「僕らのカタチ」by YOU KITAZONO
@Talkstand_bungeibu
「僕らのカタチ」
いつもより速いペースで飲んでしまったようだ。思った以上にアルコールが回っている。酔ったままの勢いで彼女と別れたくはなかった。酔いをさますためにトイレの洗面台で数回顔を洗い、鏡に映った濡れた顔を見てひとつため息を吐(つ)く。六年、と呟いた言葉には何の感情も含まれなかった。
トイレから席へ戻りかけて足を止める。綺麗に片付いたテーブルの上を彼女はぼんやりと眺めていた。
かつての彼女は聡明(そうめい)で溌溂(はつらつ)としていて眩しいくらいに輝いて見えた。この六年のあいだに彼女は何を失ってしまったのだろう、僕は彼女の何を失わせてしまったのだろう。僕との時間がなければ彼女はあの頃のままだったのだろうか。
夜の丸の内は仕事帰りの人で賑わっていた。街路樹を彩るイルミネーション、どことなく浮かれた金曜日の喧騒(けんそう)、人々が行き交う街中で僕は腕時計に目を落とす。短い針は文字盤の上の七を指し、長い針は間もなく五を指そうと少しずつ動いている。いつもならこの時間でもまだオフィスにいることがほとんどだが今日は遅れるわけにはいかず仕事を早めに切り上げた。しかし、約束の時間をニ十分以上過ぎても彼女は現れなかった。
カバンからスマートフォンを取り出してみても新着はなく、連絡しようと思いショートメッセージのアプリでメッセージを打つが遅刻を咎(とが)められたと受け取られそうでやめた。
彼女を待つのはこれで何度目だろう。日によって程度の差はあるが海外とやり取りをしている彼女の仕事はいつも忙しく、仕事終わりの映画やコンサート、観劇など、無駄にしたチケットは何枚もあったし、僕の仕事がたまたま早く終わって彼女のために家で夕飯を作ったことも何度かあったが、そのほとんどが無駄になってしまった。彼女の仕事が彼女の扱う商材や顧客にどのような影響を与えるのか僕は詳しく知らない。しかし、僕らの生活にもたらした影響よりは小さいだろう。
雲ひとつない夜空にまだ月は見えず、見上げているうちに昔のことを思い出す。
昔は僕が遅れることはあっても特別な理由がない限り彼女が遅れたことはなかった。それが大学を卒業してお互い就職をした頃から彼女は徐々に遅れるようになった。こんな時くらい、最後くらい遅刻をしなければいいのに、とも思ったが最後くらい遅刻を許せばいいということにもなる。どの道、これで最後だ。
腕時計に再び目を落とすと長い針は文字盤上の九の少し上を指していた。その時スマートフォンがカバンの中で鳴った。彼女からかと思いスマートフォンをタップすると知らない番号からの電話だった。電話に出ると予約を入れていたお店からの電話だった。予約の時間に間に合わなかったことを詫びて、もう少し待って欲しい、と依頼すると、お待ちしておりますので気を付けてお越しください、と快諾されたので、礼を言って電話を切った。そして、何度も繰り返してきたシミュレーションを再び頭の中で行う。お店のドアの前に立ち、やってきた彼女を笑顔で迎える、彼女のためにお店のドアを開き、席に着いて、メニューを吟味(ぎんみ)する、食前酒からデザートまでをオーダーして食事を済ます、会計をカードで切って、再度彼女のためにドアを開き、そこで別れる。
僕らの六年続いた結婚生活はそこで終わる。つまらない形式主義だと彼女は笑うだろう。ただ、最後くらいちゃんとしておきたかった。
電話がかかってきたお店の前で待つのが何となく気まずくて、少し離れた東京駅南口の交差点で向こう側から渡ってくる人々を眺めていた。しばらくすると遠くからハイヒールを鳴らして走ってくる背の高い女性が見えた。点滅を始めていた歩行者用の信号がすんでのところで赤に変わりその女性は足を止める。膝丈の紺のタイトスカートに縦のストライプが入った薄い空色のシャツ、タイトスカートと同じ色のジャケットを羽織り、黒いバッグを肩からかけた彼女がひとつ大きく息を吐くと、こちらを慎重に伺った。人影に紛れていた僕には気付かなかったようで信号が青に変わるのを待っている。僕はお店まで戻ってドアの前に立って彼女を待った。横断歩道を渡ったところで僕に気付いた彼女が軽く手をあげた。僕はそこで初めて彼女に気付いたように手をあげ返した。彼女は足を早めることもなくゆっくりと近付いてきた。
「ごめんなさい。また待たせちゃったわね」
彼女の息はすっかり整っていて交差点前で見かけなかったら、ずっとそのペースで歩いてきたと思ったことだろう。言い訳がましいことはしないし、言わない。出会った頃から変わらないそんな彼女の潔さが好ましいものから疎(うと)ましいものに変わったのはいつの頃からだっただろう。
「大して待ってないから、気にしなくていいよ」
