おまけ③ 凄く……
妻と結婚を果たしのは二十三歳になった年。就職をして、少し渚の容体も回復傾向に向かい、長らく続けていた入院生活も一時終えれた、そんな頃だった。
会社の上司にも恵まれて、渚も久しぶりのシャバの空気を堪能するようにしていた姿を見て、いつか誓った約束を果たす時がようやく来たんだと思い、二人で役所に婚姻届を書きに向かった。
まだ俺達が二十歳の頃、あの頃に渚に突き付けられて、突き返した婚姻届は結局使わなかった。あれは俺達が結ばれたことの証であり、あれを手放すことを直前に惜しいと二人して思ったためだ。
だから、わざわざ役所でもう一枚、婚姻届を書いて提出することに俺達はした。途中、渚が慣れ親しんだ病院の住所を本籍地として書くアクシデントもあったが、何とかようやく俺達は結ばれることが出来たのだった。
あれから一年後には、渚の容体は再び悪化。
一時は目を開けることすら辛そうにしていて、唐突に訪れかけた終わりを思わず意識してしまうこともあった。何も出来ないとはわかっていたが、やはり自分の無力さを実感させられることは辛かった。
だから、彼女が再び山を乗り越えて目覚ましい回復を果たした時には嬉しかった。
生きて欲しい。
そんな俺の願いは、実は言葉にするより大変なことなんだとその時わからされた。
だから、彼女が嬉しそうに書いた遺書を受け取ることは躊躇わなかった。
あの時、彼女がどんな気持ちでそれを書いていたかは、なんとなくわかっていた。
渚は、一時死にかけた。
だからこそ、思ったのだろう。
思いを残さず逝きたくない、と思ったのだろう。
思いを託されずに、逝かれたくない。
だから、俺もそう思った。
受け入れて、先を歩んだ。
そうして、それから三年の月日が流れた。
最近の渚は経過診断に行く程度で済むくらいに、容体が安定していた。菜緒の父にも、奇跡だと感心げに、嬉しそうに言われた。
幸せな時間だった。
長時間労働の後、病院に見舞いに行く生活も嫌いではなかった。
命の灯を感じさせる毎日は、たった一つ路上に咲く花でさえ、愛おしく、美しいと俺に思わせた。
疲労感や苦痛はなかった。
長時間労働疲れで重い気持ちで病院に行っても、渚の微笑みを見ればそんな気持ちはすぐに吹っ飛んだ。
だから、辛くはなかった。
ただ一つ、嫌だったことがあった。
それは、家に渚がいないことだった。
顔を会わせるには病院に行かなければならないことだった。
家に帰れば渚がいる。
ご飯を作って待っている。
夜、渚の温もりを感じながら寝れる。
そんな生活を望んでいたんだろう。
だから、病院に通う生活も嫌いではなかったが……今の生活はもっと好きだった。もっと幸せだった。
そんな生活を、嬉しくも三年近く俺達は送れた。
二十歳の頃、こんなにも充実した時間を過ごせるなんて思ってもみなかった。望んではいたが、思ってはいなかった。
ようやく掴んだ幸せな生活は、どんな些細なことでだって俺の心を満たしてくれた。
渚の容体も考えて専業主婦に専念してもらい、申し訳ないが裕福な生活は送れていなかったが、幸せな生活だった。
人生を彩る物は、金だけではないんだなと思わされた。
俺の人生を彩ってくれるのは、いつだって渚だった。
だけど、一つだけ憂うことがあった。
それは……。
「渚、結婚式挙げない?」
「挙げない」
渚にウエディングドレスを着せてあげれていないことだった。
……と言うか、速攻否定された。
会社の社宅。今の俺達夫婦の住居であり、都心の割に比較的安く賃貸出来ている、所得難である俺達にとっての生活の要の家。
そんな家での夜。
残業終わりに帰宅し、渚の振舞ってくれたご飯を食べて、渚が買って出てくれた食器洗いを見送りながら、俺は最近思いつつあった渚への憂い事を彼女に提案したのだった。
しかし、即否定されるとは思わなかった。
小さい頃渚と、彼女の実家でドラマを見た。小さい頃見るトレンディドラマは、我ながら感受性が豊かではなかった俺からすれば面白みのかけらもないものだった。だからあくびなんかを掻きながら、寝でもしたら渚に何をされるかわからないと必死に堪える、そんな時間を過ごしていた。
だけどやっぱりそんなドラマ、小さい頃の俺には興味はなくて、遂に眠気の限界を迎えた時、ふと渚の顔を眺めたのだ。
その時の渚の顔は……羨望とは、こういうもののことを言うのだろう。
そう思ってしまうくらい、テレビにくぎ付けになっていたのだ。
丁度その時流れていたドラマの一幕は、主人公とヒロインが結ばれ結婚式を開く、そんな場面だったのだ。
渚というかつての少女は。
お淑やかな性格であるが、時には暴力も振るうし、口も荒れることもあった。俺を負かすことで得た快感に、悦に浸っていることだってあった。
そんな彼女に負かされたことは数知れず。泣かされたことも数知れず。
なんだか思い出しながらお淑やかとは対極にいそうな人だと思ったが、それは一先ず置いておいて。
とにかくそんな性格であったことが影響していたのか、彼女は滅多に我儘を言わなかったのだ。一切。おくびにも。
