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  • 予告カッコイイ!

    作者からの返信

    >尻鳥雅晶 様

    コメントありがとうございます! 嬉しいです! 

    けっこう頭をひねって書いたつもりなのでしたが、ちょっと背伸びしすぎちゃったかなぁ……と今では思ってます(苦笑)。

  • はじめまして、こんにちは。
    とても考えさせられるお話でした。
    センシティブな話題なので、何と書いたら良いのか迷うのですが……。

    寿さまの思いが発信されたことを、わたしは応援します。そして、同じ境遇で苦しんでいる方に届き、灯火となることを祈っています。

    お話を読ませていただき、ありがとうございました!

    作者からの返信

    はじめまして、こんにちは。
    お読み頂き、しかもコメントまでありがとうございます!

    自分は当事者ということもあり、書ける・わかる部分があります。しかし、それ以外に関しては、無知という外ありません。環境ゆえに体感したこと、そこから考えたことは一人ひとり必ずあると思います。

    例えば一度も障害者と接したことがなくとも、テレビや映画やマンガや実際に見かけた人で何かしらのイメージを抱いたことはあるのではないかと。そのイメージをそのまま公の場で発露するのはちょっとまずいですが、自分としてはそれも知りたい、その上で話をしてみたいとも考えています。

    自分と同じ境遇の人、というのは残念ながらこれまでの人生の中で今までに一度も会ったことがありません(思想や考え方が近い友人はいます)。

    思想や考え方が同じというのも、正直ちょっと気持ちはよくないかなぁ……なんて思ったり。


    こちらこそ、ありがとうございました。

  • 更新最後までお疲れ様でした。
    そして、大変考えさせられるお話でした。

    最後ですので感想ではなくレビューと出来ればと思い、
    一度ご確認お願いします (以下レビュー)
    ―――――――――――――――――――――――――――――――
    題名:知らずの内にあなたの普通を押し付けていませんか?
    本文
    人の心や考え方は十人十色。言葉くらいは聞いた事がある方がほとんどだと思いますが、はたして実生活で意識しながら行動出来ておられる方がどれくらいいるのでしょうか。
     作者様はご自分が聴覚障がい者である事を自ら語っておられます。その作者様が今まで生きてきた中で感じた憤り・不信感・共感や確執など……赤裸々に語っておられます。
     その中で私たち健常者が考えもしなかった事、気付かずに今まで生きて来た歩み。その中で知らずの内に健常者だから障がい者だからと押し付けていた事はありませんか?
     この作品を読めば、今まで考えもしなかった考え方、知らずの内に相手に対して働いていた失礼なんかも、気付かせて頂けます。
     もちろん全ての方とは申せませんが、障がい者の方がどのようにお感じになり、健常者はどのように今まで見ていたのか。お互いを知る機会になりますので、一度読まれてみてはいかがでしょうか。
     新たな気付きや、今まで気付けなかった新しい視点での考え方も持てるようになるかもしれませんよ?
    ――――――――――――――――――――――――――――――
    以上がレビューとなります。
    もし上記内容でよろしければ、レビューとして投稿したいと思います。
    ネタバレなど無いように注意はしておりますが、内容と共にもし不都合でありましたら、その際はレビューを取り消します。
    ※星はもちろん残します。

    お忙しいとは思いますが、一度ご査収お願いいたします。

    追伸:こう言う色々考えさせられるお話は、勉強や新たな気付きにもなりますので、ものすごく大好物です☆

    作者からの返信

    ひかりさん、毎回コメント書いていただいてありがとうございます。

    題名なんですが、自分でもはっとさせられるものでした。

    聴覚障害者にとっての自分にも「普通」というものはあり、それが極端に偏っている部分もあり、その価値観や常識などで人を見ているところがあるかもしれないと自省した次第です。

    障害者の中にも健常者の中にもそれまでの積み重ねの「普通」があって、そこから脱却するのは難しいよなぁ、と思い至りました。「普通」はともすれば思い込みになりかねないので。

    レビュー内容については全然問題ないです。というか、レビューまで書いてくれることに誠に感謝・恐縮です。


    読んで頂いて、本当にありがとうございました。

  • お疲れ様です。
    今回初めて考えは同じですが、いきさつと結論が違う「噛み合った異論」になりそうです。

    まず一つ目。
    社会的弱者に対する生産性と、生活保護。
    こちらに関しては、少なくとも私の周りでは全員理解していますし、依然申し上げましたように、いつ自分が障害を持つのか分からない以上(加齢とともに発症する難聴・弱視など)、異論を唱える方はほとんどいません。
     ではなぜ生活保護が叩かれるのか、働けと生産しろと言われるのか。
     生活保護でパチンコに行くからです。着飾るからです。役所で大暴れしてケガさせるからです。
    暴れられるなら働けるでしょう? 生活保護は娯楽の保護じゃなくて、あくまで生活保護です。普通に働いている人はもっと質素に生活しています。人様に怪我させたら働いている方々は社会的責任を取らされます。
     逆に言うと、一部の人の愚行により、風潮被害を受けられている方も多いのです。
     ですので、生活保護を否定しませんし、憲法ですら保証している権利を個人でどうこうなんてする気は無いかなぁと思います。