僕はいつものように言って、お店のドアを開けて彼女を先に通した。
彼女に続いてお店の中に入って僕は少したじろいだ。店内は白い大理石で統一されていて清潔感があり、吹き抜けになった天井は高く、グランドピアノが置かれていて真紅のドレスを纏ったピアニストが控えめな音量で優雅に演奏をしていた。
黒いスーツを着た初老の男性が予約表らしきものを見ながら落ち着いた声で、いらっしゃいませ、と言った。あらかじめ予算などを調べて覚悟はしていたが、僕にはまだ分不相応なお店だった。彼女は仕事柄こういった場所に来ることが多いと以前言っていたので別段気にした風もなかった。
遅れたことを再度詫びて名前を告げると初老の男性は柔らかく微笑み、お待ちしておりました、と言って僕らを中二階(ちゅうにかい)の窓際の席に案内してくれた。男性が彼女のために椅子を引き、続いて僕のために椅子を引く。向かい合って座る僕らの右手には金魚の泳ぐ水槽がはめ込まれた窓があり、金魚が泳ぐ向こう側を在来線と時折新幹線が走るのが見えた。窓の外は水中世界のようだった。円卓には白いテーブルクロスが引かれ、その真ん中に置かれた小さなガラス瓶の中で蠟燭の火が揺らめいていた。中二階の席には僕らの他にも何組か客がいて静かに食事をしている。今日は僕の持っているスーツの中で一番上等なものを着てきたつもりだったが彼らが着ているものと比べると見劣りがした。
「素敵なお店ね」
彼女が店内を見回しながら言った。
「もっと気軽に入れるお店にすれば良かった」
「そんなことないわよ、私こういう雰囲気好きだな」
二人で店内を眺めていると皮の分厚いメニューが二冊、テーブルの上に置かれた。メニューを開いて僕が戸惑ったのを察したのだろう。
「私は、そうね、食前酒はキールにしようかな。あなたはどうする?」
彼女は自分の希望を言うような形で、さり気なく僕に助け舟を出してくれた。何度シミュレーションをして来ても慣れていない僕はこの様だ。彼女の助けを借りながら何とか食前酒からデザートまでを決める。このようなお店に来たことが無かったので、もう少しカジュアルなお店を選ぶべきだったのかもしれないが今日だけはしっかりとしたところを選びたかった。
僕らのテーブルから下階にいるピアニストが見える。吹き抜けの下のピアニストはさっきとは違う曲を演奏していた。下階に視線を向けていた彼女が僕に視線を戻し、隣の座席に置かれている黒いバッグからためらいがちに茶封筒を取り出した。
「それで、これを」
「うん」
手を伸ばして出しにくそうにしていた彼女の手からその茶封筒を受け取る。茶封筒の中身は誰にも分からないし、恥じるものでもないが、何となく受け取る方も気が重くなってしまう。たった一枚、薄い紙切れが入っているだけなのにその茶封筒は気分とは違って軽かった。その軽さは僕らの六年間を終わらせるには物足りないような気もしたが、その程度のものなのかもしれないとも思った。
「ねえ」と僕が仕舞おうとしていた茶封筒に目を向けたまま彼女は言った。「それ、本当に頼んじゃっていいのかしら?」
「いいよ、近いうちに出しておく」
僕は自分のカバンに茶封筒を仕舞うと言った。
「あと、証人の欄も空欄のままだけど」と彼女が言いにくそうに言った。
「ああ、それも大丈夫。もう櫻本(さくらもと)に頼んである」
「そう、櫻本くん。懐かしいな」と彼女は頷いて「彼がいなかったら今の私たちはいなかったのかもしれないのよね」と呟いた。
僕らが出会ったのは大学三年生の春のことだった。あの大きな地震が起きる少し前のことで僕は上京して三年目、東京の片隅に住んでいた。北国で漁師をやっている父と水産加工会社でパートをしている母から仕送りをもらってはいたが、それでは生活費だけしかまかなえなかった。それまでも飲食店でバイトをしていたが就職活動が始まってからは交通費をねん出することが難しくなって掛け持ちで塾の講師を始めた。あの頃の僕は大学とバイトと就職活動に明け暮れていた。
僕らの年代の就職活動は世界的金融危機やリーマンショックなどの影響も引きずっていて就職氷河期と変わらないほど状況は厳しかった。何十社受けても内定が出ず、就職を諦めて留年を選択する友人もいた。両親はそんな状況も鑑(かんが)みて内定が出なかったら留年をしてもいいと言ってくれたが、彼らにこれ以上経済的な負担を掛けたくなくて僕は諦めずに就職活動を続けていた。
春休みもそろそろ残り一ヶ月を切ろうとしていたある日、僕と同年代の塾講師のバイト仲間に「就活セミナー」に誘われた。その手のセミナーはごまんとあって、どれもあまりためになりそうになかったので一度も行ったことがなかった。でも、その時は就職活動に行き詰まりを感じていたことと、無料ということもあって参加することにした。そのセミナーに誘ってくれたのが塾講師仲間の櫻本だった。
