老陽

@vazakn

序/1

見開かれた目蓋の端から止め処なく溢れるものは、きっと涙ではないのだろう。


雨が降る。


胸に刃が刺さったままの死体が無常の冷たさで凍てついてゆく。


頭の穴から赤い筋が伸びる。


足元に転がる話さなくなった物体が今まで奪ってきた笑顔を数えてみたが、コップいっぱいに入った小さな葡萄の数を優に超えている。


誰かの悲しみがこれ以上増えないのは利点だが、もう少し生かしておけば苦しみをさらに与えられたかもしれない。


赤い筋が細くなる。


肩に落ちる粒は増えた。

今頃は手足も、首も、胸もどこもかしこも冷たいのだろう。


それを伝える神経がまだ生きていれば。


「あなたのくれた小さな葡萄。今でも覚えています。甘くて瑞々しくてとても美味しかった」


垂れ下がっていた手をこめかみの辺りへ擡げる。目的は達成された。

もう此処に居る意味はない。


銃声がまた響く。


この日は晴れの予報だった。



◆◆◆



「禊さんて、ラーメンばかり食べてるでしょ?私も今度連れて行ってくださいね」


昼食休憩のこと。珍しく後輩に話しかけられた。

優しい香りとそれだけ言い残し、姿が見えなくなってしまった。


彼女は明るくて溌剌とした人気者である。

同僚にも人気が高い。

噂ではファンクラブが大学時代に存在していたらしく、女性の方が夢中になっていたとかお弁当は日替わりでファンクラブの会員が担当し、毎回嬉しそうに食べていただとか、振る舞いで気絶した者がいただとか。


見かけた際には人ならざる表情をしていたこともあった。


遠い世界の人のようで、近くにいるのがまだ腑に落ちない。


意外だ、彼氏と別れたと聞いたが…失恋で数十日は落ち込むもんじゃないのか?


現代っ子は切り替えが速いが繊細で複雑で掴み所がないという。

仲のよい高橋が言っていた。

噂の出処も高橋その人である。


あの時に詳しく聞いておけばよかった。

見掛けとは違い、内面では悩みを抱えているのかもしれない。

地に足の付いた人生を歩んできたと自慢できる程でもないが数年先にこの世に生まれた先輩としてこの試練に誠実に対応しなければ。


ガラスでできているハートを砕いてしまっては一大事だ。


若い時分は思い詰めてしまい、その先に続くものは見えずここがクライマックス、終着点だと一人で決めてしまい、とんでもない藪道に足を踏み入れてしまうことだってある。


誰かの軽い一言が、チクチクといつまでも‥悪ければ事あるごとに思い出してしまい苛まれることだってあるのだ。


一言が未来を左右してしまうことだってある。


身に覚えがある。


胸が痛む気がする。


朝の寝ぼけ眼で慌ただしく作った掌に収まりきらないおにぎりが途端に味気なくなる。


そういえば咀嚼していないな。


強く握りしめていたのか、砂時計の形の白い塊と化している。


海苔くらい巻けばよかった。






  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る