第2話力無き者
嫌な夢を見た。子供の頃に夜逃げした時の出来事だ。
何もできず、傷だらけの母の背を見上げることしかできなかった、幼く無力な時分。
無力感に苛まれるようで、あまり思い出したくはない。
胸中に渦巻く蟠りを振り切るように、瞼を開けた。
壁に掛けられた時計は早朝の6時を指していた。窓から差し込む光に目を細める。
布団から上体を起こすと、泥のような疲労感が纏わりついてくるのを自覚した。
深夜のバイトがこたえているのか、頭は朦朧とし、体も油の切れた機械のように動作がぎこちない。
「だから、あんな夢を見たのかもな」
独りごち、隣を見遣る。不器用ながらも片された布団が一組。どうやら、母は既に起床済みのようだった。
襖を開けると、香ばしい匂いが鼻腔をくすぐった。それに呼応するように、腹が鳴る。
「おはよう、宗一」
「おはよう、母さん」
朝食は目玉焼きと、消費期限の近い食パンだった。随分と質素な朝食のように思うかもしれないが、これでも朝昼を水道水で済ましていた頃よりかは遥かにマシだ。
食パンを頬張っていると、母が探るような目線でこちらをのぞき込んでいることに気が付く。
「宗一、あなたまた私に黙って夜のバイトしてたでしょ?
目元の隈、大変なことになってるわよ」
鏡で見ないことには分からないが、大層酷い表情らしい。
「大丈夫、自分のことは自分が一番理解しているから。心配しないで、平気だよ」
口の端を引き上げて、笑う。作り笑いには自信があった。
数多の大人を欺いた笑みは、悲しいことに母には通用しなかった。母の顔に刻まれた皺が深みを増し悲哀で滲んでいく。
「ごめんね、私がきちんと働けていれば……」
俯いた際に、母のうなじが顔を覗かせる。
一瞬垣間見える濃厚な痣。過去に受けた暴力と、僕が無力だった証。僕を抱きかかえ、痛みと屈辱に耐える母の顔が鮮明に脳裏を過った。
追想をかき消そうと、努めて明るい声で笑う。
「いいって! 本当、気にしなくていいから!」
「でも、いつも宗一に迷惑かけて……。まだ遊びたい盛りの年なのに。部活だってやらせてあげられなくて、転校ばかりしていた所為で碌に友達も……」
押し殺した声、静かに涙を流す母。
唇を強く噛む。気遣われている事実を情けなく思った。
自分はまだ、子供であることを痛感させられる。
働けなくなった母の代わりに幾ら働いても、その事実は覆らないのだろう。
僕は子供であることを許されず、でも大人になりたがっている子供なのだ。
――僕が働きだした切っ掛けは数年前、母は過労が祟ってまともに働けない身体になってしまったことに端を発している。母は倒れた際の打ちどころが悪かったのか、手足に障害が残ってしまった。
リハビリの甲斐もあり、なんとか手足は動くようになったが、それでも以前のようにはいかない。日常生活に支障はなくとも、肉体労働は無理だと医者からは宣言されている。
以来、母は内職で日銭を得るようになったが、生活は困窮するばかりだった。そのため、母が望まないにも関わらず僕は年齢を偽り外に働きに出るようになった。
働けなくなった親の代わりに子が働くというのは、世間一般では不幸に分類されるのだろう。学も資格も技術もない人間にできる仕事は限られ、その中でも高給なものは怪しいものも多い。身体を害する可能性だってある。世情が可哀そうと思うのも自明の理だ。
しかし、僕はそうは思わない。母のために、役立てる日が来たのだと思った。
同時に、それは償いでもあった。
僕を守り、育てるために母は過労になるまで働いたのだ。借金もあったが、それだけではない。僕も、母が倒れた原因の一部なのだ。
だから、僕が働くのは過去の自分の無力さを償うための贖罪。罪の意識を拭うためのエゴイズム。
自己満足に過ぎない、僕だって稼げると思い込みたいだけ。
「いいんだ。部活とか、遊びとか、友達……所謂青春っぽいの。そういうのは性に合わないから。こうやって働いている方が僕らしいよ」
軽薄そうに笑い、誤魔化す。ヘラヘラと笑って取り繕う。
何か軽妙なことでも言ってやろうと思ったが、脳漿の代わりに泥が詰まったような鈍い思考では適切な言葉は見つからなかった。
「でも……」
悲痛に満ちた瞳が僕を見つめる。
心配をかけてしまっている。自分の無力さを見せつけられたような気がしてならなかった。
もう、幼かった頃とは違う筈なのに。
「本当、気にしなくていいから! じゃあ、行ってくるね!」
居ても立っても居られなくなり、勢いよく席を立つ。
そのままパンを胃に流し込み、鞄をひっつかむと、逃げるように家を出た。
住民共用の階段を降り、外に出る。
季節は初夏を迎えようとしていた。じりじりと、肌を焼くような暑さが続いている。
コンクリートに照り返る暑気が、尋常ではない。
僕は億劫になりながらも、太陽に一歩身を曝け出した。
……少し、眩暈がした。
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