第8話独白

物心つく頃には父は既にいなかった。

父は資産家の生まれで、投資家だったと母からは聞いている。

常識的で、人道的で、凡そ平凡という要素を煮詰めたような、優しい人だったそうだ。

僕は、そんな父をずっと憎んでいる。

例え、どれだけ優しかろうと、その優しさが僕に向けられることはついぞなく。結果として母も裏切られたからだ。


セミの輪唱が鳴り響き、照り付ける日差しが肌を焦がし始める初夏の頃。

父、如月和也は大量の借金を残し、首を吊った。


別に、危険な取引や、怪しげな商品に手を出したわけでもない。

ただ、時勢には抗えなかった。それだけなのだ。

父の享年が1990年代、と言えば察しのつく人間も多いだろう。多くの人間が経済的な危機に見舞われた厄年に、父もまた危地に立たされたのだ。

彼は自分が首を吊ることで、保険金を下ろし負債を帳消しにするつもりだったのだろう。


実際、保険金は借金の返済にあてがわれ、一時は完済していたのだという。

しかし、父の死後に彼らは現れた。


「すみません、こちらに如月さんはいらっしゃいますかね」


親族一同が一堂に会する葬式の最中だった。

グレーのスーツに、闇を落とし込んだかのような黒のサングラス。その低い声音に、経典を読み上げる坊主の声が止まった。

明らかに、常人ではなかった。

彼らは畳の上を遠慮なく土足で踏み荒らし、遺影を確認すると周囲を見回した。


「如月さんに奥さんがいらっしゃるそうですが、どなたですか」


周囲の視線が、ゆっくりと母を刺した。

母の総身が僅かに震える。

ドラマなどでしか見かけないような、時代錯誤な取立人。それが彼らの正体だった。

彼は、死んだ父の友人がこさえた借金を取り立てに来たのだという。道理が通らないだろうと、喪に服していた母は気丈にも返答した。

しかし、その威勢が続くことはなかった。


「いや、それがですね。こちらの書類には連帯保証人に如月さんの名前が記されているんですよ」


父が死んだとなれば、返済義務を負うのは近親のものとなる。そして、父と母には両親も兄弟もいなかった。

泣きっ面に蜂、とはまさにこのことだろう。

前世で一体どのような業を為せば、このような憂き目に遭うのか。

最悪だったのは、これが親族の前で行われたことだ。

近親に相当するのは返済能力のない僕だけで、式に集まったのも遠縁の親戚だ。

手を貸してくれる道理も義理もないし、況してや多額の借金を持つ身内とは関わりたくないと思うのは、ごく自然なことだろう。

母は、この瞬間に孤立無援となった。


どれだけ父を恨んだだろう。どれだけ我が身の不幸を呪ったのだろうか。

それでも、母は僕の前で父を貶すことはなく、弱音は吐かなかった。

故に、僕は父を呪った。死ぬことで、ひとり苦しみから逃れたのだと。痩せこけた母を見るたびに、そう思わずにはいられなかった。

父の選択は僕らの身を案じてのことだろうとは想像がつく。だが。それでも、僕は憎まずにはいられない。生きて、共に苦しんで、母の味方であってほしかった。幼かった僕は、母の味方足りえなかったから。


今は違う。母の力になれている自負がある。

僕だけが、母の味方なのだ。

だから、逃げるわけには……死ぬわけにはいかない。

裏切るわけにはいかない。これ以上の不幸を背負ってほしくない。


……帰らないと。

霞んでゆく意識の中で強く。

ただ、そのことだけを願った。

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