セミナーは彼の通っている大学の教室で行われるらしく僕のように彼と大学が違う学生も参加していた。様々な大学からたくさんの学生が来るだろうと想像をしていたのだが参加者は二十人程度だった。それも彼の大学の同級生が大半を占めていたので若干の気まずさも感じた。セミナーの内容も今となっては詳しく覚えていない。その日はセミナーよりも印象的な出来事があった。
セミナーはお昼から始まり終わったのが夕方だったので、お決まりの飲みに会は移行した。その飲み会で今まで女の子と付き合ったことがない僕に気を遣(つか)ってくれたのか、櫻本は僕の隣の席に彼女を半ば無理やり座らせた。その当時の彼女は櫻本と同じ大学の同じ学部の同級生だった。あまり社交的ではない僕は彼のお節介に少しムッとしながら当たり障りのない話しかできなかったのを今でも覚えている。それが彼女との初めての出会いだった。
ウェイターが食前酒を持ってきて彼女の前にキールを、僕の前にシェリーを置くと軽く一礼をしてから立ち去った。僕らはグラスを手にして、お互いに顔を見合わせた。こういう場合は何に対して乾杯をすればいいのだろう。お互いの将来、それとも…。少しの逡巡の後、僕は何も言わずに彼女のグラスに僕のグラスを軽くぶつけた。キン、と軽い音がして僕も彼女もそれぞれの飲み物を口に運んだ。
「就活セミナーの後の飲み会で櫻本くんにさ、無理やりあなたの隣に座らされたこと、あったじゃない?覚えてる?」
「うん、覚えてる。そんなこともあったね」
「あの時、ムッとしてたでしょ?」
グラスをテーブルに戻して彼女は言った。
「そうだね、ムッとしてた」と僕は笑った。
「それと緊張してるのも分かって、あぁ、この人はあまり女の子と話したことがないのかもしれないな、と思ったら…」
「大当たりだった」彼女と僕の声が重なって僕らは笑った。
「純粋なんだなって思うと同時に」彼女はそこで言葉を切ってグラスに入った薄紅色の液体を見つめている。
「同時に?」
「少し、かわいいなって思ったの」
彼女はちょっと照れたように笑いながら言った。
続けて「まだ若かったし」と言う彼女に僕も「そうだね、まだ若かったし」と返した。
僕らの関係を辿って行けばあの日に行き着くのだろう。しかし、僕らはすぐに親しくなったわけではない。
就活セミナーから二週間くらい経った忘れもしないあの日、その日も僕は就職活動のために都内へ出ていた。企業の説明会の途中で世界が大きく揺らいだ。ちょっと強い地震だった。そう、初めはそんな風に思っていた。地震も日本に住んでいれば珍しいことではないし慣れていた。だから事態の深刻さを知ったのは夜になってからだった。都内は大混乱に陥っていた。公共交通の類は全線不通で帰宅する術は大渋滞の中のタクシーか徒歩以外にはなかった。朝になるのを待ってから帰宅することも考えたが家までそんなに遠くなかったので、その日は歩いて帰ることにした。三月に入ってからしばらく経つのに風は刺すように冷たく都内で朝まで待っていた方が良かったのかもしれないと後悔するくらい気温は低かった。
歩き始めてしばらく経った頃、不意に後ろから声を掛けられた。聞き覚えのある声に立ち止まって振り返ると就活セミナー後の飲み会で隣の席になった彼女が立っていた。リクルートスーツの上に羽織ったベージュのコートのボタンを留めながら彼女は僕の隣に立って歩き始めた。どこに住んでいるのか訊(き)くと僕の最寄りの二駅手前とのことだったので途中までいっしょに帰ることになった。その道すがら色々なことを話したのを覚えている。思い返せば彼女に対して僕が初めて明確な好意を持つようになったのはその頃のことだった。
「あれからもう七年も経つのね」遠い目をして彼女が呟く。
テーブルの上に置かれたガラス瓶の中で蝋燭がゆらゆらと揺れている。時折、新幹線が窓の外を走り、その車輪の音が静かに響くピアノの音と混ざり合う。テーブルの上に置かれたふたつのグラスには、まだそれぞれ半分ほどお酒が残っている。
僕らが実際に付き合い出したのは地震から一年も後のことだったが今日までの七年の歳月を考えてみるとそこにはいつも彼女がいた。
僕らの馴初(なれそ)めを思い返せばありふれたエピソードばかりで、例えば僕がバイトしていたイタリアンレストランに彼女が客として現れたり、就活帰りに立ち寄ったカフェでたまたま出会ったり、大学へ行く時に同じ電車の同じ車両に乗り合わせたり、その時彼女が手にしていた文庫本が僕が観たばかりの映画の原作だったり、偶然に偶然が重なったのだ。若かった僕はそれらの出来事をただの偶然とは考えられなかった。僕がその頃好きだったアーティストも運命は必然じゃなくて偶然でできていると歌っていたこともあって僕の中で彼女への気持ちは確実に高まっていった。
僕が働いているイタリアンレストランを彼女は知らないはずなのに、