そんな我儘を見せない彼女が見せた羨望の眼差しは、彼女の意外な一面として未だに記憶に残っていた。
結婚式に憧れているのだろう、と勝手に思っていたのだ。
二つ返事されるのだと、思っていたのだ。
「なんで拒むのさ」
「いやだって、いいよ。結婚式くらい」
「二人の門出を祝う大切な行事だろう」
「そう言って、婚姻を結んだのは随分と前だし」
「なるほど。これが倦怠期か」
俺は腕を組んで納得げに頷いた。
あの日……渚に婚姻届を突きつけた日以来、未だ俺の中には彼女に対する燃え上がるような思いがあった。だけどまあ、時間を経て気持ちが冷めるなんて珍しいことでもない。彼女の想いだって、冷めることがあっても何らおかしくない。
「はいはい。また変なこと言ってら」
渚が呆れて唇を合わせた。
キスすれば納得すると思っているあたり、安く見られたものだ、俺も。
……良かった。冷めてなかったみたいだ。ほっ。
「でもさあ、それじゃあ断る必要ないじゃないか」
「あるよ。結婚式、凄いお金かかるんだよ? 軽々しく出来ることじゃないって」
「貯金額だって程ほどに貯まっただろう」
まあそりゃあ確かに潤沢には程遠いが、人並みにはある。
「でも無茶なことには変わらない」
渚は話を締めるようにそう言った。
「ウエディングドレス、着たくないの?」
「うん。全然」
はっきりとそう言われると、それ以上の言葉は出てこなかった。
幼少期。
小学校低学年の時。
彼女とはほぼ毎日一緒に遊んでいた。と言っても、尻に敷かれる毎日だった。
小学校高学年、中学校になると疎遠になり、高校、大学は別々の学校へ進んだ。
だけど、二十歳の成人式の日に再会を果たして、それから愛を紡いできた。彼女は結局大学を中退した。都心の病院に転院するために。
それからは毎日会ってきた。一日だって欠かさず、会ってきた。
俺は彼女のことを愛していた。
だけど多分、同じくらい彼女は俺のことを愛してくれているのだろう。
そんなことは最早、これまでの彼女との生活で嫌というほどわからされてきた。
そんな彼女を幸せにしたいと思った。
いつか死別するその日まで、幸せにしたいと思ったのだ。
彼女は結婚式なんて興味はないと言った。
しかし、それが俺が結婚式を諦める理由にはならなかった。
人生で結婚式が行えるのは、基本的に一度だけ。そのたった一度の晴れ舞台を。俺達の門出を。
あの時、テレビを羨望の瞳で見つめていた渚の夢を、叶えたかった。
それから俺は、珍しくも自発的に行動する日々を送った。
休日の度にスマホをいじり結婚式の情報を集め、都内で行える格安の結婚式を探した。
「しないよ、しないからね」
俺のスマホの暗証番号を知っている渚は、定期的にする俺の検索履歴確認の度に呆れたように言っていた。
それでも俺は諦めずに情報を集め続けた。時々買い物に行こうと嘘を吐いて、ブライダル会社に連れて行ったりもした。まあ結局は駐車場までしか連れて行けず、まともに見積もりを取れた試しがないのだが。
そんな生活を三か月くらい送っていた。
中々好転しない状況だったが、これはこれで楽しいのでヤキモキしたりもしなかった。なんだかんだ、容体の安定した渚と一緒に出掛けられることは嬉しかったし、楽しかったのだ。
そうして、いつの間にか目的が変わりだした頃、ふと俺は気付いたのだった。
なんだかんだ俺の意思を尊重してくれる渚にしては、今回の件は頑なだな、と。
なんと言ったって彼女は、どんなに辛くても生きてくれ、と言った俺の願いを叶えてくれるくらい俺に甘いのだ。
そんな彼女にしては、今回の件はとにかく頑なだった。
まるで本当にウエディングドレスを着たくないみたいに、頑なだった。
「ねえ、渚。聞いてもいい?」
「ん、何?」
「ウエディングドレス、そんなに着たくない?」
唐突な俺の言葉に、渚はまたその話かと言いたげに呆れて……そうして不貞腐れたように俯いた。
「……着たくない」
「なんで?」
思えば、こうして彼女がウエディングドレスを拒む理由を聞いたのは初めてだったと今更俺は気付かされた。
俺達は愛し合っている。
言葉にもするし、態度でも行動にもするし。それは最早不変的な事実だった。
だからだろう。
俺が、どんなことでも俺と渚の気持ちは一緒だ、とそう錯覚してしまっていたのは。
彼女は俺と違う人生を歩んできた。
それは一時疎遠になった過去からしても、生きることさえ困難な大病を背負っていることからも、明白だった。
明白だったのなら……俺と渚の気持ちに乖離があって、当然ではないか。
多分、俺は渚にウエディングドレスを着て欲しいと心から思っていたのだろう。
好いた彼女のかつての夢を叶えたいと思ったから。
だから……いいや、多分それだけではない。
あの時、テレビに羨望の眼差しを向ける彼女を見た時。
俺は想像していたんだ。
大人になった彼女がウエディングドレスを着たら、どれほど美しいのだろうか、と。
今もそうだ。
彼女のウエディングドレス姿を、俺は見たかった。目に焼き付けたかったんだ。
でも彼女は、ウエディングドレスを着たくないと言う。
一体、何故?
