第58話「甘やか執事の怒り」


――あたしが“彼”とはじめて出会ったのは、あたしがまだ本当に幼かったころ。


 ろくに屋敷に帰ってこないで仕事ばっかりのパパへの不満をうまく消化できず、すこしだけ荒れていたころだった……




 その日、あたしはパパに造ってもらったばかりのメルベルたちとピクニックにでかけた。


 ずっとさみしそうだったあたしを気遣って、メルベルが言い出したのだ。


 ……あのころはまだ、メルベルもけっこう真面目なメイドだったんだよね。


 でも、そのころまだ彼女やガーコに心を許していなかったあたしは、日ごろの鬱憤のやつあたりをするように、とあるいたずらをした。


 ちょっとだけ彼女たちやパパを困らせてやろうと、ピクニック中にひとりでこっそりぬけだして、行方をくらましたのだ。




 ……その結果、見事に迷子になった。




 そもそも、屋敷からすらろくに出たことがなかったあたしが、領内とはいえ見たこともない森の中をひとりで歩けるわけがなかったんだ。


 自業自得……だから、絶対泣きはしまいとなけなしの意地で、あたしは心細さを押し殺して森の中をあてもなくさまよった。


 でも、そこへ見たこともない生き物――野生の魔獣がひょっこり現れたものだから、意地を張るどころじゃなくなった。


「ぎゃぁぁぁ~~~~っ!?」


 はじめて見るその異様に、あたしは反射的に半泣きで叫んだ。


 それに刺激されたように、魔獣はたちまちあたしをロックオン。


 大きく裂けた口から牙とよだれを覗かせて、あたしを睨んだ。




 ……もうだめだ、死んだ。


 そう思った。




 でも、魔獣があたしに襲いかかったその瞬間、空からなにかが飛来。


 それは魔獣をたちまちボッコボコにして、追い返した。


 その正体が、あたしよりかなり年上のお兄さんだとわかったのは、魔獣が去った後だった。


「大丈夫ですか、お嬢さん?」


 呆然とするあたしに振り返り、ほがらかにほほ笑むお兄さん。


 ……まるで王子様のような、さわやかな美形の青年だった。


 でも、その時あたしが一番目を奪われたのは彼のその顔ではなく、彼の背中から生えた双翼……その時はまだ白かった、天使の翼だった。


 そう、彼は本物の天使だった。


 神に仕える天空の使い……お話でしか聞かなかったそれが、あたしの目の前にいたのだ。


 でも、その翼はほどなくして黒く染まる。




「どうか、貴方に仕えさせてほしい……おはようからおやすみまで、貴方のお世話をさせてください!」




 ケガをしていた彼を手当てしたあと、突然あたしにそう言った彼の白かった翼はいつしか、それでもなお美しい黒い翼へと変わっていた。


 ――魔族のあたしに心を奪われたその瞬間、彼は魔に染まり、“堕天”したのである。


 それが、あたしと“堕天使フィリエル”との出会いだった……


 


 ◆




「――ずいぶん様変わりしましたね、ジデル様」


 あわや叩き潰されようとしていたお嬢様をお救いし、僕はジデルと対峙する。


 ……ジデル、だと思う。


 なにせ、ジデルがお嬢様を狙っているというので駆けつけてみれば、そこにいたのはガラド様よりもさらに巨大でまがまがしい風貌の獣人……


 もとのジデルとは似ても似つかない異形だけど、ほかにそれらしい姿は見えないから、そうなのだろう。


「貴様こそ、その姿……」


 一方、ジデル(確定)は僕の姿を見るや、恐れをにじませた驚きの形相でこちらを睨んでいた。


「まさか、天使とは……地上に干渉できない神々に代わり、天から遣わされる使者。 だが、その黒い翼……貴様、堕天使か」


「よくご存じで……今時、神々や天使の実在を知る者は、そういないものなんですがね」


「伊達に長く生きてはおらんでな。おおかた、我々魔族の動向を探るため天から遣わされたのだろうが、それがそんな小娘の執事とはな……その小娘にかどわかされ、堕天したか」


