第69話 聖人君子だと思った?残念!神様でした!
「――でも、本当にいいのかなぁ」
城にある自室の中で、アンリは深刻そうに呟いた。
「なんでそう、貴女は妙なところで卑屈なんですか……?」
その呟きを隣で聞いていたレイチェルは、心底不思議だとでも言いたげな声音で返す。事実、レイチェルには不思議で仕方がなかったのだ。
――なぜ彼女はこんなにも自己評価が低いのだろう。変なところでは自信満々のくせに。
それに、誰がどこからどう見ても、彼女は『立派な王様』なのに。
レイチェルが思うに、彼女はどうにも自分に対する評価が低すぎるように見受けられる。
相手からの称賛に否定を返すのは、ある意味謙虚という名の美徳なのかもしれないが、それも行き過ぎれば卑屈となる。
何に憚ることなく、いつものように堂々としていればいいのに。仮にも『神』を従えているのだから、それくらいの心持でいてくれなければ困る。
そんなことを考えながら、レイチェルはじっとアンリを見つめた。
「だって、名前は大事でしょう?」
アンリはそのまっすぐな視線から目をそらしつつ、不満げなレイチェルに言い聞かせるかのような口調でそう言った。
「本来名前っていうのはさ、人が産まれて初めて受け取る贈り物なんだよ。普通は両親、もしくはそれに準ずる親族が考えるのが一般的だ。それに、正直そこまで期待されると、ちょっと気が引けるっていうか……」
神妙な顔をしてそう言ったアンリに、レイチェルは困惑の視線を向けた。
――それを踏まえての『願いごと』でしょうに。
『大切なわが子の名前を、尊敬している人に付けてもらいたい』
なんて健気な想いだろうか。タニアはただ純粋な気持ちで彼女のことを慕っているだけなのに、ここまで重く受け止められても困るだろう。
「名前が大事な物だからこそ、貴女に頼んでいるのでしょうに。それに、別に嫌なわけではないのでしょう?」
「まぁ、うん。頼られて嬉しいのは山々なんだけど、はっきり言ってネーミングセンスに自信がない。もし、がっかりされたらどうしようか」
「……あまりにひどいものは、私が止めてあげます」
「あはは、ありがとう」
はぐらかすように笑いつつも、彼女は続ける。
「それにしても、予定日が一週間後かぁ。私の誕生日と被るかもなぁ」
そのアンリの言葉にレイチェルは首を傾げ、思い当った事実に愕然とした。
誕生日。
彼女の口からは一度も聞いたことがないので失念していたが、彼女だって一応は人間だ。毎年自称する年齢が増えているので、ある程度の基準はあるとは思っていたが、まさか『誕生日そのもの』があるとは考えていなかった。
この国の住人は基本的に誕生日を祝ったりはしない。
そもそも、自身の生まれた日を知らない者が殆どなのだ。生い立ち故にそれは仕方がないことだと思うが、把握している者ですら『誕生日とかどうでもいい』と思っている節がある。
レイチェル達は、そんな『常識』に慣れきってしまっていた。
――だが、彼女は違うはずだ。
――ああ、そうだと知っていれば、皆に相談して生誕祭くらい催したのに。
「……たしか貴女がいた世界では、二十歳になるのは特別な意味があるのでしょう?」
「特別というか、成人と認められるのが二十歳だから、かな? 別に成人っていっても、形式上だけだしね。それに、二十歳になったからって何か変わるわけでもないし」
明らかにどうでもいいと思っていそうな返答を聞いて、レイチェルは歯噛みした。なんでこう、彼女はいつも大切なことを話さないのだ。
そんなレイチェルに対し、彼女は「何言ってんだコイツ」とでも言いたげに首を傾げている。
もしかしたら彼女は、ここ数年の暮らしのせいで『誕生日は祝わないのが普通』だとでも思っているのかもしれない。そう思うと、ちょっとだけ罪悪感を抱かなくもない。
「どうかしたの?」
「前々から思ってはいたのですが、貴女は私に、どれだけ隠しごとをしているのですか?」
それは純粋な疑問であり、半分は理不尽な怒りだった。
アンリはきっと言い忘れているのではなく、『故意』に話していない。
「別に言うほどのことでもないだろう」といった勝手な判断で話すかどうかを判断しているのだろう。
大事なことは何も話してくれない、とまではいかないけれど、こうやって後になって発覚することが多すぎるのだ。ああ、腹立たしい。
「隠しごと、って言われても……」
思い当らない、といった顔で彼女が言う。
「……名前」
「え?」
「トーリには教えたのに、私には教えてくれないんですね」
恨み言を吐き出すような口調で告げる。
――一年前の、ガルシアの結婚式の後のことだ。
