◆
「妹に頼んで、魔王様に執務室までご足労いただいたことまではご存じですよね?」
――タイミングが悪すぎると、愚痴を言われました。
そう軽く言ってはいたが、ヴォルフは少しだけ不安そうだった。異常事態に困惑しているのは、何もレイチェルだけではないのだろう。
普段の彼女の行動を見ていたならば、彼女が急に倒れるだなんて、思いもよらなかったはずだ。
「『火急の用事』というのは、こちらのことだったのですが……」
そう言うとヴォルフは、一枚の上質な紙をレイチェルのいる方向――ユーグの目線の先に向けて広げた。
その紙に書かれた内容を見て、思わず表題を口走る。
「魔族討伐三周年の記念祭……?」
呆然としながらも、その紙――記念祭への招待状をまじまじと見つめる。
開催地は帝国『ベルンシュタイン』の王城。当然のことだが、その祭主もまた帝国の皇帝だ。
記念祭自体はそこまでおかしなものではない。ただ、何故『今』なのだろうか?
そのような旨をユーグを通してヴォルフに伝えると、彼は緩く首を振って問いに答えた。
「『今』だからこそですよ、女神様」
そう言って、ヴォルフは続ける。
「表には出てはいませんが、今この大陸は『魔王肯定派』と『魔王否定派』の二つに割れています。現段階では、肯定派の方が分がありますね。これがどういうことを意味するか分かりますか?」
「……アンリの味方が増えるたびに、否定派の筆頭である帝国の力が削がれていく。その事態の大きさを恐れた帝国が、行動に出た。……そういうことですか?」
ユーグを通して、レイチェルの言葉を聞いたヴォルフが頷く。
「その通りです、女神様。前回の一件で帝国の権威は大幅に下がりました。いざという時にあてにならない宗主だなんて、仕える価値がありませんからね」
辛辣な物言いに、レイチェルは引きつった笑みを浮かべた。
いつものことながら、厳しい男である。
「でもいくら腐敗が進んでいるとはいえ、帝国も勝ち目のない戦いを挑むほど愚かではありません。あちらも魔王様が敵対の意思を持っていないことは薄々勘付いているでしょうし、この記念祭に魔王様を招くことで、なんとか対等以上の関係であると周りにアピールしたいのでしょうね。あわよくば裏で手を結んでこの大陸を掌握しよう、と提案してきてきてもおかしくはないくらいです」
まぁ、それは考えすぎでしょうけど、と薄く笑ってヴォルフは続ける。
「今後の対応も含め、軽く打ち合わせをしておこうと魔王様をお呼びしたのですが……」
「この招待状を見て、彼女は倒れたのですか?」
「いいえ。――魔王様は部屋につくなり、『頭が痛い』と額を押えて蹲ってしまわれて、そのままパタリと。だから、魔王様はこの招待状を見てすらいないのです」
……果たして、招待状のくだりは説明に必要だったのだろうか。
レイチェルは少々腑に落ちない気持ちになったが、『最初から説明を』と言われていたのだから、ここであれこれ言っても仕方がないだろう。
ヴォルフ曰く、ベヒモスも呼んで招待状を調べてもらったが、特に魔術も仕掛けられていないし、アンリ自身を調べてみたが、特におかしなところはないらしい。
そう、体に異変はないとベヒモスは断言した。だからこそ、ヴォルフはそこまで慌てていなかったのだ。
そして何よりも、ヴォルフは『超直感』という
きっと彼自身も、今回アンリが倒れたことについて「特におかしなところはない」と判断したため、この一件をさほど問題視していないのかもしれない。
『――魔王が倒れたのは確かに心配だが、ベヒモスと自分が異常がないと判断したのだから、そこまで大事には至らないはずだ』
おおかた、このような結論に達したのだろう。
レイチェルを此処に呼んだのも、きっとベヒモスが誤診をした場合のための保険みたいなものだったのかもしれない。
別にその考え方を責めるつもりはないし、普段の元気そうなアンリを見ている者にとっては、彼女がどうにかなってしまう、ということ自体がいまいちピンとこないのも何となく分かる。
でもだからこそ、苛立ちが募る。
--そう、この場においてレイチェルだけがアンリの異常をはっきりと悟っているのだ。
一分一秒でも早く、彼女が倒れた原因を探らなくてはならない。
相手が魔術師であるならば、それをどうにかできるのは、この城にはレイチェルかベヒモスくらいしかいないのだ。
――私がしっかりしなくては。
そんなことを考えながらも、レイチェルは厳しい目で、アンリの隣にあるテーブルの上に佇んでいるベヒモスを見つめた。
「ベヒモス。――本当に彼女の体におかしなところはないのですか?」
レイチェルの問いに、ベヒモスはゆるりと赤いボタンがまだらに縫い付けられた顔を向け、こくりと頷いて見せた。
「体におかしいところはないよ。あとその招待状にも、なにも魔術はかけられてない」
ベヒモスは、少年のような声音でそう答えた。
――自律型移動城塞02式 通称「ベヒモス」
それが彼の正式な名称だ。
レイチェル達が知る『生き物』とはほど遠く、『精霊』と称するには自我が確立しすぎている、この魔王城そのものの意識体。
今はアンリが作成したぬいぐるみという憑代を用いてはいるが、それがなければこうして存在しているのかどうかさえ分からない、そう、言ってしまえば『奇妙な存在』なのだ。
レイチェル自身も他の人間達から見れば十分に『よく分からないもの』だろうが、それでもこのベヒモスの比ではないだろう。
アンリはそんなベヒモスのことを、まるで親しい友人か、もしくはかわいいペットのように扱うが、それが本当に彼に対する接し方として正しいのだろうか?
