嫉妬
母に夕飯は不要であることを伝えて、渚の家に向かった。渚の家までの田舎道は、畑ばかりで街灯も少なくて、暗い闇の世界に目が少しずつ慣れていく感覚があった。都会では街灯がない場所なんてなく、すっかり忘れていた感覚に埋没しながら道を進んだ。
盆地特有の気候は、先週の成人式の時から何も変わらず、冷たい空気を俺に与え続けた。悴んだ手は、すぐにジーンズのポケットに仕舞った。首元は、何とか亀みたいに首が縮まないか検証することで寒さを誤魔化した。
渚の家の傍まで着くと、スマホで彼女に電話をかけた。
『もしもし?』
ワンコールで渚は電話に出た。
「もしもし、今君の家の傍」
『そう。じゃあ上がってよ』
「うん。……うん?」
そんな、いきなりお邪魔するだなんて、そんな覚悟は俺にまだ在りはしなかった。
『大丈夫。今は皆、家にいないから』
「本当?」
『うん。お兄ちゃんは仕事。お父さんお母さんは会合だよ』
「……そう言えば、母さんもそんなことを言っていた」
ということは、農協の集まりか何かだろうか。
「わかった。じゃあお邪魔する」
そう言って、かつて散々歩き慣れた彼女の家の敷地内に侵入した。かつては家の前は舗装されていない土道だった気がしたのだが、今ではすっかりアスファルト舗装が成されていた。
「じゃあ、チャイム押すから。一旦切る」
『うん。わかった』
電話を切って、一階のみ明かりの灯った彼女の家を眺めた。玄関のチャイムを押すと、渚の声で律儀に返事をされた。
「こんばんは」
玄関が開いて渚が現れたのを確認して、俺は言った。
「こんばんは。遠路はるばるお疲れ様」
「……全然。お疲れではないよ」
今も心労絶えないであろう大友のことを思って呟いた。渚は何とも言えない顔で苦笑した。
「さ、上がって。夕飯用意してたから」
「……渚が?」
家の中に入れてもらいながら、耳を疑って聞いてしまった。別に、彼女の料理の腕を疑ったわけではなかった。彼女が料理出来るくらい、成長していたことに驚いてしまったのだ。根底にある幼少期の彼女の姿が、俺はまだ抜けきっていないらしい。
「あら、失礼しちゃう。料理の一つくらい、あたしも出来るようになっていて当然でしょう?」
「……そうかもな。ごめん」
素直に謝罪した。気分を害したいわけではなかった。
「さ、上がって」
「お邪魔します」
生唾を一つ飲み込んで、彼女の家にお邪魔した。心臓が高鳴っているのは、俺が緊張している証拠なのだろう。
しかし、胃袋というのは素直なもので、急ぎ帰ってくるあまり昼ご飯もちゃんと取っていなかった体が香ばしい匂いに覚醒した。
途端、腹が鳴り渚に笑われた。
「……あの、早く移動しようと思って昼を抜いたんだよ」
「じゃあ、たくさんご飯食べないとね」
そう笑われた渚に、さっさと台所へ通された。幼少期の記憶は朧気で、かつてからの変化はわからなかったが、とにかく落ち着かないことだけは確かだった。
渚がコンロ周りで忙しなく動いていた。見るに、料理はシチューだろう。
今日渚家にお邪魔するにあたり、取り立てて計画を練って何かをしようと彼女と取り決めたわけではなかった。何せ、俺が今回帰省するのも急に決めたことで、とてもじゃないが精神的にも時間的にも二人で何をするのかを決められる余裕なんてなかったからだ。
だから、一先ず会いたいと彼女に伝えた結果、家に来てよと誘われた際、俺はそれを断る術を持っていなかった。結果、こうして居心地悪く渚に勧められるがまま座った上座で、渚の振舞ってくれる料理に舌鼓を打つことになった。
「悪かったね、今日は突然」
「ううん。昨日の時点でこうなることはなんとなくわかってたから。おばちゃんに言い含められてたし」
「……言い含められてた?」
「うん。宗太の面倒見てあげてって」
「……そうでしたか」
裏で手引きされていたのか。あの親、中々やりおる。
「お母さん達にも散々からかわれちゃったよ。早い時間から準備始めたから」
「……そっか」
そう言って、居心地悪いために彼女の手伝いをしようと思ったのだが、
「長時間の移動で疲れてるんだから座ってて」
