げんだい風 かいきとげんそうのぼうけん物語

マ・ロニ

記録ファイル№1 クトゥルフの眷属にまつわる事件簿

第一話 新藤新の叫び

 さて、可哀想なことだが、「新道 新しんどう あらた(二五歳)男」が培ってきた現代世界における一般常識的な世界観は、この日を境に大きく崩れてしまうことになった。




「仕事、行きたくねえなあ……」


 十二月初冬の朝、起きて早々脳裏に浮かんだのは非常にネガティブな感想である。青い月曜の午前六時三十分。

 そうは思いながらものろのろと着替えて、いそいそ身支度を済ませて、家を出る頃には、気持ちを切り替えつつ、アパートの駐車場に停めてある通勤用の自家用車へと向かう。公的機関が発達していない田舎には必需品の我が移動手段。

 代わり映えのない、いつもの日常生活が始まると思っていたものの、今日は違っていた。見知らぬ、民族衣装を意識した様なファンタジックなコスプレ(露出は控えめ)をした可愛らしい少女が、いつの間にかマイカーの前に立ちはだかり俺に向かってこう言い放った。


「夢世界法違反者としてあなたを強制送還させてもらうわ」


(厨二病な奴、始めて見た)


 正直な感想である。


 まあ、付き合う謂われもないので悪いが(愛想笑いを含めながらも)無視を決め込み、マイカーに乗ろうとする。


「無視する気ね。じゃあ、無理矢理にといっても、始めからそのつもりだけどね」


(重病だな、こりゃ。医者に診てもらった方がいいんじゃあないのか)


 とか思っているうちに、一瞬で腕を掴まれ、瞬く間に胸の前で腕があり得ない形状にひん曲がり、みるみるうちに二重の固結びにされてしまった。


「お、お、おおおおいなんじゃいこりゃああ」


 突然のことに考えもせず、慌てて、元に戻そうとするが


「動かすと本当の意味で元に戻るし、元に戻らなくもなるからやめた方がいいわ」


 と言われたためピクリとも動くのをやめた。


(い、意味はわからんが、た、確かに、い、痛くはない。な、なぜだ。おかしい。夢か、そうか俺はまだ寝ているのだ)


「じゃ、まあ、そんなところであなたの元居た世界に戻りましょう」


 こちらに向かって元気よく言いながら、少女は肩から提げたポーチからカードを取り出して、目の前の何もないところに差し込むと、カードはなぜか何もないのに吸い込まれ、手元に戻る。その後すぐに玄関ドア程度の大きさの、形状しがたいが、少し懐かしい雰囲気の空間が目の前に現れる。


「ハ、ハ、ハ、ハ、夢か、夢だ、夢だ」


 目の前で起こった信じられない光景を受け入れることはできずに、乾いた笑いをしながら思わず出た言葉を少女は聞き逃すことはなく


「まだ、しらを切ろうとするのアンタ。夢世界と現世界を行き来した形跡があることは今じゃすぐわかることぐらい知っているでしょう。そら、入った、入った」


 少女はあきれ顔で言いながら、形状しがたい空間へ俺を無理矢理押し込んだ。




 恐怖で目をつぶってしまったため入った瞬間のことは覚えていないが、すぐに喧噪が聞こえてきた(夢から覚めた)と思い目を開けると、非常に残念なことに見知らぬ世界が広がっていた。


 街並みは、中東方面のような雰囲気の中低層の建物が建ち並ぶ、道の舗装は何の素材かは分からないが綺麗な感じだ。

 しかし、行き交う人々の半数以上は二足歩行のカエルのような半魚人、ウサギのように耳の長い二等身の毛玉みたいな生き物、三角錐みたいな形でカニのようなハサミをした腕が生えているなにか。そのほか諸々あきらかにヒト型以外の生物が闊歩している。現実世界ではないどこかであることは明らかな事実。


(おかしくなる。おかしくなる。いや、もうおかしいのか)