あの男、トーリはレイチェルがユーグ達から離れた隙をうかがって、さりげなくこちらを牽制してきたのだ。いや、あれは挑発と言ってもいい。
『――貴方はまだ教えてもらえてないですよね?』と心底楽しそうに、彼は告げた。
レイチェルには、自分が誰よりもアンリの傍にいたという自負がある。
彼女がもっとも心を許しているのは、自分だと信じて疑っていなかった。自分が目の前の男よりも劣っているとは、考えもしなかった。
そんな自信を踏みにじるかのように、トーリはそう言ったのだ。
その時レイチェルが感じたのは、目の前が真っ赤に染まるほどの激情と、這いよるような不安だった。
かといって、みっともなくアンリにその名をねだるほど、レイチェルの矜持は低くない。くだらないプライドだと自覚しつつも、レイチェルにはどうにもできなかった。
アンリとトーリが一緒にいるところを見るたびに、胸が軋んだ。私よりも、そいつの方がいいのかと、叫びたくなった。
白い紙に墨を垂らしたかのように、じわり、と広まっていく不快感。
なんで。どうして。ずっと一緒だと誓ったのに。なんでそんなひどい人に笑いかけるの。――ああ、貴女の『
レイチェルは人間から相成った――いや、成り果てた神であるが故に、良くも悪くも感情の揺れ幅が大きい。
人間味がある、と言えば聞こえがいいが、機嫌がコロコロと変わる『神様』ほど恐ろしいものはない。
いくら元は人間だったとはいえ、今のレイチェルは神そのもの。彼女の笑みが、行動が、言葉が、いくら善人のように見えたとしても、人間と同じ理に当て嵌めて考えるのは、愚かとしか言いようがない。
レイチェルが神になる切っ掛けとなった邪神――元は土地神として存在していた蛇神が邪神に堕ちたのも、元はといえば人間が正しく蛇神を祀らなかったからだ。
今は封鎖されている蛇神の社は、元は地元の者達がきちんと整備をし、供物をささげ、節目ごとにささやかな祭りを行う穏やかな場所だった。
そんな人間たちを蛇神は好ましく思い、加護を与えてきた。
だが、時代が移り変わるにつれ、王が変わり、人の暮らしが変わり、他の国から今よりもずっと分かりやすい形で、新しい信仰の布教が始まり、ゆっくりと蛇神の社を祀る者は少なくなっていったのだ。
段々と廃れていく社の中で、蛇神はいったい何を思ったのだろうか?
――ただ一つ言えることがある。
神は確かに人間に救いをもたらすが、便利に扱おうなどとは決して考えてはいけない。ましてや、打ち捨てるなんて以ての外だ。
何故ならば、神様は仏と違って
『豊穣を与えてやったのに』『目をかけてやったのに』『どうして』『何故こんな仕打ちを』『あな憎らしや人の子よ』『祟ってやる、祟ってやる、祟ってやる』『みんな死んでしまえばいい』『悔しい』『……ああ』
『……あんなに愛していたのに』
可愛さ余って憎さ百倍。人を愛し、愛された記憶があるからこそ、蛇神は禍津に堕ちた。
……その末路が、人間に斬り殺されて死に至ったというのだから、何も救われない。
そんな情の深い神の血を浴び、神に成り果てたレイチェルもまた、同じ業を背負っているといっても過言ではない。
だが、少なくともアンリが側にいる間は、レイチェルが邪神に堕ちることはないだろう。
誰だって、大好きな人の前では、綺麗な存在のままでいたいだろうから。
だが本来であれば、レイチェルのような格の低い神など、その心次第でいつ堕ちてもおかしくはない。所詮格の低い神なんて、妖怪とたいして変わらない程度の存在に過ぎないのだ。
神を貶めるのは、いつだって人間だ。だからこそ、人は神を敬い、畏れ、奉る。誰の為ではなく、自分の為に。誰だって、下手をうって呪われたくはないのだから。
そう、『神』という存在は例外なく傲慢なモノである。レイチェル本人がそれを自覚しているかどうかは、また別の話だが。
――それでも『
身を焦がすような嫉妬も、臓腑が煮え立つような激情も、誰にも悟られないように抑え込んで見せた。
今は無理でも、きっといつかは自分にも話してくれるだろうと、そう信じて。
……だが一年たっても、アンリがレイチェルの期待に応えてくれることは終ぞなかった。
恐らく、レイチェルの方から話を振れば、彼女は答えてくれたと思う。
でも、それはレイチェルのなけなしのプライドが許してくれなかった。彼女の方から話してもらう、そうでなければ、本当に
そんな意地ばかり張って、一年という長い時間が過ぎてしまったのだ。
そんな折に『名づけ』に関する話が出て、いよいよレイチェルは苛立ちが抑えられなくなった。
不機嫌さを露わにした顔を向け、レイチェルは非難ありげにアンリを見つめた。いい加減、レイチェルの我慢も限界だったのだ。
「……あー、もしかして気にしてた?