どうしてここを選んだんだろう?それも僕がいる時間帯に。
この電車には何人乗っているんだろう?十両編成の電車は十分間隔で何本も走っているのに同じ車両の同じ時間の同じドアから乗るなんて。でも、それは偶然だとしても、その時たまたま彼女が読んでいた文庫本の映画化作品をついこのあいだ観たばかりだなんて、これはもうたまたまではないだろう。
そんな調子で度重なったいくつかの偶然を、僕はいつしか運命、そして小さな奇跡と考えるようになっていた。あの頃の僕は若くて未熟で、思い込んだらそれ以外見えなくなっていた。今の僕なら若い彼に、大きかろうと小さかろうと世界に奇跡などはなく、あるのはいくつかの偶然だけで、偶然が何度か重なると人間はそれを偶然ではなく運命とか必然だと錯覚してしまう生き物なんだよ、と忠告するだろう。それを聞いた彼、若い僕は一体どんな顔をするだろう。怒るかもしれない。それでも若い僕は彼女に想いを告げてしまうだろう。その頃には募(つの)り過ぎた想いが自分でも抑えきれないくらい重く大きくなっていたのだから。
そして、いざ告白をしようと決めてもそれまで女の子と無縁の世界で生きてきた僕は女の子への告白の仕方なんて全く知らなかった。だから映画やドラマでよく見る告白シーンを真に受けて、それを真似ようとする。映画やドラマの中にあるものは視聴者を楽しませるために様々な工夫がなされていると分かっていながらも、それを真似る以外には方法が思い浮かばないほど恋愛経験がなかった。洒落た服を着て行くとか、気の利(き)いたプレゼントを用意するとか、そういった余裕もないほど当時の僕の頭の中はどうやって想いを伝えるかでいっぱいだった。
結局、勇気を振り絞って何とか想いを伝えるも準備した言葉は彼女を前にすると一言も頭から出て来ず、しどろもどろになってしまったのだった。
「仕事はどう?」
僕は残っていたシェリーを飲み干して訊いた。
「何かトラブルでもあった?」
彼女が待ち合わせの時間に遅刻する時は決まって何かトラブルが起きた時だった。
「ええ、私の…」
俯(うつむ)き加減でそのまま何か言おうとした彼女が顔を上げ、視線が僕の視線とぶつかる。彼女は口許(くちもと)に笑みを浮かべると首を横に振った。
「何?」
「私はこうやって六年間も愚痴をあなたに言い続けてきたのね。ううん、結婚する前も入れるともっとか」
彼女は空になったグラスを見つめて呟いた。
今更気付いても遅いと思った。それでも僕は「気にしてない、気にしてなかった」と言った。
実際に僕は彼女から愚痴など聞いた覚えはなかった。仕事のことや同僚のこと、今日起こったこと、苦労したことなどを耳にしたことはあったが、それらにネガティブな響きはなかった。それは彼女が彼女の中でそれらを既に消化してしまっていたからなのだとかなり後になってから気付いた。だから、それは彼女の中でも僕の中でも日常会話という位置付けだった。
「僕には想像もつかない世界だったから話を聞いているだけでも楽しかったよ。それに何だか自分までその職業に就いているように思えたしね」
彼女は何も言わず曖昧に笑った。
仕事に貴賤(きせん)はない。しかし、僕が相手にしているものと彼女が相手にしているものとでは大きな違いがあった。小売店を相手にしている僕と一国のマーケットを相手にしている彼女とでは大きな違いがあった。後から知ったことだが彼女の所属する会社はまだ若く、社員数こそ少ないものの一人一人にある一定以上の期待がされていた。それから数年後、彼女の所属する会社は知らぬ者はいないほど大きな企業に成長していた。彼女の扱う商材は海外のある一定地域でしか採れない豆を使った上質なコーヒーを主力に日本だけでなく海外にも販路を拡大していた。本質的な貴賤はなくとも世間的な価値の違いはあって、現に彼女がひと月にもらっている対価は僕の倍以上はあった。
彼女がもし事務とか、コールセンターの受付の仕事なんかをしていて、忙しさも給与も僕と同じくらいで、映画やコンサート、観劇のチケットの半分が無駄になっていなかったとしたら、あるいは僕が作った夕食をもう少しだけ共に食べることができていたら、僕らの関係はもっと違っていただろうか。今更意味のないことだったがそんなことをぼんやりと考える。
薄紅色をした食前酒を飲み干しながら彼女は僕が考えた「もし」とは違う「もし」を考えていたらしい。
「ねえ、もし。もしも、よ」
空になったグラスをテーブルに戻して彼女は言った。
「私たちのあいだの子どもが生きていれば、こんな風にはならなかったかしら」
僕は驚いて思わず彼女に目を向けたが彼女の表情に大きな変化はなく、一瞬何気ない質問かと思った。しかし、何気ない質問という言葉で片付けられるような軽い内容ではなかった。
