忘れえぬ染め跡

咲原かなみ

1-1

 人は誰しも、初めてと名のつく事柄は決して忘れない。

 第一印象が最も分かりやすい喩えだろう。それに勝るとも劣らないのが恋愛と死別だ。

 初めての恋情。初めてのキス。初めてのセックス。初めての恋人。初めての失恋。

 初めて遭遇した誰かの死。初めて参列した葬儀。初めて命の危機に直面した瞬間。

 それらはきっと、第一印象とは違う濃さで脳裏に焼きついて消えない記憶となる。

 流れゆく歳月の中、いつしか思い起こせなくなったとしても、それは記憶が消えたわけでは決してない。降り積もる様々な出来事に埋没し、底のほうへ押しやられているだけだ。どの記憶も脳に刻まれたが最後、死んで機能が停止するまで絶対に消えない。思い出せないことを、忘れてしまったと勘違いしているだけなのだ。

 初めてと名のつく事柄は、とりわけ特別なものとして脳に焼きつく。取るに足らない他と違って、ある種の強烈なきらめきを孕んでいるからだ。

 だが多くの人は、それを素直に受け入れたがらない。一口に初めてと言っても、ずっと大切にしたい記憶もあれば、一刻も早く葬り去りたい記憶もある。人はそれを秘密や汚点と呼び、その種類や大小にかかわらず、他人には絶対に明かしたくないと思うのだ。

 だから人は初めてを語る時、その核心に触れることをやたらと躊躇う。そして挙句の果てに、そんなことは最初からなかったと言わんばかりに、脳の底より深い場所で永久に閉じてしまうのだ。

 杉原雪花がその話を聞いたのは、ちょうど弁当を食べ終わった頃だ。外は小雪がちらつきそうな寒さで、雪花は冬生地のセーラー服に茶色のカーディガンを着ていたが、室内は暖房がよく効いて少し暑いくらいだった。教室はいつもと変わらず賑やかで、クラスメイトの大半が昼食を終えて、女子はお喋りに、男子は格闘ごっこやゲームに興じている。

 昼食はいつも、雪花と紗弥香の机を前後にくっつけ、舞子と美希が椅子だけ持ってくる形で食べている。三年生でやっと同じクラスになって以来、雪花は昼休みを必ずこの三人と過ごしていた。いつも二十分ぐらいで全員が食べ終わって、あとの三十分はひたすらお喋りに花を咲かせる。大抵は真面目さの欠片もない話で面白おかしく盛り上がり、収束らしい収束を迎えることなく予鈴が鳴るのがお決まりだ。

「面白いと思わない? だから人は初めて感じたり経験したり、出会ったりしたことは一生忘れないんだって。何かロマンチックじゃない? だって、初めてはいつまで経っても消えないんだよ」

 物知り顔の紗弥香が、いつになく興奮した口ぶりで語るその話は、昨夜やっていたテレビの受け売りらしかった。雪花もその番組は観ていたが、BGMみたく右から左に流していたから、詳しい内容は思い出せない。だからこそ、得意げな仕草とともに語られる紗弥香の話が、雪花にはやけに鮮烈な印象で響いた。

「というわけで、ここからが本題です。みんなの初恋はいつですか! まずは美希から」

 紗弥香が話にそんな落ちをつけると、舞子と美希が手を叩いて笑い転げた。そして、満更でもない様子ですかさず話題に乗る。

「あたしは保育園の先生かな。五歳児の時、担任だった先生がものすごいかっこよかったの! ジャニーズ顔負けのイケメンで、親御さんにも人気あったんだから」

「舞はね、小学校で三年間クラスが一緒だったタケシ君。バレンタインに告白して、オッケーももらってたんだよ。でも、五年の時に突然引っ越しちゃってそれっきり。なんで、今は彼氏のたっくんでーす!」

「惚気か! 全く舞子ってば、ほんっと彼しか見えてないのね。雪花は?」

 にやける舞子に容赦なく突っ込んだ紗弥香が、呆れ顔のまま今度は雪花に話を振る。雪花は一瞬言葉に詰まったそぶりは見せず、

「あたしはお兄ちゃんかな。本当よ。二人いるからどっちってわけじゃないけど、あたしのお兄ちゃん、本当にイケメンなの。上のお兄ちゃんは刑事やってて、腕っ節も強くてワイルドで。二番目のお兄ちゃんは高等部三年で、絵に描いたような爽やか男子。二人とも顔だけじゃなく、文武両道で女子にかなりもててさ。小さい頃はあたし、将来はどっちかのお嫁さんになりたいって思ってたんだ。二人とも超優しいんだよ。優しくてかっこよくて、頭良くて腕っ節も強くて、いいとこ尽くしだと思わない?」