ばつが悪そうに目を逸らしながら、アンリはレイチェルを窺う様にそう言った。
それを聞いてレイチェルは、はぁ、と押し殺したような溜息をついた。
むしろ、なぜ気にしていないなどと思うのだろうか。理解に苦しむ。
「よいのですよ。言いたくないのであれば、別に。悪いのは信頼に足らなかった私の方ですから」
そう言って、ふわり、とわざとらしく儚げに微笑む。
そのレイチェルの笑みを見たアンリは、血の気が引いた顔をして、引き攣った笑みを浮かべた。彼女は後日こう語った。
『――ついに邪神が降臨したのかと思った』
まぁ、強ち間違ってはいないけども。
言外に責め立てるような気配を感じ取ったのか、アンリは両手を顔の前で否定するようにふりつつ、焦りながら口を開いた。
「いや、あの、言いたくなったとかそんなんじゃなくて……。ただ今更自己紹介とか、なんか恥ずかしかったから……。その、ごめん」
心底申し訳なさそうに、アンリはレイチェルに向かって頭を下げた。
深々と下がった艶やかな黒髪を見つめながら、レイチェルは思う。
別にレイチェルは彼女に対し、そこまで深い怒りを抱いているわけでない。ただ少し、気に入らなかったというか、拗ねてしまいたくなっただけだ。
それに自分の一挙一動に、ここまで慌てふためいた反応を示したアンリを見て、わりと溜飲が下がった気がした。レイチェルも大概単純である。
「じゃあ、今度こそ教えてくれますよね? でも、もし断るなら……」
「こ、断るなら?」
「そうですねぇ、一生胸が大きくならない呪いでもかけましょうか」
「うわぁ、えげつない……」
アンリは顔を青くし、若干後ろに下がりながら両手で大きくもない胸を押さえて、ドン引きしたような目をレイチェルに向けた。分かりやすい反応である。
もちろん冗談ではあるが、今のレイチェルであればそれくらいの呪いは可能だった。
この前の大規模な儀式のおかげか、全盛期には及ばないまでも、僅かであれば現世に介入できるくらいには神力が回復してきていたからだ。まぁ、こんなくだらないことで、力を無駄遣いする気はレイチェルにはなかったけれども。
「ふふふ、冗談ですよ」
レイチェルがそう告げると、アンリはあからさまに安堵したようだった。
やりかねない、と思われているのか、それともこの他愛のない掛け合いを楽しんでいるのか。恐らくは両方だろうと、レイチェルは思っている。
えー、目が本気だったんだけど。とぶつくさ言いつつも、アンリは安心したかのように、はー、と大きく息を吐いた。
やれやれ、とでも言いたげに肩を竦めながら、アンリは苦笑した。
「名前、か。改めていうのもアレだけど、私の名前は――」
彼女がそう言いかけた瞬間、コンコン、と部屋にノックの音が響いた。
「魔王様ー? そこにいらしゃいますか? お兄様が火急の用事があるとおっしゃっているのですが……」
扉の外で、フランシスカが申し訳なさそうにそう言った。
アンリは言葉を止めると、どうしようか? とでも言いたげにレイチェルを伺うように見つめてくる。
別に名前を言うくらいならば数秒で終わるだろうが、なんというか、これではムードが台無しである。こんなあわただしい中で名を言われても、この心が満たされるとは、レイチェルには到底思えなかった。
レイチェルとアンリは無言で見つめ合い、先にレイチェルが折れた。
「……また、夜に会いましょうか」
「……そうしようか」
そう言ってアンリは立ち上がると、「ごめん、また後でね」と小さく片手で拝むような仕草をみせ、部屋から出て行った。
◆ ◆ ◆
「――ああ、なんてタイミングの悪い」
小さく手を振ってその背を見送ったレイチェルは、ひどく残念そうな顔をして、そう弱弱しく呟いた。