「……幻滅するよ」
「何に」
「ヒンソーな体に」
長い闘病生活を送って。
渚の体は、闘うためにたくさんのエネルギーを消化した。快復した今でも、闘った傷跡は体に現れていた。
ウエディングドレス姿は美しいもの。
それは当然のことで、もしそうでなければおかしいこと。
そして渚は……どうやら長い闘いの末にすっかり自分の体への自信を失くし、コンプレックスを抱いていたらしい。
だから彼女はウエディングドレスを着たくないと思った。
幻滅されたくないから、そう思ったのだ。
「馬鹿だな、君は」
俺は苦笑した。
「君の体を見て幻滅なんてするはず、ないじゃないか」
俺は渚の気持ちを全て理解しきれていない。当然だ。
だけどそんな俺でもわかっていることがある。そして、渚もわかっていることがある。
俺は渚を愛している。
それは互いに知っていることだった。
不変であることを知っていることだった。
「わかった。じゃあ渚、ウエディングドレスを着たくないか、だなんてそんなことはもう聞かない。代わりに言うよ。
ウエディングドレスを着てくれ。
俺のために、着てくれよ」
俺のために着て欲しい。
……これも、知っていることだった。
彼女の気持ちを全てわかっていない俺でも。
俺の気持ちを全てわかっていない彼女でも。
知っている。
知り合っている。
不変的なことだった。
渚は、俺のことを愛している。
だから彼女は、俺に最後の最後には甘くなるのだ。
「……うー」
低く、渚は唸った。
「わ、笑わない?」
「当たり前だろ」
「……幻滅しない?」
「愚問だね」
「……じゃあ、着る」
そんな一幕を経て、ようやく俺達は重い腰を上げてブライダル会社へお世話になるのだった。
それからはトントン拍子に話は進んだ。
たくさんの人を招いて渚に気苦労をかけるのも嫌だったので両家族だけの結婚式にして、大安の日に予約を入れて。
そして今日、遂に試着の日はやってきた。
いつだってこういうことは、男の方が手早く準備を終えるものだった。着慣れないタキシードに浮足立つ気持ちもあったが、隣に立つ渚に相応しい恰好に着飾れているなら恥も掻き得だと思った。
そうして、さっさと試着を済ませて、渚の母からの連絡で俺は渚のいる部屋へと向かった。
逸る気持ちを抑えることで必死だった。
歩調が勝手に早まる足をゆっくりと進めて、大きく深呼吸をして廊下を歩いた。
扉をノックした。
俺達が住まう家より大きな部屋から、渚の声が返ってきた。
扉を、開けた時……。
純白のドレスが大きな窓から差し込む光を反射させて、思わず俺は目を細めてしまっていた。
赤い絨毯。
純白のドレス。
そして、化粧をした渚の顔。
目を、奪われていた。
純白のドレスを着た渚は、いつか彼女が憂いていたことがまったくの杞憂だったと俺に告げていた。
結婚式は。
結ばれた男女にしか体験し得ない、一種の契りだと思っていた。
それは多分、誤った認識ではないのだと思う。
将来を誓い合った二人が、栄えある将来を望み、末永い将来への契りを交わす。
なんて美しいことなんだろうと、そう思った。
そして、今……。
……幼少期、小学校低学年ではほぼ一緒に遊んでいた。
だけど小学校高学年、中学校では疎遠になり、高校、大学は別の学校へと進んだ。
『明日までに判子を押して持ってきてね』
渚の運転する軽自動車の中、彼女に一枚の紙を渡された。街灯に照らされたその紙を見て目を丸めて、そんな驚愕な再会を経て、愛を築き、今を生きている。
彼女と共に、生きている。
嬉しかった。
選んでくれて、嬉しかった。
一緒に生きてくれて、嬉しかった。
……あの日、婚姻届を突き付けてくれて、嬉しかった。
「渚」
……だけど。
「なに?」
感謝の気持ちを伝える前に、この言葉を彼女に伝えたかった。
「凄く、キレイだ」
……そう言えば。
渚と再会を果たした成人式の日、俺は彼女に同じことを言ったっけな。
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