彼女の妊娠が分かったのは結婚して三年目のことで、当時僕らは二十七で今から三年ほど前のことだった。生まれてきた子どもは健康上の問題はなかったはずなのに一日しか生きられなかった。もし、あの時の子どもが生きていたら僕らの関係は今とは大きく違っていただろう。うまくいっているかは分からないが僕は父親で、彼女は母親になって夫婦から家族になっていただろう。
「それは分からない。あの子が生きていたら違っていたかもしれない。でも、この結果が変わらないんだったら子どもがいなくて良かったとも言える。手続きももっと大変だっただろうし」
「そうね」と言って彼女は下唇を噛んだ。
僕らの子どもは乳幼児突然死症候群で亡くなった。医師の話によると原因は現在の医療技術をもってしても解明されていない症状とのことだった。そして、少なくとも僕らの責(せめ)に帰するものではないということ。つまり僕らはただ運が悪かっただけということになる。運が悪かったという一言で片付けられるようなことではないがそれ以外に自分を納得させられるような理由は見つけられなかった。僕らはまだ二十七だったし、またできるだろうと思っていた。彼女がどう思っていたか分からないが、それから彼女は今まで以上に仕事に没頭していった。少しでも彼女の気が紛れるのなら、と僕はその仕事ぶりを歓迎した。しかし、それ以降も今までと同じように生活をしていたが僕らのあいだに子どもができることはなかった。女の彼女は、二度目はないとどこかで分かっていたのかもしれないと今になって思う。あれは最後のチャンスだったのだと。
二人のウェイターがそれぞれ赤ワインと白ワインを持ってやって来た。彼女がテーブルの上に置かれていたナプキンを膝の上に広げたので、僕もそれに倣(なら)った。赤ワインを持ったウェイターがまず彼女の前にグラスを置き、赤ワインを少し注いだ。彼女がそれを飲んで頷くとグラスに半分ほど赤ワインが注がれた。もう一人のウェイターも同じように僕のグラスに白ワインを少し注ぐ。違いなんて分からないが僕もグラスの白ワインを飲み、味を確かめてからウェイターに頷くと半分くらいグラスに注がれ、彼らは一礼をして去っていった。
ふと彼らの目に僕らはどんな風に映っているのか気になった。結婚記念日を祝う仲の良い夫婦、それともプロジェクトを成功させた会社の同僚。まさか離婚する直前だなんて想像もつかないだろう。グラスの白ワインを通して彼女の赤ワインが見える。彼女がグラスを掲げたのを見て僕もグラスを掲げた。今度は乾杯をしなかった。
「恋愛結婚のいいところはね」
そのグラスに口をつけてから、彼女が言った。
「お互いを好きだった頃の思い出があること、だって」
「誰がそんなことを?」
「母さん」
「ああ」
「昨日、実家に電話したの。久しぶりに小言を頂戴したわ。離婚のこと黙ってたから。それと…」
彼女が言い淀(よど)み、目線で僕が先を促すと軽く笑いながら言った。
「少し泣かれた」
「二人はお見合いだったっけ?」
「ええ。だから、恋愛結婚に憧れがあるらしい」
傍(はた)迷惑な話よね、と彼女は笑う。以前、彼女は母親にお見合いを勧められたことがあると言っていた。僕と付き合う前でまだ学生時代だったから断ったとのことだったが彼女にはお見合いという選択肢もあったのではないだろうか。
僕が彼女の両親に最後に会ったのは毎年恒例の新年の挨拶に伺った時だから四ヶ月前のことだ。二人はギクシャクし始めていた僕らの気配を察したのだろう。
「至らないところばかりでしょうけど、これからも娘のことをよろしくお願いしますね」
ふとした会話の中で小さく頭を下げた彼女の母親の姿を思い出した。「ああ見えて頭が硬いところがあるから苦労を掛けることがこれからもあるかもしれない、でも許してやってくれ」
お酒で少し顔を赤らめながら僕に真面目な顔をして頼んできた彼女の父親のことも思い出す。
その二人のことを思い出すたびに胸が痛んだ。善良な人たちだった。一人娘をすごく大事にしているのと同時に僕のことを息子同然に思ってくれていた。気持ちのいい人たち、場所だった。だからと言って彼女の両親のために結婚生活を続けることはできない。
「あなたのご両親は?」
「ああ、うん。少しはね。でも、別に大丈夫」
「そう、でも、あなたのお母様にはショックだったんじゃない?」
「なんで?」
「あの、その…」
「心配性だから?」と僕は彼女の言葉を代弁した。
「ええ」
確かに母には相当ショックだったみたいだが、父は、端(はな)からおめえみてえな田舎もんとあんないいとこのお嬢さんがそうそう上手くいくわきゃあないと思ってたんだ、と電話口で言っていた。そして、あんな美人にゃもう二度とモテねぇぞ、とも。
「本当にそれでいいのかよぉく考えるんだな」と言っていた父の声が離婚報告から一ヶ月経った今でもまだ頭の中に残っている。
