大人は間違える

 いい親でなければいけない、いい子でいなければいけない、空気を読み間違えてはいけない。間違ったことをしてはいけない。それはどうしてですか?

 純粋な子どもが、ただ正しいとそれてきたことだけを目指すことは、どうなのでしょうか。

 子どもは、生活する中で、自分で感じとり判断することができていますか? なぜ学校にいくのでしょうか。なぜ外で人と関わるのでしょうか。大人は、自分の責任とは何か、なぜ働くのか、なぜ家庭を作るのか、自分のしていることは好ましい目標に近づくものなのか、思考することができていますか?

 あの人はあの仕事をしているから優秀だ、あの子は礼儀正しいいい子だ、あの人は3人もこどもを育てている。あの人は年収が高い。事実だけ見て完結していますか?

 どんな実情で、どんな内面なのか、想像したり自分だったらどうするのか、考えてみることはなく、一般的と思われる評価を鵜呑みにし、完結してしまう。それは、子どもにとっても、大人にとっても、自分なりの価値観や判断力を養うこととは程遠いことです。

 わがままや自分のことばかり主張してもうまくいかない、それは一理あります。でも、周りの人と折り合いをつけてかつ、自分の思うことや目標を言葉にし、実現していくことであれば、それはするべきことであり、その能力は、財産となるとも言えるのではないでしょうか。

 他の人と比べ、環境に不満ばかりをもち(親の経済的理由や理不尽な失業など自力で変えようがない環境は問題と捉えていいと思います)、なにひとつ解決にならない行動をとることは簡単です。親が子どもに、「ほら、うまくいかなかった。だから言うことをききなさいっていったでしょ?」と、状況のみ確認し、子供の力不足を指摘する。それはよくあることです。そのあと、子どもは責められたと感じ、そこで完結してしまうか、次はこうしてみよう、と具体的で現実的な行動の準備がてきるか、「次はがんばる」と思ったり宣言はできるけれど具体的な行動にはつなげられないか、親の指摘に責められた怒られたと感じ萎縮するぱかりなのか、それは普段の、親と子の間の言葉かけや関係、問題に対処する力の質によって、違ってくるのでしょう。

 大人も、同様に、なにか問題が起きた時に、何をどうすれば解決に向かうのか、具体的な推論と、行動の準備ができず、あるいは「あのとき環境がこうだったから」「あの人がこう言ったから」と自分以外の要因はすらすらと、言葉にでてくる。でも自分側の原因にはなかなか考えが及びにくく、具体的な解決策がすぐ思い浮かばない。無意識にこのような行動しかとれない、言い訳をしている自覚がない、これは危険なことです。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る