「はい、おかえりなさい。アンタのいた世界に戻ったわよ」


 少女は大きな声で笑いながらこちらに声を掛けてくる。


「違う! 俺はこんな世界に来たことはない!」


 謂れのないことを言われたことに、思わず腹が立ち、少女に向かって怒鳴ってしまう。通行する人々(らしき者)が変な視線を送る。少女は下を向き、ハァと軽くため息をつき、可哀想な人を見るような目をこちらに向けてから


「まあ、不法渡界者は執行猶予のつかない即実刑か罰金刑だから、あきらめが悪くなるのもわかるけど、いい加減にしておいた方がいいわよ。みっともないから」


 と、ポーチからスマホのような物を取り出し、手際良く操作をしてから、こちらに見せつける。


「本当の氏名、賞金額は不明だけど、ほら、ここに、現世界と夢世界の行き来が複数ありって、記されているでしょ。これね、管理局認定の賞金稼ぎなら誰でも持っている、夢世界人探知機を兼ねているのよ。

 もし、アンタが現世界人ならここには絶対に『夢世界』なんて言葉は出てこないの。残念だけどこれ、正式な証拠として採用されるから言い訳無用で問答無用。間違いなしってこと。さあ、きりきり歩けこの犯罪者!」


 面倒になったのか、情け容赦なく尻に蹴りをいれてくる少女


「う、嘘だ! 俺はそんな文字見たこともないぞ! それに、賞金稼ぎ専用『夢世界犯罪履歴ファイル』なんて題名は信じないぞ!」


「ハイハイ、夢世界のソフトのタイトルしっかり読めているでしょ。それだけわかれば、十分こっちの人間ということで十分通用するわよ」


「あれ、そういやどうして字が読めた」


 一瞬我に返り、周囲を見渡すと街並みの所々にある看板や店先のメニュー板、行き交う人々の会話も理解できている。これは、おかしい。


「それにね、そもそもあたしは始めから現世界の言語でアンタに話しかけていないの。会話が成立している段階でアンタは真っ黒なの」


 連れてこられた先は、なんとはなしにいわゆる警察署のような所だとわかってしまう。しかも、良からぬことをしでかした人達が入れられる、留置所の手前っぽいところ。

 一般市民が相談に来ている雰囲気ではない。カウンターで手続きをしている連中と、捕まってしょぼくれているか、ふてくされている奴ら。こちらは犯罪者なのであろう。手続きが終わり帽子を被った役人風の警察官のような人から封筒と引き替えに罪人の引き渡しが成立している。

 罪人たちは紐がついた手錠、手がない奴には首輪をつけられて、そのまま奥へと引きつられていく。一人一人のやりとりはかなり早い。ほとんどの連中が、手帳の該当ページを見せた段階で書類が出されサインをすれば終了といった感じだ。

 時々、多額の賞金首が捕まったのか多少ざわつくこともある。しかし、反応からいうと大騒ぎというレベルでもないようだ。

 さて、粛々と進められていれば、とっくにお縄になって奥に連れていかれてもおかしくないはずの時間はあったが、周囲の様子をのんびりとうかがう事ができているのは、少女がカウンター越しで、ナメクジに歯と口がついた受付担当と大いにもめているからである。


「バッカなこと言ってないで、サッサと賞金を渡しなさいよ! 本名不明、賞金額不明なんて前代未聞のはずよ! きっと未解決事件の長期逃亡犯罪者の可能性が高いからよ! そもそも現世界人が夢世界に複数回も行き来できるはずないでしょ!」


 どうやら、手帳で本名、賞金額共に不明であったことが、だいぶ署内で問題視されているようである。


「だあかあらあ、さあきいかあらあなあんべえんも言っているでしょう。犯罪履歴ファイルに登録さあれえてえいるう違反・犯罪者漏れはありいえなあいたあめ、現在、履歴登録管理部門総出で記録のチェックをしいてえいまあすと」


 ナメクジらしく所々で間延びしたしゃべり方をする受付に少女はさらにイライラしているようで、舌打ちをして


(ったく、ツァトゥグァ系種族は、しゃべりがとろいから余計いらいらするのよ)


 と小声で囁き悪態を付く。そして、ジト目で捕まえた俺を睨むと臑を軽く蹴りながら


(これで、入力ミスで安物賞金首でした、だったらただじゃすまないわ)


