第38話

 7月最終日。

 うだりそうなくらい暑いにもかかわらず、今日は学校中の空気がどこかそわそわとしていた。

 その理由はきっと二つ。

 一つは、明日からみんなが待ちに待った夏休みだから。僕たち一年生からすれば高校初の夏休みだ。心が浮き立ってしまうのも仕方がないだろう。

 かくいう僕も今日は朝からそわそわしている。でも、それは夏休みが楽しみだからではなくて――


「冴島君、結果、出たみたいですよ。見に行きませんか?」


 昼休み、暑さなんて微塵も感じていないような凛としたたたずまいの黒崎さんに声をかけられた。

 そう、これが僕を落ち着かなくさせていたもう一つの方の理由。今日は期末テストの結果が張り出される日なのだ。


 

 試験結果の前は相変わらず人でごった返してはいたものの、そこは流石黒崎さんというべきか。周囲の人が自然と道を開けている。

 ……僕の方を見て道を譲ってくれた人もいたような気がしたが、それはきっと見間違いだろう。全部黒崎さん効果に違いない。いやー流石だね黒崎さん!

 とまあそんなこんなで順位表の前にあっさりとたどり着くことができた。黒崎さんのオーラにのまれているのか、周りの人たちも妙に静かだ。

 心臓をドキドキさせながら、下から順に順位表を確認していく。


 5位、4位、3位、ここまで確認していったん順位表から視線を外した。

 

 ここまで、自分の名前は出ていない。もちろん黒崎さんの名前もだ。

 順位表にすら乗らないような成績を取ったつもりはないので、僕か彼女のどちらかが一位で二位なのだろう。

 大きく息を吐く。意を決して、視界に入れないようにしていた1位の名前を確認してみるとそこには――



 1位 冴島蒼真 783点

 


 僕の名前があった。


「よっし!!」


 思わずガッツポーズをしてしまう。周りの人たちが驚いているような気もしたけれど、今の僕には気にならなかった。


「1点差……ですか」


 喜びに震える僕の隣から聞こえてきた小さな呟き。悔しさを存分に滲ませてなお美しいその声の持ち主は言うまでもない。 


 2位 黒崎花音 782点


「おお、ギリギリ……」

「今回は勝てると思ったんですけどね」

「実際かなり危なかった……。でも、一応僕の勝ちだね」

「一応ではなく冴島君の勝ちですよ。はあ、とても悔しいです」


 そういってこちらを睨んでくる黒崎さん。あなたがそんなことをしても可愛いだけなんですよ。

 そんな黒崎さんを見ていると、ようやく一位を守れたという実感が湧いてきた。 


「こ、今回は絶対に負けたくなかったからよかったあ」

「冴島君の方から宣戦布告してきたくらいですもんね」

「あんだけ啖呵きっておいて負けたら恥ずかしいどころの騒ぎじゃなかったよ……」

「それならあんなことしなければよかったのに」

「まあアレは僕なりの気合を入れるための儀式だったというか決意表明だったというか自分と状況に酔っていたというか……」


 僕の何個目かもわからない黒歴史なんです。そっとしておいてあげてください……。


「よくわかりませんけど、私は冴島君が宣戦布告してくれたおかげで一層やる気が出ましたよ。絶対負かして吠え面かかせてやろうって」

「前々から思ってたけど、黒崎さんて結構いい性格してるよね」

「あら、褒めても何も出ませんよ?」

「そういうところなんだよなあ……。あ、それじゃあ僕は用事があるのでこの辺で」

「用事?」


「ちょっと後輩のところにね」



 