 雪花が破顔しながら熱っぽく語ると、他の三人はぽかんと口を開けた後、盛大に吹き出してきゃははと騒いだ。

「ちょっと待って。それ、リアルに近親相姦じゃん!」

「雪花、ブラコンすぎ! マジだったらやばいって!」

「もう、お兄ちゃん好きもほどほどにしとかなきゃ、彼氏できないよ!」

 友人たちはよほどおかしかったらしく、周囲の目を惹くほどの笑い声を立てる。雪花としては、それらしい嘘を適当に並べたというより、事実を当たり障りない程度に脚色して、うまく本音を隠しただけだ。尤も彼女たちがそれに勘付いたそぶりはなく、雪花は合わせてきゃははと笑いながら、内心でほっと胸を撫で下ろす。

 結局その日の昼休みは、騒いで笑うだけで午後の予鈴を迎えてしまった。友人たちは笑い疲れた顔で自席に戻り、手を振りながらそれを見送った雪花には、あんなにもはしゃいだ後だというのに、虚しさしか残っていなかった。

 言葉にこそ出さなかったが、実はそれほどまでに、紗弥香が嬉々として語った話が雪花の胸を抉ったのだ。



 人は誰しも、初めてと名のつく事柄は決して忘れない。忘れることがないからこそ、誰しもにとって初めては特別なものとなる。

 自分にとっての初めては何だろう。午後からの授業でも、それからの数日間もずっと、雪花はそのことばかり考えて過ごしていた。

 初めてと呼べるものを、自分はいったいいくつ持っているだろう。何でもいい。恋に限らず、初めてと聞いてすぐ浮かぶものが、自分の中にどれだけ形として残っているか。

 それからさらに経ったある日、雪花ははたと気が付いた。

 まるで何も思いつかない。というより、ない。そもそも、あるはずがないのだ。なぜならば雪花は、何よりの根本となるものを覚えていない。数えきれないほどの初めてを与えてもらったはずなのに、その存在がかつていたことさえ、今となっては何一つ思い出せずにいた。

 そう思い至ったのは、中学生最後の三学期が始まって間もない、誕生日を迎えて一ヶ月が過ぎた頃だった。雪花の奥に人知れず、じわりじわりと侵食してくる翳がある。闇によく似た色合いと不吉さを宿したそれは、今までにも何度か覚えのあるものだった。ただずっと、見て見ぬふりをしていただけだ。

 十五歳。思春期の只中であるこの頃は、思惟や価値観がとりわけ繊細に揺れ動き、外からの刺激や影響にやたらと反応してしまう時期だ。この年頃なら誰もがそうかもしれないが、自分は他の子たちより数倍はそれが顕著だと雪花は思っていた。心など本当は脆いもので、些細なきっかけを食らえばたちまち崩れてしまう。そんな言い知れぬ恐ろしさを、実は常日頃から感じていた気がする。

 しかし雪花は、そんな揺らぎを他人に知られたり、見透かされるのは絶対に嫌だと思っていた。教師やクラスメイトは勿論、親友や家族にさえ気付かれたくない。意地を超えて執念にも似た気持ちが、心に立ち込める翳に混ざって蠢き始めたのもこの頃だった。

 大抵の同級生はきっと、そういった思春期特有のジレンマに葛藤したり、意味もなく振り回されたりするのだろう。もしかしたらそれも青春、もしくは成長なのだと思って向き合える人もいるかもしれない。だが雪花は、それらをやり過ごしてしまう術を既に身に着けていた。

 どれだけ親しい相手でも、心の内をさらけ出すことはしない。下の名前で呼び合う友人でも、一定の距離感を慎重かつ丁寧に保ったまま、己で決めた一線は絶対に越えない。かといって、そうすることで場の空気を悪くしたり、変な心配やマイナスイメージを与えるのは嫌なので、どんな時でも明るく無邪気に溌剌と振る舞う。それは演技ではなく、あくまで心の内を見せないというだけで、嘘をついているつもりは全くなかった。

 地元で難関と言われる私立の中高一貫校に在籍し、春には高等部への進学を控えた雪花は、特筆すべき事項のない日々が繰り返されることを当たり前と思っていた。癖のない黒髪を胸まで伸ばし、この時分はハーフアップを好んでよくしていた。全科目をオールマイティーにこなし、入学当時から仲良しの紗弥香や舞子、美希と多くの行動を共にしながら、男子とも気さくに話し、他グループの女子とは八方美人と取られない程度に接している。

 クラスメイトや教師は総じて雪花を、いつも笑顔の絶えない、明るくて元気な子だと思ってくれている。少々跳ね返りが過ぎるきらいもあるが、基本的には裏表のない無邪気な子という評価だ。

 しかしそれらは全て、他人にはそう見えるように、もしくはそう見えてほしいと願う雪花の努力ゆえであることを知る者はいない。見え透いたものではなく、徹底的に秘匿された努力であるからだ。実のところは何を考え、どんな思いを抱えているのか、雪花は常に気取らせないよう繕ってきた。そうすることで自分や周りを守り抜けると、本気で信じ込んでいたのだ。

 青葉学園中等部での日々は、いつだって充実していた。無論、最初からずっと楽しいことばかりだったとは嘘でも言えないが、それでも明るくて実りある思い出のほうが多く浮かぶ。