渚に怒られたので渋々座りなおした。
しばらくして、渚がシチューを俺の前に置いた。次いで、自分の席に。
「じゃあ、食べよっか」
「うん。頂きます」
「頂きます」
手を合わせて、まずはシチューを一口啜った。
さっきまで加熱していたからなのか、シチューは口内で痛みを与えるくらいに熱かった。まあ、元々俺が猫舌ということも原因の一つであるのだが。そんなわけで、少しだけ口内でシチューを転がさないとやけどしそうで飲み込むことは出来そうもなかった。
口内でしっかりシチューの味を楽しんだ。我が家のシチューは牛乳を入れていないが、どうやら渚の家のシチューは牛乳を入れているようだ。色味は薄く、そして味も随分とクリーミーだった。十分口内でシチューを味わって、飲み込んだ。
「……ど、どう?」
「え?」
食事に夢中なあまり、隣の席で俺を緊張しながら見つめていた渚に気付かなかった。ああ、味の品評を問われているのか、とはすぐに気が付いた。
「美味しい。凄く。このままアパートに住み込みで毎日作って欲しいくらいだ」
忖度なしで、そう思った。
「そ、そう。良かった」
安堵する渚を見て、どうも気落ちしていた内心に晴れ間が見えた気がした。俺は微笑んだ。
それから二人で、口数少なく渚の振舞ってくれた夕飯を頂いた。少しずつこの場での食事も慣れていき、いつしかいつもの気分で食事を楽しむようになっていた。
「大友の家に行った?」
しばらく食事を楽しんだところで、渚に言われた。
「うん。行ったよ。おじさん、死んでいるようにはまったく見えなかった」
「そう。大友は?」
「元気そうだったよ。空元気にも見えたけどさ。まあ、塞ぎ込んでなくて良かったかな」
「そっか。宗太がそう思えば大丈夫なんだろうね」
「いや、そんな大層な立場じゃないよ」
「そんなことないよ」
渚が手に持っていた食器を机に置いた。なんだか、いつもより暗い感じに見えた。
「正直、妬いちゃうよ」
「……何が?」
「二人の関係」
一瞬、思考が固まった。それはつまり、俺と大友の関係を言っているのだろうか。
「小さい頃からずっと遊んできて、東京に行く時間が重なれば一緒の電車で帰って行って、一時は毎日電話するような時もあって。親族に不幸があれば急いで上京先から帰ってきて。顔を見せてもらってきて。それで、こんなにも落ち込んでいる。
そんなの、ほぼ彼女じゃん」
「いや、大友は男だ」
「でももし、二人が異性間だったら……多分、カップルになってたよ」
開いた口が塞がらなかった。まさかそんなことを言われる日が来ようとは。大友が一番の親友であることは認めるが……そんなふしだらなことを思ったことは一度だってなかった。
しかし、第三者である渚からすれば大友と俺の関係は面白くないらしかった。嫉妬深い自分に困惑しているのか、はたまた荒唐無稽なことを言っている自覚があるのか、渚は口をすぼめて俯いていた。
「……でももし、そんな状況があったらそうだったかもしれない」
そう言うと、渚が悲しそうにしたのがわかった。
「でも、俺が好きなのは渚だ。渚なんだよ。しょうもないことで妬いてくれて、すぐ悲しそうな顔をする渚なんだよ」
それが偽りない心境だった。
確かに大友が俺の一番の親友であることは事実だ。もし異性だったらどうなったのかはわからない。なるだけ考えたくもないが。
でも、それはあくまでもしそうだったらの話で、この世界での話ではない。
この世界で俺が好いた人は渚であり、渚以外の人と将来を歩むだなんて、今や考えられなかった。
「……うん」
渚はあまり納得していないようだった。それが彼女が嫉妬深いせいなのか、はたまた客観的に見てそれほど俺と大友の関係が危ういからなのか、判別は付きそうもなかった。
ただ、どうすれば渚を慰められるのだろうかと俺は考えていた。
彼女の悲しそうな顔を見たくない。
付き合って日も浅いというのに、いつの間にか随分と俺は渚に傾倒していた。
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