――せっかく、勇気をだしたのに。
先ほどアンリが言っていた通り、名前とはとても大事なものである。
互いに自分の名を名乗り合うことにより、その瞬間見えない鎖に繋がれる。それが『
上級の神であれば、名を知ることでその存在を意のままに操ることができるらしいが、人からの成り上がりのレイチェルにはあまり関係のない話だ。
知ったとしても、せいぜい夢の中に干渉するくらいが限度だろう。
そんな僅かな繋がりだとしても、縁を結んでおきたいと思うのは、忘れ去られるのが怖いからだ。
神殿で一人、時が過ぎるのをぼんやりと眺めていることしかできなかった数年前の自分。
ひとりぼっちがどんなに寂しくても、苦しくても、辛くても、――邪神に堕ちるわけにはいかなかった。それだけは許されなかった。
それが、レイチェルにできた蛇神に対する唯一の償いだから。
本当は全部わかっていた。蛇神の嘆きも、怨嗟も、何もかも。その紅き血を浴びたとき、全部わかってしまった。
人が掲げる正義なんて、所詮は詭弁に過ぎない。レイチェルはそのことを、悲しいくらい知っていた。
人の為、と大義名分を掲げながら召喚術に干渉したのは、もしかしたらただ寂しかっただけなのかもしれない。
あの機会を逃せば、レイチェルの神殿が日の目を見ることはもうないかもしれない。そうすれば、きっとレイチェル自身のことも忘れ去られていってしまう。そう、あの蛇神のように。
――あの日
誰かと言葉を交わす喜びを知ってしまった自分は、もう孤独であったあの頃には戻れない。
とんだ皮肉である。『救済』の名を冠した自分こそが、――誰よりも救いを求めていたというのだから。
「夜が、たのしみですね」
未だ知らない彼女の名前を夢想しながら、レイチェルは目を閉じる。
ちゃんと教えてくれるのであれば、別に半日くらい伸びても構いやしない。もう一年待ったのだ。いまさらその程度の時間が待てないわけがない。
――だが、レイチェルは後にこの選択を大きく後悔することになる。
◆ ◆ ◆
「――女神様っ!? 何処にいますか!!?」
部屋の外から、そんな大きな声が聞こえてきて、レイチェルはゆっくりと目を開けた。
あの声は、ユーグのものだ。いったいそんなに慌てて、どうしたというのか。
内心首を傾げつつも、レイチェルは部屋の壁を通り抜け、ユーグの元へと向かった。
「ユーグ? どうしたのですか、そんなに大きな声をだして」
横からそう声を掛けると、ユーグは僅かに肩を揺らし、レイチェルのいる方へと視線を向けた。
『見えない』というのはこういう時に厄介である。こちらに驚かすつもりがなくとも、いきなり空虚な場所から声が聞こえれば驚きもするだろう。
「あ、あの、たいへん、大変なんですっ!!」
レイチェルの声のした方を見つめながら、ユーグは息も絶え絶えに言葉を紡ぐ。
「落ち着きなさい。ほら、深呼吸をして……」
レイチェルはできるだけ穏やかに聞こえるようにそう言って、ユーグを宥める。
言葉の続きが気にはなるが、ユーグがこの調子では急かすのはよくないだろう。
「う、うう、魔王様がっ」
ユーグはそう言いながら、苦しそうに胸を押さえて俯く。心なしか声が震えているようにも聞こえた。
こんな焦燥したユーグの姿を見るのは、初めてだった。
――嫌な予感がする。
未だかつてない胸騒ぎに動揺しながらも、レイチェルはユーグをしかと見つめる。
「彼女が、どうかしましたか?」
レイチェルの問いかけに、ゆるゆると泣きそうになった顔を上げながら、ユーグはその言葉を告げた。
「魔王様が、倒れたんですっ……!!」
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