 7月最終日。

 張り出されたテスト結果を眺めながら、私は憂鬱な気持ちになっていた。

 テストの結果が悪かったわけじゃない。むしろかなり良かった方だ。

 それなのに気分が沈んだままなのは、今頃高校の方でもテスト結果が張り出されているんだろうと考えてしまったから。

 冴島先輩のテスト結果はどうだったのだろう。そんなことばかり悶々と考えていると、横から声をかけられた。


「……あの、白石さん。白石さんのことを呼んでほしいって人がいるんだけど……」


 声をかけてきたのは一年前にひと悶着あった女の子。気まずいのがありありと伝わってくる。

 とはいえそんなのはいつものことなので特に気にすることもなく、その女子が示した先に視線を向けてみるとそこには――


「冴島先輩!?」


 私の思考を占領し続けているその人が立っていた。



「一体、どうしたんですか。急に私の教室に来たりなんかして」


 非常に目立っていた先輩を人気のない場所へ連行したのち、一体何事かと尋ねてみる。……まあ用件は予想がついてるんだけど。


「あはは、白石さんの成績がどうしても気になったから」


 まあ、そうだよね。

 大事な時間を費やした後輩が何の成果もありませんでしたじゃ、先輩もやるせないもんね。


「……32位でした」

「おおっ!すごいじゃんね!確か前回のテストって90位前後だったんでしょ?」

「そう、ですね。だから大躍進です」

「って、割にはあんまり嬉しそうじゃないね?」


 嬉しそうじゃないって?そんなの当然だ。私の成績が上がったことなんて当たり前のことだ。

 あれだけ先輩の時間を奪っておいて、心を砕いてもらって、結果がついてこないなんてありえない。

 私の成績が上がるのなんてはなからわかりきっていたことで、取り立てて騒ぐようなことじゃないのだ。

 だから、私が気になっているのは――


「その、先輩は今回のテストの結果……どうだったんですか……?」


 私がここ数日ずっと知りたくて、知りたくなかったこと。

 ここまで来て逃げるわけにはいかないと、動悸を加速させながらそれを尋ねた。

 それに対する先輩の答えは――


「その、白石さん的には凹んじゃうかもしれないけど、それでもいいかな?実は――」


 申し訳なさそうにそんな前置きをしてくる先輩。

 ああ、その言葉で、表情で、私はこの後に続く答えが予想できてしまう。

 わかっていたことだ。あれだけ先輩の勉強の邪魔をして、こうなることは当然のことじゃないか。

 当初の目的は達成されたはずだ。花音先輩を一位に返り咲かせるために、冴島先輩の勉強の邪魔をして首席の座から引きずり下ろす。

 勢いに任せた私の計画は、その杜撰さに反して成功を収めたらしい。それなのにこんなにも胸が苦しいのはきっと、私が冴島先輩のことを既に花音先輩に負けないくらい――


「――僕、今回も一位だったんだよね」


 ――尊敬しているから……って、え?

 今、先輩は何を言った?

 私の聞き間違えじゃなければ一位とか言わなかったか。


「あの、先輩。もう一度聞かせてほしいんですけど、今回のテスト何位だったんですか?」

「一位だよ」

「先輩、私に気を遣わなくてもいいんです。本当のことを言ってください」

「いや、本当に一位だったんだけど……」


 困ったような顔をする先輩。なるほど、なるほど……。


「え、なんでですか?」


 思わず真顔で尋ねてしまった。感情が限界まで渋滞していて、逆にフラットな感じになってしまっている。


「いや、なんでがなんで?」


 首をかしげる先輩。なんでってそれは……


「あれだけ私が先輩の邪魔をしちゃったのに、なんで一位が取れたのかって話です。一か月もの間バカな後輩のために無駄な時間を費やしていた人が勝てるほど、花音先輩は甘い相手じゃないでしょう」


 冴島先輩の頭がいいのは知っている。その頭の良さは膨大な努力によって裏打ちされたものであるということも知っている。

 でもそれと同じくらい、花音先輩がすごい人だって言うのも私は知っているのだ。


「まあ黒崎さんが簡単に勝てるような相手じゃないっていうのには完全に同意するんだけどさ。白石さんに費やした時間が無駄ってことは絶対ないって。むしろ白石さんと過ごしたおかげで今回僕は一位が取れたんだよ」