    次に優等思想ですが、こちらは少しビジネス思考ですが、優劣は付けている方は少数だと思います。これは努めている会社の人事部課長とお話をしたのですが、
     まず、出来の良い人間ばかり集めてもその中で優劣は付きます。同じように障がい者同士を集めてもやっぱり「その中で」優劣は付きます。
    これは2:6:2の法則で、一時の巨人と同じような現象が必ず起こります。どれだけ優良者を集めてもその中で一定数の落ちこぼれが発生する。実際障がい者枠で採用されている方でも、健常者の方よりもしっかり働かれている方もお見受けしますし、むしろ健常者がもっとしっかりしろよ!って言いたくなる場面もあります(これは優劣じゃなくて、お金貰って働いてるんだから責任持てよって意味です)。
     ですから、優劣で切るのは障がい者ではなく、2:6:2のしたの2であると言うのは、ご理解いただいても良いと思います。

    後は活躍の場と言う意味では、適材適所だと思います。分かりやすく言うと、足の不自由な方に工事現場は無理ですし、耳の聞こえない方にテープ起こしが出来ない。たったそれだけです。
    「健常者」で言えば、通訳の仕事をしたいけど、語学が壊滅している。プログラミングをしたいけど英語・機械言語が分からない。
     障がい者だから、ではなくあくまで出来るかできないか。適材適所のお話だと思いますよ!

    PS:政治家の発言は今に始まった事でも、生産性の話だけにはとどまりませんので、失笑での聞き流しでしょうか(笑)
     ただ、一聞耳心地の良い事ばかり口にする方よりかは、ある意味信用出来ると、個人的には解釈しています。

    まとめ。
    生活保護は無くしてはいけないが、先の理由により生活保護の在り方を考える必要はあると思っています。
     障がい者だからってあの大量殺人を認めている人は基本いないです(マスコミの誘導なだけです)。
     それこど健常者でも、全く生産性の無い方は多数いますよ!
    ですので、生産性有無より、自分が納得する生き方が出来るかどうか。そこだと思います。
    ※ただし後ろ指をさされない(生活保護でのパチンコなど)程度で。
    と言ったところでしょうか。

    色々意見を叩き(ディスカッション)合いたいなあとは思います☆
    今回も色々な考え方があるんだなぁと、気付きを受けました! 本当にありがとうございます☆

    作者からの返信

    コメントありがとうございます。

    生活保護のバッシングはニュースでもよく見るのですが、実情はどうなんだろうというのが自分の所感です。パチンコ屋に行ったりは論外ですが、本当に必要としている人たちにクローズアップすることも必要ではないかと(これはマスコミの偏向報道によるものだと思いますが)。

    自分もいつかは本当に動けなくなって、貯金も尽きて、家を追い出されるようなことになったらやっぱり生活保護に頼るかと思います。今はまだ自分には関係のない話だと思っているのですが、可能性はゼロじゃない、生活保護を受けるのには気が引ける……というのはあります。
    言い方は悪いのですが、自分にもプライドがある、そこまで(国かな?)頼りたくないというのが実情ですね。それもマスコミの印象操作のたまものかと思いますが。


    2:6:2の話はたいへん興味深いですね。
    働くアリとサボるアリとの話にも通じるのかな?

    その通りで、健常者でも働かない人はいますし、障害者でも目を見張るような成果を出す人もいます。適材適所という言葉がある通り、一人ひとりの能力を見極めて適した場所で働けれればそれに越したことはないですね。もっとも、それが難しいのですが……自分もモラトリアム人間でしたので、「何が自分に向いているのだろう」と延々と働きながら、モチベーションを高められない仕事を続けていました。

    このコメントでのやり取りだけではまだまだ語り切れないことがあるなぁとしみじみ感じています。もしくは、語るのが怖いこともあるなと。
    (大量殺人のこととか)


    それでもこうしてコメントを頂けるのは刺激になります。
    難しい話に付き合わせてしまっているなと自分でも思っているのですが、一人でも自分の言葉が届くんだとしたら書き手としては感無量です。

    こちらこそ、ありがとうございます。

  • 更新お疲れ様です。
    この話はもうここだけでは書ききれません!それ程に色々な思いと考えが、去来しております。

    ですのでいくつか絞ります(それでも長文になりそうですが)。
    まず。人工内耳のお話です。
    こちらは視覚障害のお話になってしまいますが、弱視のお話を少しだけ。
    この弱視と言うのも子供の間なら治る可能性があります。そこで目の手術・治療をするのかと言うお話ですが、10歳前後の児童に、この弱視の手術を受けさせるのか、このままの方が良いのか。
    同じような話を伺った事があります。
    これも割れます。治るなら「普通」の生活をして欲しい。と言う想いと、今の生活に体がなれているのに、明日から突然変わった世界で、それこそ「普通」に生きて行けるのか。それに今まで「言葉」だけで聞いて理解していたものを、映像や色と結び付けられるのか。普段の生活には本当に多種多様な色・形・物・大きさ・厚み・重さetc……などがありますので、視覚障害の方は本当に大変だと思います。
    ※テレビと聞いて四角だと分からない。そんな世界からです。