 とぶつぶつと、独りで言ちている。


 蹴られた臑の痛みを我慢しつつ無視をしている間に、ナメクジ役人の後ろには別の役人が来てヒソヒソと耳打ちを始めている。いやな感じだ。その様子をみて少女は得意げな顔をし始める。


「フフン、どうやら結果が出たみたいね。その様子だと相当にヤバイ奴だったんじゃないのかしら、コ・レ・ハ!」


(マジかよ、本当に逮捕されちまうのか俺は)


 と考えているうちに、周囲を役人が取り囲み、今までにない緊張感、まるで凶悪な犯罪者を逮捕する瞬間のような雰囲気が周囲に立ちこめる。

 他の賞金稼ぎや捕縛者達もこの状況に気づき、固唾を飲んで見守っている。そして、少女は俺に向けて指を指し、キリッとした顔つきで


「さあ、年貢の納め時よ! 自分の犯した大いなる罪を償うときがきたのよ!」


 と高らかに声を上げると同時に


「賞金稼ぎチウ・リウム、現世界人不法連行現行犯のため、現時点をもって逮捕」


 言うが早いか廻りを取り囲んだ役人らしき生き物達が、俺を指していた少女の右手に手錠のような物を嵌め、更に左腕ごと胴に回した縄のようなもので一瞬にしてぐるぐる巻きにしてしまう。呆気にとられている俺と呆然としている少女をよそに


「尚、過失捕縛された、新道 新氏は、間違いなく現世界人であると統合管理局渡界管理部より連絡があり、当人の身元を再確認の上で、現世界へ丁重に送還するよう通達を受けております」


「うー、うー、うーそーよー、夢よ、そう夢ね、夢なのよ!」


「捕まった連中は同じ事を言う。起きてみる夢はない。そら、きりきり歩け!」


 先ほどまでとは、まるっきり立場が逆となり、周囲を屈強そうな樽型生物達に取り囲まれた少女はわめきながら、奥へと連行されていく。俺自身は少女に結ばれた腕を他の役人の方々から慎重にほどかれて、ようやく元の姿に戻ることができた。

 周囲はざわついている「おい、現世界人を連れてきたのかよ」とか「夢世界にいるの始めて見た」とか「ダゴン術マスターが逮捕かよ」とかいろいろと聞こえてくる。


 そうこうしているうちに、少女の対応をしていたナメクジ役人が


「申し訳ありませんがあ、こちらへご同行をお願いしまあす」


 と丁重に少女が連れていかれた方角とは別の奥へと案内をしてくれた。




 身元再確認のために連れていかれた窓の付いた部屋――多分取調室――で、街で見かけた三角錐みたいな生物(近くで見ると2m以上あった)からジーとみられた後に


「今回の件に関しましては完全に当局の失態であります。ご容赦くださいますようお願いいたします」

 

 と、深々と頭を下げられてしまった。一体全体、どうなっているのだ。


 三角錐が謝罪した後、空間にカードを差し込むとこの世界に来た時と同じようなドアを切り抜いた空間が再び現れ安堵の色で足を踏み出そうとすると


「奥で統合管理局長がお待ちです。今回の件について謝罪と説明をなさりたいとのことです。」


 と言われるので、露骨に厭そうな顔がでてしまったのだろう


「申し訳ございませんが、今少しお時間を下さい。」


 雰囲気からも、本当に申し訳なさそうにでかい体を縮込ませているので悪いことしたなあと思いつつ


「ま、まあ、ここまで来たのですから、偉いヒトに挨拶させてもらいますよ」


 と三角錐に声を掛けて金色に輝く空間に足を踏み入れた。




 踏み入れた先は、眺望の開けた広い一室、しかし、照明が付いていないためどことなく薄暗い。そこに設えられた高級そうな、ガラスのように透明だが、すこぶるゴツイ大きめのデスクの脇に誰かが立っている。その人はこちらに向かって


「新道 新様、此度は夢世界の住人におけるご無礼、大変申し訳ありませんでした。」


 謝罪の弁を述べると流れるような仕草で頭を下げる。声からして女性だと分かる。


「い、いや、誤解は解けたのですから、そんなに頭を下げないでください。あとは無事帰れば……」


 と言いつつ脳裏にふと疑問が浮かぶ


(こんな世界に来て無事返してもらえるのか)