目の前でワイングラスを見つめている彼女の顔を僕は改めて見直してみた。毎日見ていた顔なのに改めて見直すと新鮮だった。
ふっくらと膨らんだ涙袋を伴(ともな)った瞳に、高くはないがすっと通った鼻梁(びりょう)、ルージュを塗らなくても赤くて薄い唇、目を見張るほどの美人ではないが整った顔立ちをしている。ふとした仕草から垣間(かいま)見える育ちの良さも彼女の美しさを際立たせていた。
きっと今日が彼女に会える最後の日になるのだろう。
おはようも、おかえりも、おつかれさまも、もう聞けない。僕を癒してくれる笑顔も見られなくなる。彼女に関するその全てを僕は失ってしまうのだろう。
僕らが別れることに特別な理由があるわけではない。喧嘩も滅多にしないし、暴力を振るったわけでもない。借金を抱え込んだとか、ギャンブルに溺れたとか、そして、他に好きな人ができたとかでもない。ありふれた離婚の理由に僕らは当てはまらない。逆に問題がなかったことが離婚に至った一番の原因かもしれない。ただ、昔は確かにあった僕らのあいだの何かはドライフラワーのように茶色く変色して褪(あ)せてしまった。離婚の前に誰かに相談すべきだったのかもしれないが相談はできなかった。僕らのあいだに介在する離婚理由は言葉にできない。ただ、もうやっていけないという事実だけがお互いの中に芽生えていて、気付けば取り返しのつかない状態にまで育っていた。
「私の未来予想図にこんなシナリオはなかったな」
彼女が独り言のように呟いた。
「ごめん」
「ああ、いえ、ごめんなさい、そういう意味ではないの」
慌てて彼女が付け加える。
「私の勝手な思い込みだから気にしないで、それに」
「それに?」
「これは二人で決めたことだから」
僕は、僕らはどこで間違えてしまったのだろうか。初めからこうなることが分かっていればどうしただろう。
沈黙が僕らのテーブルに降りる。何か言おうと言葉を探しているとウェイターが前菜を持ってきて僕らの前に並べた。真鯛の塩漬けマリネ、ブリの炙りゆず香味、ホタテとブロッコリーのテリーヌ、とそれぞれ簡単に説明をしてからウェイターは去って行った。
「ねえ、変な意味に取らないでよ」
ナイフとフォークを手にして皿に向かいながら彼女は上目遣いに僕を見た。
「私との付き合いの中で、一番いい思い出って何?」
「一番いい思い出…」と言って僕は少し考えた。
出会いから今日までの彼女との出来事を思い返してみる。初めてのデート、告白、プロポーズ、結婚式、新婚旅行、たくさんの思い出があるが今更僕の心に響くようなものはなかった。それらは色褪せてしまった古い思い出だった。大切だとは思う。でも、そこからは何も始められない。
「咄嗟(とっさ)に言われても分からないな。君は?」
「私?」
彼女は少しだけ笑った。
「私はね、色々あるけど結婚して夫婦になって初めて同じ屋根の下で過ごした日、かな」
「同棲じゃなくて?」と僕は訊いた。
「うん、覚えてる?」
覚えてないわけではないが僕が言葉に詰まって思いを巡らせていると「覚えてないの?」と彼女が少しがっかりしたように言った。
言われて記憶を辿るが鮮明には思い出せなかった。
「ごめん。あまり詳しくは覚えてない」
彼女は寂しそうに笑って金魚が泳ぐ水槽を指で軽く叩いた。口をパクパクさせる金魚の後ろを新幹線が駆け抜けて行くのが見えた。
「同棲してた時もそれはそれで良かったけれど、結婚一日目。私たちの部屋の表札にあなたの苗字を書いたことがあったじゃない?」
「うん」
「あぁ、私たちは夫婦なんだ、って改めて実感して感動したんだけどな」
「そんなこともあったね」
僕らは結婚する前から半同棲のような形で暮らしていた。お互い住んでいる場所が近かったので時々行き来していた。だから、結婚して同じ屋根の下で暮らすようになったことに対して特別な感慨(かんがい)はなかった。それでも、二人の家に帰れば待っていてくれる人がいる、待つ人がいるというのは嬉しいものだった。朝起きればおはようと言い、帰宅したらおかえりとおつかれさまを言い合い、夜寝る時にはおやすみと言う。休みが重なればいっしょに買い物に行ったり、家で映画を観たりして過ごす。彼女の言う結婚して夫婦になって初めて同じ屋根の下で過ごした日について僕はぼんやりとしか思い出せないが、なんてことのないその日常は確かに幸福そのものだった。
思い返せば朝ご飯をお米にするか、パンにするかで小さな喧嘩をしたこともあった。最初は話し合いの結果、お米とパンを週替わりで食べることになったのだが彼女は無類のパン好きで、その頃は休日の度に色々なパン屋さんに連れて行かれた。僕は色々なパンを食べるうちにパンの本当のおいしさを知って朝ご飯はパンになったのだった。他にも彼女は僕よりも色々なことを知っていて、彼女は好きだったが僕にとっては退屈でしかなかった美術館の楽しみ方やオススメの古い映画の見どころなどを教えてくれたりもした。彼女と過ごすことによって僕の世界は格段に広がった。