「どういう、ことですか……?」


 私のせいならともかく、私のおかげなんてことあるはずがないじゃないか。


「学習の定着度ってさ、勉強してる時のメンタルによって結構変わってくるものだと思うんだよね」

「それは、そうかもしれませんね」


 目標があってそれに向けて勉強している人と、やる意味も感じずいやいや勉強をしている人。同じ勉強をしていたとしても、前者の方が成績は良くなるに違いない。


「僕の場合は根を詰めすぎだったというか、半ば強迫観念に駆られる形で今まで勉強してたからさ。無理をしすぎて効率が悪化するレベルだったみたい」


 以前先輩が話していた休日の過ごし方を思い出す。先輩が根を詰めすぎというのはその通りかも。


「そんな中で、白石さんと一緒に勉強したりメッセージのやり取りをする時間は僕にとっていい息抜きになってさ。確かに勉強する時間は減ったんだけど、以前より勉強が頭に入ってきやすくなったってわけ」

「なる、ほど……」


 ひたすら頑張り続けるより、適度に休憩を取りながらの方が効率がいいというのは、なんとなくイメージできる。

 でも、それだけで冴島先輩が花音先輩に勝てたというのはあまりに都合がよくて、すんなりと信じられない自分がいる。

 そんな私の様子を見てか、先輩はさらに言葉を重ねてきた。


「他にも理由はあってさ、白石さんに勉強を教えることが自分の勉強になったっていうのも大きいと思うよ。人に教えるのが一番の勉強法なんてよく聞くけど、あながち間違いじゃないみたい」

「私の試験範囲と先輩の試験範囲は全く別物じゃないですか。私に教えることが、先輩のテストの役に立ったとは思えませんけど」

「そんなことはないよ。学校の勉強って全然違う範囲に見えても地続きなことが多いしね。あとはほら、ここ一か月わかりやすい教え方とか覚え方とかをずっと考えてきたのもよかったみたいでさ。勉強のコツが掴めたというかというか、要領がよくなったっていうのもあるかな」

「そう、なんですか」


 本当だろうか。先輩にとって私は、100%邪魔な存在というわけではなかったのだろうか。

 先輩が言うことが嘘じゃなかったとしても、その実相当な無理をしていたんじゃないだろうか。

 考えがうまくまとまらずぼんやりとした相槌しか打てなくなっている私に対して、先輩は笑いながら言った。


「つまりだよ!僕は今までにないほど充実した時間を過ごせたうえに、学年首席の座を守ることができたわけですよ!失ったものなんて一つもなくて、それどころか得たものばかりで。白石さん的にも成績が上がったわけだし、お互いwin-winな時間になったんじゃないかなーって思うわけでして。だから、その、白石さんと一緒に一か月過ごせて心からよかったと思ってるというか……。なので、あの、負い目を感じる必要なんてほんとにどこにもないからね……?」


 前半妙に勢いがあるのも、変に敬語が混ざっているのも、後半しどろもどろになっているのも、きっと気恥ずかしいからなんだろう。それを裏付けるように、冴島先輩の顔はうっすら赤くなっている。

 先輩が気恥ずかしさを感じている理由はきっと、先輩のその言葉が嘘偽りない本音だから。なんて考えは、私の願望が混ざりすぎだろうか。


 勉強会を当初の予定通りやりきったのも、私にテストで全力を尽くすよう言ったのも、……テストで一位を取ったのも。全部、全て終わった後に心にしこりを残さないためだったんだろう。

 私が先輩を振り回した一か月間。後悔するようなことはなかったし、しなくてもいいんだと伝えるために、この先輩はわざわざ私の教室までやってきたらしい。

 

 先輩の顔を改めて見る。照れくさそうに笑うその表情からは、最初抱いていた冷たそうという印象は微塵も感じられない。

 何がいいのかわからない、怖いとさえ思っていたその顔も今はなんだか魅力的に見えて……いや、違うでしょ私。今考えるべきはそうじゃないでしょ。

 私が今考えなきゃいけないことは、先輩に伝えなくちゃいけないことは――


「ありがとうございます、先輩。私も先輩と一緒に過ごせて本当によかったですっ」

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