「新道様、此度の一件について説明をさせて頂きます。少々、長くなりますのでこちらにお掛けください」


 と、部屋の一角に備えられた応接イス的なところを向けられた。


「座った瞬間に、何かされると言うことはないでしょうねえ」


 と、思わず口から出た失礼な疑問に一瞬間を置いて


「そのようなことはありませんから、ご安心を」


 と、柔和な雰囲気で微笑むように答えてくれた。




「私は、夢世界「ドリームランド」の統合管理局局長を務めさせています、ニャルラトテップと申します。以後お見知りおきを」


 俺の前の席に座った、どこかで聞いたことがあるような「ニャルラトテップ」という珍しい名前の女性は、銀髪ロングヘアーのすらりとしながらも出るとこは出ている美脚の美女であった。

 ニャルラトテップは胸元のポケットから名刺入れを取り出し、きれいな指で黄金色の名刺をこちらに差し出した。

 なぜ読めるかはいまだに不明だがこちらの文字で『統合管理局長 ニャルラトテップ』と記載された黄金色の名刺を眺めていると耳を疑う説明を始めた


「今回の一件は、統合管理局渡界管理部と外界交流調整課において、無意識化夢世界留学経験者である新道様の渡界履歴及び許可認定が抹消されかつ犯罪履歴ファイルに登録までされているという、ありえないようなミスで……」


「ちょ、ま、待って下さい、今、おかしな事をおっしゃいませんでした?」


 小首をかしげたニャルラトテプに


「いや、可愛い顔で怪訝な顔されても困るのですけど、俺、こんな世界来た事ありませんよ! なんですか、留学経験者って、言うのは!」


 目をパチクリさせ、ああ忘れていたという感じの顔をして


「ああ、記憶操作をされていたのでその辺のことは覚えてらっしゃらないのですね。新道様は夢世界と現世界交流プロジェクトの実験ケースとして、幼少の頃から夜間の睡眠の間に夢世界へと留学の経験をされていたのですよ。現世界の大学卒業までですけど。御本人の許可も得ていませんでしたが」


 すごいことをあっさりと言う。


「それ、十分に犯罪なのでは」


「いえ、現世界の法はこちらでは適応されませんし、統合管理局内の必要部署間での許可申請はすべて終えていますから全く問題はございません」


(俺の意思確認はねえのかよ!)


 と叫びたいところをグッと我慢し堪え、一拍おいてから続けて質問をする。


「こちらから言いたいことは、多々ありますが、話がまとまらなくなりそうなので、とりあえず説明を続けてください」


「そう仰ってくださると助かります」


 ニコニコと笑いながらニャルラトテップは説明を続ける。


「現世界において夢世界の存在を認知している方は極わずかで、基本的に自由に行き来するには夢世界からの認可が必要です。ごく希にですが、次元の裂け目や無意識化深層域からこちらに来てしまう方もいらっしゃいますが……」


「だけど、ゆめ? 世界のヒト達は俺達の世界に自由に来ているみたいですけど」


「問題はそこなのです。」


 キリとした顔をこちらに近づけ離した後、コホンと咳払いをし


「現世界において1900年頃となりますが、夢世界で現世界への交流について議論が始まりました。ああ、はた迷惑なことと思わないでくださいね。その頃に、現世界ブームが起きて諸国民から強い要望が上がりやむを得なかったのです。ブームのきっかけは現世界を舞台にした冒険絵本――著者は現世界から迷い込んだ一人の少年、名はハワード・フィリップ・ラブクラフト」