    「治る」「普通」これをどう捉えるかなんだと思います。
    私は今の状態が「普通」なので障がい者の方々の「普通」は分かりません。分かると言ってもいけないと思っています。
    ただ健常者にしても障がい者にしても今の「普通」から変わるのはとても労力と覚悟がいる事には変わりないかなと思います。
    ※一般生活で、転勤と言うだけでも「普通」が変わってしまい、不安も伴って大変ですから。

    そしてもうひとつが医者の是非のお話です。
    医者が人工内耳を進めるのは、個人的には賛成です。
    これに関して説明したかったのですが、まず今の「普通」を変えないのか、今の「普通を変えて」生活を変えたいのか。それを選ぶ選択肢は与えるべきだと思うんです。
    まず、知らない事には考えが及ばない。健常者でも障がい者も関係なく、知らない事は調べるなり教えてもらうなりしないと、考え方も世界も広がらないと思うのです。(実社会でも同じだと思います)
    ※前述の、経験と体験による凝り固まった思想に向かう要因になるのかなと。
    だからこう言う方法、手段もありますよ。ただしこう言ったリスクもありますよ。その上でどうしますか?
    もちろんメリット・デメリットを隠すことなくお伝えした上でのお話は大前提ですけどね。

    ですから、医者がお伝え、選択肢の提案をするのは賛成です。
    ただし、そこから先無理強いや障害は生きにくい、みたいな話になると、もちろん全く別のお話になりますから、そこは強く抗議してしかるべきだとも思います。

    このお話。手前の小説にも直撃するんですが、子供権利と選択責任。で非常に大量のヒアリングと本当に長い時間をかけてディスカッションをしているんですよ。とある法改正の為に。

    まあそれはさておきまして。
    意見は違っても、お互い全く違う意見を述べ合って、ぶつけ合って話をする(ディスカッション)を言うのは、自分の思考・考え方が大きく広がるので、とても素晴らしい事だとは思います。
     願わくば私の近くにもまた一人こういう人が現れて欲しい。
    以前の方はもう定年で、退職されましたので……

    長文失礼しました。
    毎回本当に考えさせられ、新たな気付きと共に視野が広がります。
    ありがとうございます☆

    作者からの返信

    ひかりさんもお疲れ様です。
    こちらも、たいへん参考になっております。

    「子供の頃に手術を施せば治る」というのが厄介で、倫理的な問題も孕んでいるところがあるのですよね……。当人の意思によって決定すればそれに越したことはないのですが、未熟な意思決定で人生を左右するような手術をしていいのか、という問題もあったりと……。

    他者(健常者など)にとっては「普通」ではない状態であったとしても、当人にとってはこれが「普通」といえることもある。その認識は個々人のというよりは、障害や病気を容認してくれている環境や空気によるところがあるのではないかという気がしています。

    医師の部分については、こちらの書き方が悪かった、足りなかったなぁと反省しています。
    もちろん医師も「(聴力次第ですが)補聴器はどうか」「ろう学校に通うことはどうか」と選択肢を提示することがあります。

    しかし、一部の知識不足な者が安易に「人工内耳はどうか」と勧めることもあるそうな。健聴の親から耳の聞こえない子供が生まれ、親はそれだけでショックなのに選択肢の余地のないような聞き方をする人もいるそうな。ろう学校などを知っているのに、あえて人工内耳を勧める人もいるそうな……。
    (これは聞き話ですので、根拠はありません。ご了承下さい)



    先だって「今、ろうのコミュニティからは距離を取っている」と書きましたが、現在はろう者によるろう者のためのろうの講義というものに不定期に参加しているんですね。

    若い人もいれば年配の方もいる。

    最初はあまり気が進まなかったのですが、そこで交わされる意見は自分にはない視点のものでした。根っこの「ろう者嫌い」という部分に変わりはありませんが、若い人が増えたことで少しずつ「何か」が変容していっているように感じました。

    思考が硬直していないというのか……

    自分自身、考えが固まっているなと思うところもあるので、「これが絶対」とは言い切れないのです。視野狭窄になれば、それこそ自分が嫌悪している人たちになるのではないかと危惧しているのです。



    なんだか自分語りが長くなってしまいましたので、この辺りにしておきます。身近に、あるいは不定期的にでもそういうコミュニケーション・ディスカッションできる場があると、思考が刺激されますね。


    このエッセイで少しでも刺激になったのなら、幸いです。
    こちらこそありがとうございます。

  • 第7話「二つの世界」への応援コメント

    昨日は出番でしたので、読ませていただけのは(非番帰りの)今です。

    上記の内容もまさに! と思いますので付け足す事が少ないのですが聞こえない人、喋れない人コミュニケーションを取るツールは皆さんお持ちなんですよね。
     昔は筆談でしていたので、外や通常会話をするにはとても不便でしたが、今はメールショートメッセージなる便利なツールがあるのです。
    昔、携帯の受付をやっていた時に、聴覚障がい者の方が携帯電話のご契約に来られた時に、その利用目的を語って頂きましたことがありまして(もちろん筆談です)。
    お互いに聴覚障がい者でありますが、周りの知人、自分の子供、いとこなどと気軽にコミュニケーションを取るツールとして使いたいのだと仰られておりました。
     そして良くも悪くも今の若者は携帯ツール、メッセージツールとしてSNSやチャットを使い、声に出さない・顔を見て話さない。
    そう言う方が増えていると思うんです(それが人付き合いの不器用さに繋がっている?)。