 だがその一方で、思春期らしい溌剌さと陰湿さに満ちた毎日を、笑顔とは裏腹に冷めた目で見つめる自分がいたことも否定はしない。

 雪花が思うに、この年の女子は皆飢えている。変わり映えのない平穏な日々に、いつだって刺激と劇的な変化を求めていた。あけすけすぎる恋愛話や、無責任で不確かすぎる噂話に、飽くことなく延々と盛り上がる女子たちは、日常のどの場面より華やいで見える。そこに潜む棘や毒すら、退屈を払う刺激になるなら構わないし、むしろたくさんあったほうが面白いと思っているはずだと、信じ込まずにはいられない振る舞いを皆がしていた。

 彼女たちの話題の半分は嘘と誇張と尾鰭で飾られ、その核心にあえて触れないのは、偏に空気を読むという名の暗黙の了解だ。それは友人間にも言えることで、たった一度の些細な失敗が望まぬ展開と反感を生む。だからこそ女子は皆、それを笑いとはしゃぎようで見事に隠してしまうのだ。

 そんなことを心の隅で思いながら、雪花は素知らぬ顔でその群れに加わっていた。全部を分かったように俯瞰していると、時にひどく疲れてしまう上、何もかもがばからしく思えてつい投げ出したくなる。それらと折り合いをつける術も、ちょうど探り探り学んでいるところだった。

 授業の最中にも、雪花はよく考えていた。ノートを取りながら気紛れに周囲を見回すと、クラスメイトは実に様々な動きをしている。前後左右とひそひそ話している者。突っ伏してぐっすりと眠っている者。心ここにあらずで宙を眺める者。がむしゃらを絵に描いた必死さでノートを取る者。こっそり他の教科の宿題をしている者。面白いほど三者三様だ。

 だが、自分は恐らくそのどれにも属していないだろう。その様をちらちら見終えると、雪花はいつも同じ結論に辿り着く。彼らは何一つ誤魔化していない。授業という縛りの中で、各々がしたいことをしているだけだ。彼らは己の願望や欲求に忠実で、自分に嘘をついていない。そう思い至っては、雪花は懲りずにまた途方に暮れた。

 自分と周りは同じに見えて、明らかに違う何かがある。そんな確信がふいに去来しては、ばかの一つ覚えみたいに胸を焦がす。その思いに駆られる度、雪花は友人たちやクラスメイトが羨ましくて仕方なかった。

 彼らに悩みが一つもないとは言わない。だが時折、その姿がひどく眩しく見えて目が痛む。そして、己がこの上なく汚いものに思えてくるのだ。彼らのようになれたらどれだけ楽だろう。しかし、なれるものなら最初からなっているし、そんな思いとは裏腹に、絶対になりたくないと意地を張る自分がいるのも事実だ。

 毎日一緒にいる紗弥香や舞子、美希はとりわけ親しいからか余計に輝いて見え、雪花は彼女たちといることさえ時々苦しく感じていた。同級生を軽蔑しているのではない。達観しているのとも少し違う。雪花はただ単純に、自分にないものを持っている周囲が羨ましかった。

 それとは別次元の話で、雪花と周りの子たちにはもう一つ決定的な違いがある。直接確かめたことはないが、それは雪花にとって揺るぎない確信でもあった。

 彼らはきっと闇を知らない。何の前触れもなく胸に現れては、時とともに深く大きく広がっていく黒い穴。

 周りが全員、苦労知らずという話ではない。しかし、雪花にはそれが決定的な違いに見えて、なおのこと彼らとは足並みを揃えられないと思っていた。教室や登下校でのお喋りに時々疲れてしまうのは、無意識のうちにそれを思い過ぎてしまうからだろう。

 それは何も、友達やクラスメイトに留まる話ではない。学校で打ち明けられないことは、家族にも話すことはできなかった。家族はきっと、雪花が他人には言えぬ何かを抱えているとは、想像すらしていないだろう。

 もし打ち明けられたなら、少しは楽になったかもしれない。しかしその分、心優しい家族に負荷を与えることになる。いつだって雪花を愛し、案じてくれる家族はきっと、躊躇なくそれを背負おうとするだろう。そんな確信があったから、尚更明かすことはできない。家族の心を、ほんの少しでも壊してしまうのが怖かった。

 雪花はいつだって壊すこと、壊れてしまうことを恐れていた。淀みなく広がる会話の流れや、わいわいと盛り上がった場の雰囲気。学校や家庭で振り撒いている、明るく無邪気でいつも笑顔が絶えない印象。いつだってこうありたいと願うプライド。それらが少しでも欠けてしまうのが、雪花はこの世の何よりも怖かった。その理由と原因は雪花しか知らないもので、その最奥にある本音に触れられることを常に恐れていた。

 本当の自分を誰にも知られたくない。胸に秘めたその願いは、雪花の望みどおり誰にも気取られることなく、中学生のラストスパートである真冬に突入した。雪花にとって、負の意味で一生忘れられない出来事に遭遇したのも、初めてと名のつく事柄は決して忘れないという話で盛り上がった、このぐらいの時期だった。

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