現実逃避

@caramelu

第1話 夏から秋へ

 今日だけで何回目のため息だろう。俺はよそから見ればよく聞く「無気力な若者」かもしれない。それについて否定できないし、否定する気もない。これこそ、本物の無気力なのかもしれないと頭は少しだけ思考している。でも自分が望むようには頭は働いてくれない。ずっと自分の中にある形容し難いモヤモヤを解消する方法は見つからないまま、何年も過ぎた。そんなせいで20代前半までは妙にいらいらしていたが、徐々に感情の整理もできるようになった。少しは大人になったということだろうか。


「年齢を重ねるのも別に悪くないよな」

 

 誰も周りにいないことを確認して、あえて口に出してみた。今日は殆ど声を出していなかったせいか変な声が出た。止まっていた手を動かして作りかけの業務マニュアルを仕上げていく。


「伊藤君、どう?終わりそう?」


 煙草休憩から戻ってきた6つ歳上の山元がカップコーヒーを片手に席に着く。はい、と応えながら内心では別にやる必要のない仕事だろ、と毒づく。休憩から戻ってきて直ぐにPC越しにアクビをする山元を見て、また微かなモヤモヤが胸に広がる。


 智が働く会社に来週から派遣社員がくることになっており、智は山元に業務マニュアルを作っておいて、と頼まれたが既に業務マニュアルはある。新しい業務マニュアルの作成は暇を持て余している智に仕事を与えるための口実にすぎない。そして智も当然、理解しているので新人時代に貰ったマニュアルを自分流にアレンジして、わざと時間をかけてちまちまと作業を進める。


「次の派遣さん、40歳で俺より歳上だから少し不安なんだよね。自分より歳上の人に教えるのって気を使うんだよね。」


「それなら自分も一緒ですよ。一回りも歳上ですよ。」


「いやいや、歳が近いほうがかえってやりづらいもんだよ。」


「まぁたしかに、それは何となく分かりますね。」



 学生時代に深夜のコンビニでアルバイトをしてた智は、父親と同世代のサラリーマンや歳の近いフリーターの新人教育を店長から任されていた過去がある。二回りも歳が離れていれば教育するのが自分でも、相手の方が目上だと割りきれるが、同世代といっても間違いではない、贔屓目にみてもやる気があるようには見えない歳上の新人に仕事を教えるのは変に気を遣ったことを思い出す。


 その後も終業時刻までたっぷりと時間をかけて、不必要なまでに細部にこだわりマニュアルを完成させた。


仕方ない。彼らには仕事がないのだ。


「あぁー‥」


これで何回目のため息だ?仕事内容のせいもあるだろうが適材適所、この仕事なのは自分がそういう人間だからだろうな、とボンヤリ考えているときに終業のチャイムが聴こえてきた。


 試合終了のゴングを聞いたボクサーってこんな感じかな。いや、絶対に違うなと自問自答が止まらない。




その日、俺たちは地元にできた割と新しいカフェでお茶をしていた。



「辞めない方がいいだろ。」


十中八九そう言われると予想していたが、やはり当たった。


「辞めてどうすんだよ?なにかやりたい事でも具体的にあるのか?」


祐介は大人だ。こういうセリフの中にもしっかりと「具体的」という言葉を忘れない。中高生の頃は、祐介のほうが自分より子どもだと思っていたが、大学へ進学せずに先に社会人となった祐介は、いつの間にか立派な大人になっていると感じる。



「具体的にって言うわけじゃないけど‥。今は毎日毎日、室内にこもってパソコンに向き合ってるだけで、これといった仕事もないから暇疲れが酷いんだよ。コンビニでバイトしてた時の方がよっぽど人の役に立ててたと思うんだよ。実際のところそうだしな。」


「なに?またコンビニで働きたいって訳じゃないだろ」 


「それは違うよ。ただやりがいっていうか、そういうのがないと人はダメになる気がするんだよ。ただ食っていくために仕方ないからって、この先もずっと続けられる気もしないしな。」



「みんな、そんなもんじゃないのか?仕事が楽しいなんて思いながらやってる人なんて極稀だよ。それでも家族がいたら簡単には辞められないし我慢してやってるもんだよ。今のご時世そんな簡単に仕事も決まらないだろうし、もう一回考えてみろよ。それでもどうしてもって、思うなら否定はしないけどさ。智の人生だしな。」


ほんとうに大人だな、と心の中で呟く。


「まぁいいや。とりあえずこの話は置いといてさ、もうすぐだろ?赤ちゃん」



「あぁ。嫁さんの腹もずいぶん大きくなったしな。来月には俺も人の父親になるんだぜ?すごくね?」



「そうだな。俺も不思議な感じだよ。同級生で結婚して子どもがいるのは何人かいるけど、仲の良い友達で子どもいるのは祐介が初めてだからな。いや、しかし父親かぁ。


「そうだよ、父親だぜ?智も早く結婚して子ども作っちゃえよ。歳いってからの子どもは大変だぞ。」


「俺はいま彼女も居ないんだぞ。子どもなんて気が早過ぎるって」


「前の彼女と別れてもう4年くらいだろ?なんで彼女作らないんだよ。見た目悪くないんだし、その気になればすぐ彼女くらいできるだろ」



「どうだろうね。自信がない訳じゃないけど、昔からあんまり興味湧かないんだよ。興味って、自分でどうこうできるわけじゃないし。」


「いっても俺たち28歳だしな?あまり言ってると本当に婚期逃しちゃうぜ。」


「それでも別に良いよ。結婚したくないわけじゃないけど、したいわけでもないしな。兄貴が子どもいるし、孫を見せろとも言われないしな、多分」


「よくわからないけど、孫がみたいっていうより智の子どもが見たいって話じゃないの?よくわからないけど。」


「そんなもんかな?俺にも今はまだ分からないな。」


「ま、来月産まれたら連絡するから見にこいよ。産まれたての赤ちゃんを見たらコロっと気持ち変わるかもしれないしな。」


 それから少しして解散した後、智は一人暮らしの1LDKのアパートへの帰路についた。


 外はまだ18時前だというのに、既に暗がり始めている。夏が終わりかけ、秋が少しだけ顔を覗かせはじめているこの時季が智は一年を通して一番好きだった。

 夕方になると残暑どころか、肌寒さすら感じるこの時季、智はあえて窓を全開にして秋を感じたくなる。 

 うっすらとした暗がりの中で、何の香りかは分からないが秋の香りがするのだ。

 

 ただこの日、それは何故か無性に心を切なくさせ、ただでさえ荒れる言葉では表現することのできない智の感情を逆撫でする。


 

その日、智は生まれて初めてスピード違反により減点と罰金刑にあった。












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