    つまり、当時よりもお互いの意思を疎通させるのにハードル自体は低くなっているはずなんですよね。
    それに健常者でも声を出さずに生活する人も増えて来ている今、
    本来なら健常者がエライ・聴覚障がい者が弾圧を受ける。
    なんてナンセンスな話で。むしろ人と向き合おうとしている聴覚障がい者様の方が、機械に頼りきりの健常者よりもある意味では人間らしいのかなって思ったりもします。

     だからお互いがお互いに歩み寄るのはそう難しい事では無いと思うのに、どこにその壁があるのかと、むしろ不思議なくらいなんですよね。私は。
     ただ。前話で仰られていましたように、集団の同調化による思考の凝り固まりが原因の一端を担ってしまっているのかなと。皆さん(健常者・聴覚障がい者様)双方がもう少し視野を広げると、綺麗事かもしれませんが、解決策もあるのかなとこのコラムを読んで可能性を勝手に見出しました。

    ただ、視覚障がい者のお話ですが、点字と点字ブロックのお話を何故か思い出しました。
    それから。変わった考え方を昔からするので、私も進学の際には校区を変える程のイジメに遭っておりました。
    その気持ちが分かるだけに……旭川の事件だけに限らず、この手の話には思う事がたくさんあります。

    作者からの返信

    お疲れ様です! 大丈夫でしたか? ゆっくりお休みして下さいね。

    そうなんです、ひと昔前にはなかったツールが出てきたことで、聞こえる人ともコミュニケーションが取りやすくなっているのです。まだまだ課題は多いですが、声を発すると自動的に文字変換してくれるというツールもあったりします。

    また、ドラマやマンガの影響で昔よりも聴覚障害者のことを身近に感じられる人が増えているというのもあります。手話で歌を歌おうなんて動きもありますしね(自分はこれ、実際にやったので大嫌いですが)。

    お互いに歩み寄るのが難しいのはやはり、個々人の感情によるところではないか……と自分は思います。一人ひとりに背景が違う、考え方もやり方も違うというのは当たり前ですから、そのすり合わせを行う勇気がなかなかないんじゃないかなと。

    自分が間違っているかも、とか自分で認めて反省できる人は大人でも健常者でも障害者でも少ないですし。

    政治家もそうですし(笑)


    いじめ、排斥、同調圧力……人の業だと言ってしまえばそれまでなのですが、被害者にとってはそんなの知ったことかといったところですね。

    それで亡くなる人もいるし、悲嘆にくれて憎悪に走る人もいる。
    その心を解きほぐすにはやはり人の心なのではないかと。


    人の起こす事象を解決できるとしたら、それは結局人の力なのではないかと自分ではそう思っています。

  • 第6話「ろう者の言い分」への応援コメント

    「レッテル」というものに、少し囚われ過ぎてる感もあるかなあ…と思うのですが…。

    僕は音楽をやってる関係で、目的に向けて凄く練習をするのですけど…今日は「The First Take」というチャンネルに凄く感化されました。
    「一発撮り」というものですが、小説の世界で言うなら…例えば寿様の作ったストーリー(台本)に合わせて、役者が舞台で演じる。
    これって凄く生身のある行為であり、同時に凄く面白い(生きがいの伴う)ことだと思うんですよね〜。

    何かちょっと感想がこの文章に相応しいかわからないですが、「筋書きの無い人生」って面白いと思うんですよね。…というか、寿様を始めとして皆がすでに体験していることですね。

  • 第6話「ろう者の言い分」への応援コメント

    正にその通りだと思います。

    私は、今は健常者なのでどちらが悪いとか部不相応な事を申し上げつもりはありません。
    ただ、先もお伝えした通り、他の同じ聴覚障がい者の方々が必死で
    声を上げ続け、少しずつ形になって来ているのに、そこに冷や水を浴びせると言うのは、これは健常者であろうがそうでなかろうが、“和”を乱す行為としてみれば、同情の余地も理解を示す余地の減って来るのではないでしょうか。
     もちろんこれらが別の主張に繋がるなら話し合いの余地もありますし、考察の機会があっても良いとは思いますが、憎悪と言うのは晴らしてしまった先に一体何が残るのか。
     少しだけ冷静になればわかるとは思うのですが、寿さまがおっしゃられているように、長年受け続けた差別と言うのはそう簡単には消えません。
    過去にされた手痛い事でも、やっぱり覚えているものですし、そう簡単には無かった事にも忘れる事も出来ないと思います。
    ※いじめられ時の記憶は残り続けています。

    ただ、ほんの少しでも良いから赦す勇気だけは忘れないで欲しいと思います。
    その憎悪を他の誰かに植え付けたって、ご本人様は憂さ晴らしにならないと思いますし(現に広がり続けていると思います。本当に憂さが晴れるなら植え付けた時点で消えると思います)、同じ障がい者同士での足の引っ張り合いになってしまいます。
    それは他の聴覚障がい者様の意思を阻害する事にもなりますし、本来同じコミュニティのはずなのに、仲間割れを起こす原因にもなり得てしまうと思うのです。
    ※人の繋がりが何よりの財産と考える私には、この事がすごくもったいなく感じます。

