第28話 「好き」という感情

 やっと泣き止んだ僕に、隼人は僕が泣いた理由を尋ねた。隼人には、以前にも奏佑と喧嘩した時に泣きついたことがあったことを思い出した。あの時、隼人に奏佑を好きな気持ちを吐きだしたことがきっかけで、隼人とは仲良くなったんだっけ。だったら、もう全部話してしまってもいいや。僕は隼人に全てを打ち明けることにした。奏佑が弦哉に元の芸大付属高校に戻れと促されていること。奏佑の将来のためにはその方がいいこと。このまま奏佑と付き合っていては、奏佑の足を引っ張る結果になってしまうこと。そんな僕の話を黙って聞いていた隼人は大きくため息をついた。


「律って優しいんだな」


そう隼人はポツリと言った。


「優しいのかな・・・。でも、僕は奏佑の邪魔はしたくない。僕なんかがそばにいることで奏佑の人生が終わるようなこと、させられないよ」


「なんかさ、お前はもうちょっと自分の価値を評価してやってもいいんじゃねぇの?」


僕の価値? そんなものないだろ。ピアノも中途半端で、大切な人の足を引っ張ることしかできない僕なんか、何の価値もない空虚な人間だ。そう思った僕はそんな隼人にまともに取り合わなかった。


「僕の価値かぁ。そんなものがあればいいね」


「お前、そろそろいい加減にしろよ!」


隼人が少し語気を強めた。


「なぜ、そんな風に自分に価値がないなんて簡単に言うんだ! 俺は律のことを価値がない人間だなんて思ってない。お前は俺にとって大切な友達の一人だ。簡単に自分に価値がないなんて言うなよ。お前にだって・・・」


「僕に価値なんてないだろ!」


今度は僕が声を荒げた。


「ピアノも中途半端。勉強もできない。今まで僕には奏佑しかいなかった。でも、僕はこれで奏佑も失う。僕に何が残るんだよ? 一体何が残るって言うんだよ!」


すると、隼人は僕にクルリと背中を向けた。


「俺は少なくともお前の友達で、お前の力になってやれると思ってた。奏佑しかいない、か。じゃあ、俺は最初からお前の中の何者でもなかったんだな」


僕ははっとした。隼人は唯一、僕のよき理解者で親友のはずだった。それなのに、奏佑のことばかり考えていた僕は、奏佑以外の人間のことなど頭の片隅にもなかったのだ。僕がそんな隼人に弁解しようとした瞬間、無情にも授業が始まるチャイムが鳴った。結局、僕は隼人に謝るタイミングも失い、恋人に続けて友達まで失ってしまった。


 恋人も友達も失った僕に残されたものはただ一つ、ピアノだけだった。こんな中途半端な実力でも、これまで人生を捧げて来たピアノ以外に、僕のアイデンティティを預けられるものは何もなかった。こんな最悪な日だが、今日はレッスン日だ。こうなったらやけっぱちだ。どうとでも弾いてやればいい。どうせ、僕にはピアノしかないんだから。


 だが、僕の演奏をじっと聴いていた福崎先生は厳しい表情でこう言った。


「何があったのかは知らない。でも、自分の苛立ちをピアノにぶつけるのはやめなさい。今日の霧島くんの演奏には美しさの欠片もない。乱暴に鍵盤に当たり散らしているだけ。ペダリングも汚いし、音の粒も揃っていない。フォルテは鍵盤を叩きつければいいというものではないわ。ピアニッシモになると途端にやる気をなくしたかのように適当になるし。こんな調子ならレッスンを続けていても仕方がない。もう、帰りなさい」


苛立ちが最高潮に達していた僕は、思わず福崎先生に声を荒げた。


「・・・僕には、僕にはもうピアノしかないのに。ピアノに人生懸けるしかないのに。僕の演奏、そんなにダメですか? 何をどうしたらいいって言うんですか? 僕はやっぱり才能がないから? プロになるなんて夢のまた夢だから? だから、僕なんかピアノをやめた方がいいってことですか?」


すると、福崎先生はそんな僕をピシャリと叱りつけた。


「今のあなたはピアノに人生を懸けているようには見えない。才能以前の問題です。今の演奏をあなたは本当に聴衆に聴かせるつもり? そんなもので聴衆の心を惹きつけられるとでも思っているの? 甘えったれるのもいい加減になさい。今のあなたにピアノを弾く資格はありません。あなたがこんな姿勢でピアノに向き合い続けるのなら、もうわたしはあなたを教える気はありません」


僕は腹立ちまぎれにカバンを乱暴にひっつかむと外に飛び出した。ああ、そうか。もうピアノまで僕から去っていくんだな。上等だよ。もう、僕には何も残らないんだから。


 その帰り道、僕はレッスンに向かう彩佳とすれ違った。


「律くん、レッスンもう終わり?」


と、彩佳が驚いた表情で僕に声をかけた。そりゃ驚くよな。なんていっても、レッスンを十分で追い出されて外に飛び出して来たんだから。本来なら、僕はまだレッスン中の時間のはずなのだ。


「そうみたい」


僕はそう答えてシニカルに笑った。


「そうみたいって・・・。何か先生の所であったでしょ?」


「別に。僕はピアノを弾く資格なんてないんだってさ。笑っちゃうよな。ピアノに十年懸けて来た僕が、もうピアノ弾くことすらしちゃいけないんだってさ」


「どういうことよ? 全然話がわからないんだけど」


「僕だって知らないよ! でも、僕にはもう何も残ってない。彼氏も友達もピアノも全部残ってないただの空っぽの人間だ」


と僕は投げやりに放言した。その発言を聞いて彩佳は心底驚いた顔をした。


「彼氏も残ってないって津々見さんはどうしたの?」


「奏佑とはもう別れた! あいつには僕なんかいない方がよかったんだ。僕がいればあいつのキャリアに傷がつく。僕のせいで奏佑のピアニストとしての人生がぶっ壊されるんだ。そりゃそうだよな。ピアノを弾く資格もない僕が奏佑のそばにいるなんてそんなおかしい話ないもんな」


その時、僕の頬を彩佳の平手が食らった。彩佳は目を真っ赤にしていた。僕を睨み、今まで見たことのないような怒りに満ちた表情を見せていた。


「律くん、わたしに言ったじゃない。律くんは花崎響輝にはピアノでは敵わない。それでも津々見さんを想う気持ちは誰にも負けないって。絶対に津々見さんを独りにはしないって。そう言ってわたしを振ったでしょ。それなのに、何? もう別れた? 僕なんかいない方がいい? 律くんの津々見さんへの想いなんてそんなものだったの? 見損なったわ」


「彩佳に何がわかるんだよ! 奏佑の将来のこと、まともに考えたこともないくせに、わかったようなこと言うなよ!」


僕も感情的になって言い返した。すると、彩佳はその真っ赤な目から涙をはらはらとこぼした。


「わたしの気持ちなんかまともに考えたこともない律くんが、よくそんなこと言えるわね。僕にはピアノしかないとか言って、わたしのことなんか見向きもしなかった癖に、いざ津々見さんと出会ったら恋に芽生えたとか言い出して、わたしとは付き合えないと振った挙句、結局津々見さんの将来のことを考えて別れました? どれだけわたしを振り回せば気が済むの!」


彩佳はそう僕に涙ながらに怒鳴ると、僕を置いたまま歩いて行ってしまった。

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