しかし、ある時いつも僕ばかりが彼女から色々なものを教えてもらって、僕は彼女に何ひとつ返せていないことに気が付いた。そのことについて申し訳なく思っていると言ったら、こんな返事が返ってきた。
「私はあなたに私の好きなものや好きなことをたくさん知ってもらいたいの、それに対してあなたは申し訳なく思う必要はない。結婚はギブアンドテイクじゃないのよ」
その言葉に僕はハッとした。
「それに私が好きなもの、好きなことをあなたはどう感じるか私は知りたいの」
そこまで言って嬉しそうに笑う彼女を見て、この人と結婚して本当に良かった、とその時は思った。でも、今の僕にあの頃のような瑞々(みずみず)しい気持ちは残っていなかったし取り戻せるとも思わない。
今更訊けないが彼女はどう思っているんだろう。
「どうしたの?」と訊いてくる彼女に僕は、何でもない、と曖昧に答えた。
僕らの前にメイン料理が運ばれてきた。
彼女の前にほろほろ鳥のソテーが、僕の前には白身魚のポワレが置かれた。
「おいしい」
ソースのかかったほろほろ鳥を一口食べて彼女は言った。
「こんな時でもおいしいものはおいしいのね」
僕も白身魚を口に運ぶ。
「こっちもおいしい」と僕は言った。
「そう?」
「うん」
以前の僕らなら、そこでお互いの料理を一口ずつでも交換したのだろうが、今の僕らはそうしなかった。僕らはしばらく黙ってそれぞれの料理を食べた。ワインを持ってきてくれたウェイターが再びやってきて白ワインをグラスに注いでくれた。
ふと、グラスを持つ自分の薬指にまだ指輪がはめられていることに気が付いた。長年の癖はなかなか抜けない。彼女のナイフを持つ左手の薬指にも同じ指輪が光っていた。僕はそれをいつ外すのだろう、彼女はそれをいつ外すのだろう。今夜か明日か、それとも食事が終わった後だろうか。あるいはお店を出てお別れを言った後だろうか。
「それで、これからどうするの?」
あらかた料理を食べ終えて彼女がそう訊いた。
「これから?」
「一人暮らしには少し広いでしょ?あの部屋」
ひと月前に彼女が部屋を出て行ってから僕は一人で暮らしていた。彼女の私物が減った部屋は殺風景で広かった。その部屋は元々二人で住むために借りたものだったので一人になると家賃の負担や空いたスペースのことを考えると引っ越した方がいいと思っていた。
「引っ越そうと思って新しい部屋を探しているところ」
「どこら辺に住むの?会社の近く?」
「できれば会社の近くがいいけど…」
「会社は表参道だっけ?」
「うん、でも表参道の近くには住めないな」
「どうして?」
「僕の給料じゃ払える家賃は限られているし、どこでもって訳にはいかないよ。実際問題」と僕は笑った。
僕の言葉は別に卑下(ひげ)したわけではないが彼女との給料の差を暗に言っているように気まずく響いてしまった。僕らのあいだに落ちた沈黙と共にピアノの演奏も止まった。ふと下階に目を向けると曲を弾き終えたピアニストが立ち上がって軽くお辞儀をしていた。最後の曲だったらしく腕時計を見ると短い針は十に近い九と十のあいだに、長い針は先端が八の上にあった。レストランのあちらこちらからまばらに拍手が起こりピアニストはもう一度お辞儀をした。僕らも細(ささ)やかな拍手を送った。
「上司からね」
ピアニストが去ると彼女がごくさり気ない口調で言った。
「海外転勤しないか、って言われているの」
「え?」
僕は驚いて訊き返した。
「ちょうどいい機会だし、その話を受けようと思ってる」
「場所は?」
「ローマかパレルモ、どちらもイタリアよ」
「希望が叶ったってわけだ」
「うん、遠く離れちゃうわね」彼女は少し俯いて言った。
「君だったらきっと、どこででもやれるよ」
「知ってる」と彼女は顔を上げて笑った。
僕はその笑顔に微笑み返すことしかできなかった。
彼女はいったいどんな思いで僕との生活を続けてきたのだろう。学生の頃から彼女が海外で働きたいと言っていたことを僕は知っていた。それでも彼女は僕との結婚を選び、それは日本に留まることと同義だった。
「来ないかって言ってくれる会社もいくつかあったの…」
そこで彼女は一度口を閉じた。
「何かあった?」
「何もないよ」と彼女は言った。
愚問(ぐもん)だった。例え何かがあっても彼女が僕に言うはずはなかった。彼女はどんな言葉をどれだけその胸に溜め込んできたのだろう。
次にもし誰かと結婚をするのなら、僕みたいに不器用で気の利かない奴じゃなく、もっと器用で君の中に溜まった言葉を君が自らひとつ残らず言えるような相手を選んだ方がいい。
「頑張って」と僕は色々な意味を込めて彼女にエールを送った。