    今回、このエッセイにはそう言ったメッセージもあるのではないかと勝手に深読みしてしまっていますが(笑)

    ただ一つ立ち止まって考えて欲しいのは、
    今年の二月にあった、北海道旭川事件。これにしてもそうですが、
    健常者だろうが、何かに瑕疵や理由を後付けで作って他人をイジメる。弱い者いじめをして憂さを晴らすと言うのは、大変不本意ではありますがやっぱり日常になりつつあります。
    ※私は最後まで抵抗するつもりではいますけれどね。
     その理由が障がい者(難聴者・ろうあ者)であっただけと言うだけの事です。
    イジメる人はどんな理由を作ってでもいじめをする。それは健常者同士でも相手が障がい者であっても。

     些細な違いではありますが、この違いと言いますか、このニアンスを超えられた先に、色の変わった世界が広がっているんじゃないかなと思います。
    もちろんこれは健常者側にも言える事ですが。

    上手く伝えられたかどうか少し怪しくはございますが、今回は差別を受けた側、むしろ手話と日本語手話にアイデンティティを求めた方々のお話と言う事で、この一方からだけのお話に留めておきます。

    毎回考えさせられます。
    そしていま一度自分を見つめ直す気付けにもなっております☆
    本当にありがとうございます。

    作者からの返信

    今回もありがとうございます。

    和を乱す行為……というよりは、集団そのものがひとつの思想に凝り固まっている感があるのですね。そのために不利益を被っている聴覚障害者はいます。嫌だなと思いつつも、コミュニティから外れるのが怖くて集団の中に属している人もいます(これはどこもそうですね)。

    朱に交われば赤くなるとでもいうのですか、別の考えを持っていた人が集団に属することで、その集団の持っている思想に染まることもあります。そしていつの間にか集団の中にある感情も自らの中の感情と同一であると考えてしまう。

    それにより他の聴覚障害者と対立してしまったケースも知っています。
    私も、友達だった人と考えの違いで対立してしまいました。


    事件のことは強く記憶に残っています。
    また、他のそのようなニュースを聞く度にやるせなくなります。
    私自身もいじめに遭い、そして加担(見て見ぬふりなど)したこともあるからです。

    学校という閉鎖空間の中で個性がばらばらの子供たちを一堂に集めれば当然、いじめが起こるものと考えています。身体的特徴や何やらで「目立つ」人がいればいじめは起こります。
    「目障りだから」「楽しいから」「話が合わないから」……大人からすれば「そんな理由で?」と思うようなことで起こる。

    それは大人の社会でも同じことでしょうね。何かしら気に入らない理由を見つけて、自分の優越性を証明したがる。
    人間であれば、集団の特性を考えれば、それはおかしくないことと自分は考えています。

    翻ってろう者と健聴者との関係性について考えてみると。

    この手の集団には学校などでの集団とは異なり、「思想」というものがあります。その思想を盾にしていじめる、排斥する、人を区別する……彼らの信じている思想が正しいもので、実際に社会に働きかけて実際に変わっているのだから自分たちは間違っていないと思い込んでいる……と自分はみています。

    その思想はどこかおかしいんじゃないかと懐疑的な目で見、意見を述べられる若い人の台頭が必要になるのではないか……と思うのですが、まだ時間がかかるかもしれません。

    なんせ、厄介な人たちですから(苦笑)

  • なるほどですね…。
    僕も似たようなところがあるので、「なんでいつも自分が?」という思いをしたことは多いです(^_^;)

    ろう話者、難聴者という枠は一旦置いといて…自分の持ってる物を、最大限出してみるのもいいかもですね。性格もその人のアイデンティティーでしょうし、物が書けるというのはもはや才能です。
    視点を変えることで、新しい見方が出てくるかも…。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます。

    かつて、スヌーピーは「人生は配られたカードで勝負するしかないのさ」と仰っていました。
    自分にはたまたま「文を書ける」という力が備わっていた。

    小中高で本やマンガを読んでいたり、自分で小説を書いてみたりしたことが本作品につながっていると思っています。
    中高は暗い時代で、人からの軽侮の眼差しと悔しさと恥ずかしさを知り、自分自身に対する嫌悪感、聞こえないことへのコンプレックスなどなどが育ちに育ってしまった。
    けれど、あの経験が今の自分を形作っているんですよね。皮肉なことに。



    一番いいのは色々な立場の人と話してみることなのですが、現状それもなかなか……
    自分ひとりだと考えが凝り固まるので、このまま書き進めてもいいのかなと思ったりしています。

  • 長文失礼します。
    お疲れ様です。色々考えさせられながら、読ませて頂いていますが、胃に穴が開きそうな年配の方とお仕事されて来たんですね。
    もうそれだけで頭が下がる思いです。
    ……転勤先での私が、今そんな感じです。同じ会社なのにここは違う会社だから。ここはここだから。よそ者は黙れ。(健常者同士でもこれです)