「ああ、クトゥルフ神話! そうか、ニャルラトテップ『這い寄る混沌』だ!」


 思わず叫んでしまった。どおりで聞いたことがあると思った。しかし、ニャルラトテプ自身は少し困った顔をして


「這い寄る混沌に関してはラブクラフトが勝手に付けた名称なのです。あの人、記憶操作したにも関わらず何故か夢世界の情報断片が変な形で残っていたようで」


「へ、じゃあクトゥルフ神話は実体験を元にしたってことですか」


「まあ、だいぶ誤解を与える内容になっていますけど。彼、6歳位でしたから夢世界での怖い印象がトラウマとして残っていたのかしら?」


 そりゃ、6歳で、この夢世界の住人を見ればトラウマとして残るだろう。


「夜な夜な連れ出していたナイトゴーンから彼を引き離すまで2年位かかりましたけ。その間に彼は絵物語を書いていたのです。なぜかこちらが知らぬ間に巷へと出回って、気づいてみれば現世界文化に憧れを抱く連中が増えること、増えること」


 段々、なれなれしくなってないかニャルラトテップ。

「でも何故、ナイトゴーンはラブクラフト氏を連れ出していたのですか」


「亡くなった子供に面影が似ていたそうですよ。彼女、子供を亡くして少し錯乱していて現世界まで子供を探そうとさまよったみたいです。」


 ここだけ聞くと、すごく悲しい話になりそうだが、


「だけど、人とナイトゴーンが似ていますか。ああ、誤った情報でしたっけ」


「それが、各種族の風貌に関してはそれほど誤った情報ではないのですよ」


 なおさら不可解だろ。ドンだけ錯乱していたナイトゴーン。


「で、結果として交流を始めようと決まったわけですか」


「まあ、段階的に許可を受けた者達だけを密かに送って行きました。もちろん、変装や変形・変体はしています。更に準備を進めるため、現世界の住人達と本格的な交流ができる足掛かりとなる人物を養成しておこうと」


「本人に無許可ながらも、留学体験をさせたと」


「本当にごく一部。ほんの数人程度」


 テヘと笑いながら、答えるニャルラトテップ。誤魔化されてはいけないが可愛い。


「しかし、幾つかの問題もあり、交流制度自体の見直し、特に留学生制度は貴方を最後にして、中断となっています」


「ああわかった、現世界で悪さをする連中が出てきたのでしょう。人身売買や、快楽殺人とか、おぞましい事をする連中がいるのですか」


 こちらが想像する恐ろしい見た目の生き物たちが、人間を襲い、血をすすり、肉をむさぼる、人体実験を繰り返すような光景が脳裏に浮かぶも、キョトンとした顔のニャルラトテップは

「そんなことする人はいませんよ。意味ありませんし」


 と、意外な返答をする。


「残念ですが、夢世界の住人達は、現世界の住人である地球人と比べて身体構造、知性、精神レベルが格段に上と言わざるを得ません。いわゆるRPGのスライムとラスボス位の差があります」


「凄くわかりやすい例えで、地球人が侮辱された感が否めませんな」


「気を悪くしないでください。本当のことなのです。知性と精神レベルが低いので記憶操作も容易です。わざわざ、殺人なんてリスク負う必要はないんです」


 まあ、クトゥルフ神話においても人の存在はかなり貧弱に描かれている。実際そんなところかもしれない。


「じゃあ、何が問題となったんですか」


「現世界の食糧や嗜好品、趣味品の密輸、不法滞在、密渡界が後を絶たないんですよ」


 困った顔でため息をついてからニャルラトテップは続ける。


「先ほど説明したように夢世界の住人達の能力は現世界の住人より格段に上です。しかしそのためか、新たな文化を生むということがかなり長い間ありませんでした。交流のために現世界に赴いた視察団がみた、現世界の文化は我々が長い間忘れていた様々な感情を呼び起こすほどでした」


 拳を握りしめ、熱き思いを語るか真剣な顔をしたニャルラトテップは、今度は忌々しいことを語るような顔つきに変わり


「そして、密かに持ち込まれる現世界の品々、夢世界でも呼び起こされる様々な感情、更に夢世界の住人達は現世界に行くことを憧れます。ついには、集団で不法渡界する連中、帰ってこなくなる奴らが後を絶たなくなり」


「交流制度自体が問題視され始めたと言うわけですか」


 間の手を入れたのには訳がある。喋りながらも徐々にニャルラトテップの顔つきが更に怪しい方へと変わり始めていたからだ。

 しかしまあ、難儀なことだと思う。精神レベルが高いなんて言う割には、俗な文化が好まれるとは。


「だけど、それだけなら留学制度は別に中断する必要はないのではないですか。夢世界の人が現世界の人間に危害を与える訳ではないのでしょう? そもそも、俺みたいに記憶操作されていれば夢世界の事なんて忘れているのでしょうから」