本人同士が納得していればそれでいいのだろうが、レイチェルには判断がつかない。
――ベヒモスとはもう二年の付き合いになるが、この存在を完全に理解している者など、アンリも含めて誰もいないとレイチェルは思っている。
……この城が万魔殿などとは決して言わないが、前魔王が彼を所有していたことを考えると、それも強ち間違いではないのかもしれない。
だが謎が多いことは確かだが、それでもベヒモスほど頼りになる味方はいない。
言うなれば、ベヒモスは城の形をした魔道書
以前に軽く術式を見せてもらったが、その一部を垣間見ただけで、レイチェルは眩暈がしそうになった。
まるで暴力的とでも称していいほどに詰め込まれた、膨大な魔術式。そのほとんどが、神であるレイチェルにも理解できないくらいに、高次元の物であったのだ。
――そう、必要な分の魔力を流すだけで、神の御業を軽々と代行できるだけの機能を兼ね備えた、いわば人造の『神』に等しい存在。
そんな恐ろしい物をいったい誰が、何を目的として作ったのかを考えると、キリキリと無いはずの胃が痛む気がしてくる。
以前にアンリが色々と問い詰めてはいたようだったが、その殆どを「条件が満たされていないからダメ」と訳の分からないことを言って躱されていた。
それで簡単に諦めるアンリもアンリだろうが、ベヒモス自身に話す気がないのだから、どうしようもないだろう。
その来歴を知っている者から見れば、本当に無条件に信用していいのか迷う所ではあるが、残念なことに、この国はベヒモスの恩恵を受けすぎている。
大きな事柄から、ほんの些細な手伝いまで。もうすでに、この国はベヒモス無しでは存続が危ういレベルに陥っている。
広大な農地を管理できるのも、整った設備が張り巡らされた街に住めるのも、何不自由のない暮らしを送れるのは、そのほとんどがベヒモスを通してきちんと管理がされているからだ。
それに加え、先の『奇跡』の代行も、アンリの魔力を用い、ベヒモスが細かい調整をして完璧な形で実行したのだ。アンリだけの力では、ああも上手くはいかなかっただろう。
――だが、それでもやはりベヒモスは『物』だ。
ベヒモスの力は確かに強大だが、その本質は式神に近い。
持ち主――現在はアンリとなっているが、その命を受けねば、碌な行動をとることすらできない非力な存在だ。
そう考えると、魔力量に秀でたアンリがベヒモスの所有者となったのは、必然なのかもしれない。
『ベヒモスはアンリに決して逆らわない』
それはこの城に住む者の、共通認識として扱われている。
そう。それ故に。――ベヒモスがアンリに対し、
「ねぇ、ベヒモス」
「なに?」
そんなこと、考えてもいなかった。
でも、一度不審に思ってしまえば、その疑念は止まらない。
「彼女は本当に寝ているだけなのですか?」
「そうだよ」
「頭が痛いと言っていたらしいですが、体に悪いところはないのですね?」
「脳にはきずも腫瘍もないし、体に異常はないよ」
「誰かに魔術をかけられた可能性は?」
「ますたーの体に魔術はかかっていないよ」
レイチェルの問いに、ベヒモスは淡々とした口調で答える。
レイチェルの声が聞こえないヴォルフとフランシスカの二人は、困惑した顔でベヒモスを見ていた。
ユーグも、不安そうな目でレイチェルの方を見つめている。
なぜ何度も同じような問いをするのか、とでも思っているのかもしれない。
それでも、レイチェルには確かめたいことがあったのだ。
――ここでもう一度、ベヒモスという物の生態をおさらいしようと思う。
まず原則として、ベヒモスは決して嘘はつかない。――だが、それ以上にベヒモスは融通が利かないのだ。
きちんと一から説明をしないと、自身が意図していることが間違って伝わってしまう。そう事あるごとに零していたのは、他でもない魔王だ。
だから魔王のその言葉を聞いている者達は、ベヒモスに何かを聞くときには、答えてもらいたい事柄のみを問いかけるようにしている。
きっと先ほどのヴォルフ達も、レイチェルと同じように限定された事柄のみを聞いたはずだ。
そうしなければ、ベヒモスは見当違いの返答をしかねないと知っていたから。
でも、それが間違いだったのかもしれない。
レイチェルはベヒモスの言葉を聞いて、静かに目を伏せた。
――ああ、
ベヒモスは嘘はついていない。だが、それは『本当のことを話している』のと同義ではない。
「先ほど『体に魔術はかかっていない』と言いましたよね」
「うん」
ベヒモスが頷く。
それを見て、レイチェルは自身の考えが正しかったことを確信した。
先ほどレイチェルがアンリに触れようとした時、レイチェルは確かに他者の魔力の残滓を感じた。
普通に考えて、あそこまで分かりやすい形で残っていれば、このベヒモスが感知できないはずがないのだ。
皆の質問の仕方が悪かった。それとも意図的に明確な返答を避けられていたのか。いや、そんなことは、もはやどうでもいい。
「では、――彼女の肉体以外に、魔術がかけられている部位はあるのですか?」
レイチェルのその問いに、ベヒモスは「何を今さら」とでも言いたげに首を傾げた。
そして、彼は答える。
だがそれは、この場にいる者にとっては、あまりにも残酷な答えだった。
「――うん。あるよ?」
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