    ここから先は、あくまで当話まででの私なりに頭をひねった考え方です。

    昨日一日考えていたのですが、
    健常者集団をAとします。そこで弾かれた方々、難聴者ないしは社会社に理解のある方をA´とします。
    障がい者集団をBとします。こちらで弾かれた方々、難聴者ないしは寿さまのような方をB´とします。

    もちろん集団Aにも集団Bにも言い分はあるのでしょう。
    ただし現在では何とも言えませんが、私たちが学校にいた頃は少なくとも、人の嫌がる事は言うなするな。相手の事も考えましょうと言う教育は受けてきました。
    ですので、どんな言い分があったとしてもどちらの集団もお互いをコケ降ろすような、爪弾きにするような理由にしてはいけないと思うのです(昨今のいじめが最大の題目ではありますが)。

     この二つの集団AとBに関してはどう言う理由があるにせよ、基本価値は無いと思うのです。
    先に表記した通り、集団Aはいつ自分が障がい者としての生活を送るのか分からない。集団Bは健常者に対して、今の社会に対して手話を認められるところまで訴え、努力・活動をして来られた方々がいるわけですから。
    ※もちろんこれを認められると言う活動をしないといけない社会がおかしいと言えばそれまでなんですけどね。
    だから不快に思うのも普通だと思いますし、関わり合いになりたくないと思うのも何ら不思議な事では無いと思いますよ。

    そこでそれぞれ爪弾きにされた集団A´及びB´で、理解し合うことが出来れば、お互い寂しい思いをした分、憤りを感じた分、集団AとBよりも確実にお互いの立場を理解し合え、一つのコミュニティをとして成立するのではないかと考えました。
    そうする事で
    >どのコミュニティに入っても排斥されたという悲しみと孤独感。
    と言う気持ちも“昇華”出来るのではないのかなと考えます。

    だからそう言うコミュニティを作る活動が出来れば、また流れが変わるのかなって考えます。

    後こちらも同じ人間なのですから、相手に対していい加減嫌な気持ちなる事もありますし、思った事を吐き出さないとやってられません。
     ですから、言葉にして、文字にして。吐き出してその先を考えていければ、とても『価値のあるマイナス思考』、愚痴になるのではないでしょうか。
    なので卑下も自己嫌悪もなさらないで下さいね。
    理解しようとしてくれる方はたくさんおられます。

    【最後に一言】
    >「(耳が聞こえないのに)こんなことも知らないのか!!」
    と言うのであれば、それをあなたが年長者として教えてくれよ! ただし、あなたの独りよがりの考え方に納得するかどうかは別の話ですけどね!! (笑)

    作者からの返信

    お疲れ様です。今回も、コメントありがとうございます。


    一人ならまだしも、もう一人「そういうの」が入ってきた時には暗澹とした気持ちになりました(笑)。

    そうですね、集団の中でやり方や考え方や価値観が硬直していると、どうしても同調圧力や排斥が生じてしまいます。別に障害者健常者に限らず、人間の集団である以上、どうしても起こる事象なのかなぁと。


    だからというか……集団、社会、会社、世間、政府、国などといった「人のかたまり」というものがどうしても信用できないのです。

    新たな価値観で新たなコミュニティを生み出したとしても、必ずどこかでいびつなものになるのではないか、というように危惧しています。生まれてから死ぬまでまっとうに生きられる人間なんているはずがないので、まっとうに成長できるコミュニティもまた存在しない……というのがひねくれてしまった「今の」自分の考えですね。



    >『価値のあるマイナス思考』、愚痴になるのではないでしょうか。
    なので卑下も自己嫌悪もなさらないで下さいね。

    そう言って頂けると、少し報われた思いです。
    このエッセイを書いたのは、自分の中にある怒りと憎悪を客観的に書き出したいというのが出発点だったので。その先に何があるのかはまだ見えていないのですが……。


    【最後の一言】いいですねぇ。
    ただし、論理的な人ではなかったので裏づけのない与太話だろうと思って相手にしていませんでした。

    ぶっちゃけ、疲れるので……(苦笑)

  • はじめまして。
    Twitterで目にしまして、ここまで四話を拝読しました。

    実は私は、市の手話教室に手話を習いに通っていまして…現在挫折中の者でございます。

    手話教室に、何度か通ったかな…。「寿様のような境遇の方は、少なくないだろうな」と、雰囲気で正直思ってました。
    マイノリティの権利や主張が飛び交う中で、また別の少数波の方が居場所を危うくしている…。

    そういった意味では、寿様の今回の文章はとても貴重だと僕は思いますよ。続編もぜひ読ませてください。

    作者からの返信

    コメント、そしてお読み頂きありがとうございます。

    挫折されたとのことですが、詳細はそこまで読み取れませんが……「雰囲気」でそう感じたのだろうなと思ったのでしたら、たぶんそれは合っているかと思います。
    その通りです、マイノリティの中の更に別の少数派が、マイノリティグループ全体を危うくするというケースは多々あります。個人が大きな声を上げているだけのはずが、それに賛同する者が出てきて確執を生む。