 そういう俺の顔を見つめ、ふうとニャルラトテプはため息をつく。


「留学制度が中断になったのは別に問題があるのですよ」


「別の問題?」


「何故か、現世界の住人が夢世界においては類い希な能力開花を果たしてしまうのです。実際に、貴方もそうだったのですよ」


「……実感が全然わかないのですけど」


 本音である。現世界においての彼は二流の大学を中の下で卒業という状態。小学生から就職するまで、1日十二時間以上は寝ないとすっきりしない万年寝不足状態だったことが原因で、時間を費やして勉強をしていない。

 睡眠時無呼吸症候群の恐れを感じて大学の在学中には一時病院にも通ったが異常は見受けられなかった。原因は別のところにあったわけだが。


「そういや、一体幾つの時から睡眠留学していたのですか俺は」


「小学校上がったくらいからでしたか。ラブクラフトと同じ位の歳から学ばせた方が良いであろうという方針でしたから。あ、その間はお布団の中に替え玉しこんでおきましたから問題ありませんよ」


(寝不足の原因はこれのせいだったのか……。知らない間に二重生活していたようなものか)


「貴方も、他の留学生達も驚くくらい優秀。いえ優秀すぎたのです。どうやっても、記憶操作後も断片的に情報が残ってしまいます。このまま続けると現世界社会に影響を与える可能性が危惧されて、留学制度も現世界歴の3年前に中断されたのです」


 夢世界へ留学していたという事は事実だと思う。ニャルラトテップがいう「断片的な記憶」はこうして、夢世界の言葉や文字が理解できると言うことがいい例なのだろう。それ以外のことはさっぱり思い出せないが。


「貴方が現世界と夢世界を行き来したということ自体は信じてもらえましたか」


「まあ、信じても良いレベルだとは思いますけど、結局それが原因であの賞金稼ぎ? の女の子にと捕まったてわけですか」


「ハアァ、本当に信じられないようなミスなのですよ! まさか、留学制度中断申請時に貴方の公式な渡界履歴と承認証まで消されて、代わりに犯罪履歴ファイルへ登録をされているなんて。担当者達は厳罰を持って対処しますから」


「い、いやそこまでしなくてもいいですよ! 後味わるくなるから。適当でお願いしますよ」


 凄まじい冷笑を浮かべているこの女ならどんな厳罰をするか想像もできない。


「そういえば、俺を誤って連れてきた女の子はどうなるのですか」


 ふと、不安になり疑問が口から出てしまう。


「極刑の予定です」


 極刑という知っているものの、使うことはない言葉を聞き、思考が一時停止する。


「極刑って、まさか、死刑?」


「ええ、どのような理由であれ許可なく現世界の住人を夢世界へ連れてくることは、現法令上では重大犯罪ですから」


 しばし、沈黙が流れたあと、すくと立ち上がると


「それは駄目だ! 被害者としての俺が許せん! 情状酌量を考慮願う!」


「それなら構いませんけど。じゃあ、罰金刑程度で済ませましょう」


 あれ、ずいぶんとあっさりしている。


「どちらかというと、今回の件は先述の通り管理局のミスであることが大きいですし、彼女は認定賞金稼ぎとはいえ一般市民ですから、極刑を適用するとさすがに問題が大きくなりそうです。私としては新道さんが良いと言えばいいのじゃないかなあって、思っていたのですよ」


 上手いこと担がされたような気がするが、まあいい。


(そういやあ、ニャルラトテップは現世界の文化には興味はないんだろうか)


 ふと、疑問がわいた瞬間、最近流行のアニメ主題歌が鳴り響く


「あら、すいません私です。・・・あ、これは、ちょっと失礼」


 というが早いか、いそいそと席から少し離れポケットから賞金稼ぎの少女ももっていたスマホのような物を取り出し会話を始める。

 完全に毒されているようだ。だからなおさら交流中断の憂き目は避けたいのだろうなあと思いつつ、何の電話だろうなあと様子を窺う。どうやら男からの電話のようだ。背中越しからの喋り方でわかる。それに、今迄とは雰囲気があらか様に違う。リア充なのかニャルラトテップ。ちなみに俺は、彼女いない歴=自分の年齢の負け組だ。