「まあ、おおむねそのとおりですかね」


 そう、僕はもともととある女神に仕えていた天使だ。


 ……僕に無茶ぶりばかりして振り回す、本当に困ったお方だった。


 僕が地上に来たのも、ジデルが言うとおり、この五百年おとなしくしていた魔族の様子を探るよう、その女神様に言われたためだった。


 でも、そこで出会ってしまった……本物の女神がかすむほどに可愛らしい、ちいさな女神に。


 女神様への感情はどうあれ、僕の天使としての使命感と神々への忠誠は本物だった。


 けど、ルーネお嬢様との出会いはそのすべてを塗りつぶし、僕は彼女に仕えることを誓ったのだ。


 その結果、僕は堕天した。


 理由はどうあれ、魔族に心を奪われたのだから当然だ。


 そう、僕はサキュバスの能力とか関係なしに、お嬢様に魅了されたのである。


「ただ者ではなかろうと思っていたが、よくもまぁこれまで何食わぬ顔で正体を隠してきたものだ」


「それはこちらのセリフです。あなたこそ、好々爺こうこうやを装っておいてだいそれたことをしでかしてくれたものです」


「ガラドからすべて聞いたか。それに、貴様がここにいるということは……」


「ええ、ガラド様には少々痛い目にあっていただきました……命はとりませんでしたが、最強の獣魔であるあの方でなければ十回は死んでるくらい、ボコボコにしてきました」


 脅しではなく、僕はただありのままの事実を話した。


 ガラド様をおとなしくさせるには、それくらい痛めつける以外手がなかったのだ。


 そのあと僕は魔王城へ向かって飛び立ち、そこから空間転移でここにやってきた。


 お嬢様がこの部屋にいるのは知らなかったけど、彼女の魔力を頼りに座標を選択してすっ飛んできたのだ。


「まさか、あのガラドが……いや、相手が相手なだけに無理もない、か」


 僕の言葉を、ジデルは驚くでも笑い飛ばすでもなく、神妙に受け取る。


 ……天使なら、それくらい造作もない。


 それを承知しての態度だった。


 そう、僕の力ならその気になれば、ガラド様の命も簡単に奪える。


 でも、ミランくんの手前もあるし、いくらお嬢様に害なす大敵でも、そうほいほいと命を奪うほど、僕も無茶はしない。


「ガラド様ご自身は直接お嬢様に手を出したわけではないので、半殺し程度で済ませましたが……あなたはべつです。ジデル様」


 僕はひややかにそう吐き捨て、背後に座り込んでいるお嬢様を一瞥する。


 お嬢様は大事にこそ至っていないものの、体のあちこちに打ち身のあとがあり、なによりひどく恐ろしい目にあったように、目をうるませていた。


 僕が駆けつけても安堵しきれないほどのなにかがあったのは、明白だ。


「フィリー……メルベルが……ガーコちゃんが……」


 そして、それはか細く震えた声から告げられた。


 僕があたりを見渡すと、近くに不自然に散らばった石のかけらを確認。


 ……それが、ガーコの成れの果てだとすぐに気づいた。


 メルベルの姿はどこにも見えないけど、お嬢様の様子を見るかぎりは、そういうことなのだろう。


 その事実に対して、僕の胸の内に生まれたのは悲しみでも、もちろん失望でもない。


(よく、お嬢様を守ってくれた……ありがとう。メルベル、ガーコ……)


 それは、ふたりへの感謝であり、称賛だ。


 メルベルたちは自らを犠牲に、従者としての役目を果たしたのだから。


 ……次は僕の番だ。


 僕は振り返り、ジデルを睨む。


 僕はめったに誰かに怒り、敵意を抱くようなことはしないけど、はべつだ。


「よくもやってくれましたね……お嬢様の命を狙い、あまつさえその身を傷つけるとは」


 命を狙っただけなら、ガラド様のように多少痛い目を見せるだけで済ませただろう。


 でも、お嬢様の心に恐怖を植えつけ、さらに軽傷とはいえケガをさせた罪は許しがたい。


「あなたには、ここで死んでもらう……覚悟しろ、この


 僕はそう宣言し、にっくき敵に怒りを通り越した殺意を向けた……! 

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