    個々人の価値観が多様化した結果といえば聞こえはいいですが、その代わり別の対立を生んでしまったとみると、その明暗はきちんと見据えなければいけないのかもしれません。

    清濁併せ吞んだ上で人と関係を築くのがいいのでしょうが、健常者同士でもそれが難しいですからね……


    数話程度ストックしていますので、続きもお楽しみ下さいませ。

  • 二種類の多様性を盾にした集団同調ですね。

    まず一つ目が、中高のいじめ。(健常者側)
    多様性やみんな仲良くを謳うにもかかわらず、自分と違う人やモノに対して、遠慮なく壁を作る排除する。
    健常者を仲間内とした、集団ですね。
    ただ、この集団に関しては自身の近くに、傷害をお持ちの方がおられれば、集団同調に巻かれる事は無いかもしれません。
    そう言う捉えますと、確かに人に恵まれたのかもしれません。
    ですが、その人の繋がりがこの実社会において、後述する通り何よりの財産になると私は、考えております。

    そして二つ目の集団同調が「サークル」(障がい者側)
    敢えて言葉を選ばずに言うなら、人に恵まれずに差別“のみ”を受けて来られた方々なのかなとお見受けします。
    恐らくは(先に申し上げました通り、障害自体に卑屈になっておられる方々を除く)その方々の一部は、健常者の悪意によって捻じ曲げられた憎悪も含まれるのではないかと思っております。
     その上で、ただの悪意ではなく集団同調と定義したのは、他人にその憎悪を植え付け、広めようとしている点です。

    現時点では、どちらにも瑕疵があり、まだまだ理解し合える日は遠いのかもしれません。
    ただ、こう言った形でも声を上げる方が増えれば、気付きを起こす人も増えるのではないかなと、期待する私もいます。

    寿さまの仰る通り、これは敵とか味方とかで語る話ではなく、みんなで考えていくお話だと私は思います。
     先述の通り、私たちもいつどう言う形で、障害を持つのか分からないんですから、一人一人考える動機自体は個人の中にあるはずなんです。

    その中で『“プロ”意識』の方がおられると、必ず後で足かせになるかと思います。
    だって、同じ障害を持つ同士でも一枚岩ではなくなっているんですから。特に覚えたての手話で、そう弾かれるとアイデンティティが確立していたとしても、揺らぎますよ。
    それはお仕事の現場でも同じだと思います。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます!
    ひかりさんのご意見は刺激的かつ参考になります。自分とはまた違う視点の、実体験を伴った意見というものは得難いものです。


    どこの集団であっても、同調圧力や排斥はつきものだと思います。

    たった一人でも味方してくれる人がいるかどうかで、その集団へのイメージが良くも悪くも濃くなったり薄くなったりすることも。

    「集団」ではなく「個人」として見ることができれば、集団そのものへの感情が揺らぐことは大いにあることです。レッテル貼りをすることにためらいを持つこともあるでしょうし、個人的にはそれが良いのではないかと考えています。


    話をろう者、健聴者に限定しますと。

    彼らの受けた差別は理解できるし、健聴者を憎む気持ちは自分にもわかります。それでもその感情を広めること、植えつけることは間違っている、というのが自分のスタンスです。

    まぁ、表立って「間違っている」といえば、99%対立することになるでしょうが。


    プロ意識というのはそれ自体が悪ではないのですが……度が過ぎると厄介ですよね。どこでも。
    しかも一部のろう者の場合は差別されてきたという事実を裏づけ・あるいは盾として使ってくるのでさらに輪をかけて厄介。

    そのような先輩たちの態度を見て、聴覚障害協会といったコミュニティに入ることを忌避している若者が増えているそうです。

    自分としては、「そりゃそうだ」と思ったりしてます。


  • 編集済

    お疲れ様です。

    前回までに比べ、歴史と受けた差別が入り、更に難しくなった印象があります。

    一番初めのコメントにも書かせて頂きました通り、
    健常者(健聴者)の中でも、何とか相手を理解しようとする人がいる。
    また逆に、ろう者、ろうあ者の中にもお互いを受け入れようとする方々がおられる。
    もちろん自分を認められるかどうかの、問題もあるかと思いますが、
    それ以外に、実体験として迫害や差別を受けられた方々に、一言で片づけられるような問題でもないのかなと思わない事はありません。

    ただ一方で、今まで同じ障がいを持たれる方々が上げ続けた声に対して、ようやく一つの形として実ろうとしている(ある意味では時代が変わろうとしている)この時期になっても、排他的でいると言うのは本当にもったいないなって思います。
    ※もちろんこの排他的な方々にも「こんな条例が出来なければならない、今の社会に不満」を持っておれられても、それは“今までと変わりない”と、もう少し歯がゆい思いをされておられる方もいるのかなと思います。

    もちろん全員とは言いませんが、私たちの世代(40代)は、手話に関して差別する気はございませんと言いますか、福祉の一つとして手話を学べたらなって言う考えの知り合いもいましたし、私は少し別になりましたが、視覚障がい者向けの資格を取りましたし。でも手話を学べる機会があれば、参加したいなって思います。

    このお話の取りまとめをさせて頂けるなら、
    健常者だろうが、障がい者だろうが、何であろうがどうしてみんな同じ人間なのに、仲良く助け合いが出来ないのか。
    これは障がい者・健常者のどちらにも当てはまるのかなと思います。
    再度繰り返します。
    今までの(全員が首を縦に振ったわけでは無い)迫害や差別の歴史が(無かった事にするのでもなく)あった事は重々承知の上です。