「失礼。重要な案件でしたので」

「ソウデスカ。オシゴト、タイヘンデスネ」


 流暢な棒読みで返し(そろそろ帰るか)と思い席を立つ。


「もうそろそろよろしいですかね。仕事に遅刻したくないからできれば、現世界のもと居た時間、そうですね、午前7時頃に戻してもらえませんか」


 できれば、月曜日早々から(行きたいわけではないが)仕事を遅刻はしたくはない。


「面白いこと仰いますね。時間操作はできかねますよ」


 ごく当たり前の事を言うように、ニャルラトテップは返答をする。


「……こういう場合、大抵、現世界と夢世界の時間の流れは違って全然時間が経っていないとか、大幅に時間が過ぎているとかが定番だと思いますが」


「新道さんも漫画やアニメ、映画の影響を強く受けていますね。夢世界と現世界の時間の流れは同じです。夢世界の住人達は長命だから時間という概念が希薄ですけど。まあ、時間操作もできないこともないですが、一般種族の方に対しての手続は、書類審査だけでも2~3日かかりますよ」


「ちなみに、今何時頃でしょう」


「現世界で言う十一時頃お昼の一時間前位ですね」


 顔から血の気が引く。ちなみに俺は先週、寝坊で大遅刻をしたばかりだ。これだけの時間が過ぎ、連絡の一つもしていないのでは、何も言い訳はできない。


「あ、でも安心してください。貴方がこちらに来て、存在しなかった時間については記憶操作しておきますから」


「あ、そうなのですか」


 そういう大事なことは、先に言えと言いたいがグッと我慢をする。ほっと、胸をなで下ろし、こういう世界だから何でもありと思っていたが、なんだかんだ規制が多い。だけど、できないこともないのだ、時間操作。


 気がつくとニャルラトホテップの前に例の空間ができあがっている。そこを抜ければ現世界に戻れるのであろう。


「ちなみに記憶操作はどのようなことをするのですか」


 と聞くと、チッ気づきやがったみたいな顔色がニャルラトテプから窺える。やはり、こいつは油断ができる奴ではない。


「休日の間に預かった遠縁の子を送り迎えするのに時間が掛かったという設定です。ちなみに会社の上司の方には休み前に了承済みということになっています」


「随分とベタな設定だなあ。まあ、いいけど。俺には記憶操作しないの」


 今度は後ろを向いてあらか様に舌打ちをするニャルラトテップ。もう少し腹芸を覚えろとでも言いたいのか。振り返りにこにこ顔で


「今回に関しては色々と手続きが必要なため時間が掛かるのです。後々、こちらから必要な人間をお送りしますのでご協力ください」


「……まあ、いいけど。どうせ、こんな事を喋っても誰も信じないから」


 最後に来てどうにも、納得できない感があるものの致し方あるまい。ここは素直に引き下がるとしよう。


「では、新道様、今後ともお気を付けて」


「こんなことが二度と起きないことを願いますよ。じゃあ」


 と、軽く手を振りながら俺は空間を抜け、現世界へと無事に帰ることができた。




 空間が完全に閉じた事を確認し、彼を見送っていたときのような微笑みを潜め、事務的な顔と口調で局長室の通信装置へと語り掛けるニャルラトテップ。


「……私です。渡界管理部長に繋げてください。……例の案件について本人からの同意を得ることができました。記録をそちらに送信します。確認後、速やかに関係各署各部門に統合管理局長名義で通達及び必要な手続きに入るよう進めてください。よろしくお願いします」




 さて冒頭で述べたように、可哀想なことだが、「新道 新(二五歳)男」はこれ以降、現代世界における一般常識的な世界観から大きくかけ離れた体験「夢世界の住人達との様々なトラブル」に巻き込まれることになるのである。


 ――これはその様子をまとめた、記録である。

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