    散文になりましたが、これ以上は自分の想いになりそうなので、今回はここで止めておきますね。

    作者からの返信

    お疲れ様です、今回もコメントありがとうございます。

    自分がろう者を嫌悪している以上に、一部のろう者が抱く健聴者への憎悪は長年積もり積もったものなので、簡単に氷解できるものとは思っていません。

    むしろ手話を禁じられたり、発声訓練を強いられたり、その後の人生でも様々な支障を受けたのであるから憎しみを抱くのはもっともだと思うのです。

    しかし、その憎しみを誤った方向に向けていては何もならない……少なくとも今の時代を生きる、次世代の聴覚障害者にその憎悪を伝えるのは間違っているだろうとだけは言い切れます。

    そしてそれは障害のあるなしに関わらない話でもあります。
    人間であればこそ、言葉や肌の色や障害の有無や歴史、文化、宗教などでどうしても違いが出てくる。その違いを楽しむには世界全体で、圧倒的に余裕が足りていないんじゃないかと思います。

    助け合うにはお互いが一人の人間であると認め合うのがスタートなのですが、多様化が謳われているはずの現在の日本社会を鑑みても、難しい相談のようです。


    このエッセイはまだ続きそうなので、折を見てまたコメント頂ければとても嬉しいです。


  • 編集済

    非情に考えさせられるテーマだと思います。
    真面目にコメントします。

    私が視覚障がい者の資格(同行援護従業者)を習得する講義の中で、
    一つだけ今でも忘れられない言葉がありまして。
    「昨日まで何の不便も無く見ることが出来ていたのに、事故を(あるいは糖尿を)境に目が見えなくなる人がおられるのですが、目が見えない事を、視覚障がい者になったことを認められない人がいる。
    認められないから、白杖を使う事に抵抗を覚える人がいる。
    視覚障碍者の一番初めの壁は“自分自身が障がい者である”と言う事を、認める、認識するって言う事なんだと。
    その為の啓発や、障がい者の方の気持ちを受け止めるようにして欲しい。

    そう言われまして。
    なるほどなって思ったんですよ。
    自分を認めるのは、今の自分を正しく認識するのは時に勇気がいる事なんだと思います。
    今回のお話は、恐らく嫉妬が混じっている事からも、受け入れられない、自分は人とは違うんだって(言葉は悪いんですが)卑屈になってるんだと思います。
    もちろん人には得意不得意、得手不得手があるので、私自身も含めて卑屈になったりする事は正直あると思います。

    ただ、そこは弱いままで良いのか。それは自分一人だけなのか。同じように感じた時、他の同じ障害を持った方々はどう感じるのか。

    この辺りの気配りが欠けているんだと思います。
    もちろん私は健常者の一人ですので、綺麗事かもしれません。その分一言では片づけられない、人の感情なんてのはあると思います。
    でも、私の近況や小説を見てもらっても分かる通り、健常者であったとしても、絶えず卑屈や自己嫌悪を戦う日々です。
     そう言うのも合わせて、このお話を通して新しい考え方が身に付けばなって思います。

    ですから、ろうあ者 だけアイデンティティがって言うのは、私も、首をかしげざるを得ないと思います。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます。

    自分は生まれつき聴力が低かったため、人生の過程で障害を持つことになった人の気持ちは察する・想像することはできても、喪失感への理解は難しいなというのが正直なところです。

    ただ、自分が障害者であるかを受け入れられるかという部分の困難さは痛感しています。障害者であるということは、健常者よりも劣った人間であると考える人も少なからずいますから。

    卑屈にもなり、嫉妬もする。

    五体満足こそが当たり前、健常者が常に優位に立っている社会の中で抑圧されてきた人たちは何かしらすがるものが必要になります。


    ろう者にとってはそれが「ろう者」という呼称と、「手話」という言語だったのです。それがないと常に劣った人種として馬鹿にされ、差別される自分の弱さにとても耐えられない。


    次回以降でその辺りについても触れていく予定です。

  • 突然のコメント失礼します。
    少し的が外れているかもしれませんが……

    自分が障がい者だからと言って、何をして良いわけでも何を言って良い訳でも無いとは思っています。

    もちろん該当する方はごく少数です。
    その少数者の為に、まともな人が迷惑をこうむっている例もあります。
     結局は自分も相手も人なのですから、軋轢や齟齬、それに衝突があるのは当たり前だと私も思います。

    今は私もここまでの思いにしておきますが、
    本気の本音を書かれたこのお話。出来れば最後まで読めたら良いなって思っています。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます。

    その通りですね。障害のあるなしに関係なく、もっといえば立場とか肩書とか国籍とかで何をしてもいい、何をやってもいいというわけではないですね。レッテル貼りして人を貶め、優位性を保とうとするのは万国共通。

    「だったらろう者に限定しなくても……」と、自分でも思います。
    自分は生まれつき聴力が低かったので、「自動的に」彼らのコミュニティに組み込まれた部分があります。
    だからこそ感じたものを、こういう形で昇華してみたいと考えています。