「うん。ありがとう」
ウェイターがやってくるのと同時に僕は彼女に断って席を立った。
今、虚空をぼんやりと眺める彼女に結婚する前の七年前の記憶に残る彼女を重ねてみる。
あれはまだ僕が就活をしていた頃、夏もそろそろ終わりに差し掛かっていて僕は内定をもらっていない残念な就活生の一人だった。その頃はそんな就活生のためのイベントが連日開催されていてその日も僕はイベントに参加していた。そこにはリクルートスーツを身に纏(まと)った僕のような学生がたくさんいて内心ホッとしながらも終わりの見えない就活に恐怖を感じていた。
企業ブースは就職合同説明会と同じように学生がたくさん押し寄せていて説明を聞くのも一苦労だった。イベントには学生だけでなく「視察」と言った感じの採用担当者らしき人も来ていて、その傍らには既に内定を取り終えたと思しき学生がいた。そんな素振りはなくとも既に希望企業から内定をもらっているという自信からか彼らはまだ内定の無い憐れな僕らを見下しているように感じられた。確かに時期も時期だったので僕の置かれている状況は悪く、もう就職先を選んではいられなかった。手当たり次第というと聞こえは悪いが、目に付いた企業のブースは説明だけでも聞くようにした。IT関係の企業が多かったが大企業もいくつか出展していた。
あらかたブースを回り終えるとそろそろ閉会の時間が近かった。帰ろうかと思って出口に向かい会場内を歩いていると見覚えのある企業のロゴが目に付いた。その企業のブースは閉会間近なのに人だかりができていてニ十席ほどの座席は全て埋まり立ち見の学生が三十人以上はいた。立ち見の学生たちの最後尾からブースの中を覗くと丁度企業の説明が始まったところだった。三十代で中堅と言った男性社員が、本日説明をするのは君たちと同じ年齢の内定者です、と言って若いリクルートスーツを着た女性を紹介した。あまり目の良くない僕にはその女性の顔がはっきり見えなかったが声で彼女だとすぐに分かった。将来を嘱望されている有能な若手社員と言ったその姿に僕は愕然とした。説明の内容もまだ入社していない内定者とは思えないほど上手く、分かりやすく、ベテラン社員と比べても遜色(そんしょく)はなかった。彼女の声を聞いているうちに僕は、僕の眺めるその人が全然知らない人であるかのような錯覚を覚えた。聡明そうで、あんなに溌溂としていて綺麗な女性が、だって僕の恋人であるはずがなかった。到底そうは思えなかった。それ以上眺めていると錯覚が現実に取って代わってしまいそうで僕はそそくさとその場を離れた。
僕が彼女にプロポーズしたのは、それからすぐのことだった。大きくはないが中堅のIT企業から内定をもらったことが表向きのプロポーズの理由だったが、僕は言い知れぬ不安に襲われていた。このままだと彼女は、遠く離れた存在になってしまう、と。実際僕とのデート中にもたまに彼女の内定先から彼女に電話が掛かってくることがあって、僕に断ってからその着信に応答する彼女は時々相槌をうちながら熱心にメモを取っていた。その姿は就活のイベントで見た、いかにも将来を嘱望されている有能な若手社員、だった。彼女を繋ぎとめるために僕は結婚を申し込んだ。断られるかもしれない、断られて当然かもしれないと思った。それでも彼女は僕からのプロポーズに頷いてくれた。考えてみれば、あの時彼女は間違ってしまったのではないだろうか。僕と過ごした六年間がどういう形であろうと、結局僕らはこうなっていたのではないだろうか。結婚という形式に彼女を縛ることによって僕は不安を拭い去ろうとしたのかもしれない。
今、綺麗に片付いたテーブルの上をぼんやりと眺める彼女にかつての聡明で溌溂としていた頃の印象はない。
「ごめん」と言って僕は席に戻った。
「ううん」と彼女は首を横に振った。
デザートがやってきて、もう話すべきことも浮かばなかったのだろう。食べながら彼女は当たり障(さわ)りのない話をした。好きだった小説の映画の主演がイメージと全く違ったこと、会社に行く途中に見かけた猫のこと、そろそろスマートフォンを変えようと思っていること。
彼女の話す他愛のない話を聞いているあいだに何組かの客が席を立ってお店を出て行った。腕時計の短い針は十と十一のあいだを指し、長い針は六を指していた。会話が途切れた時にはもう僕らしか客はいなかった。下階ではウェイターが銀器を片付けている。金魚も水槽の底のほうでじっとしている。僕らの前の皿からデザートはとっくになくなり、僕のカップにも彼女のカップにもコーヒーは残っていなかった。
彼女といるのはもう何分もないだろう。そう思っていると彼女が口を開いた。
「あなたの連絡先を消そうと思うの」
僕はその言葉の意味を取りかねてすぐに反応できなかった。
彼女が取り繕うように「いつもの癖で電話しちゃうと、ほら、気まずいでしょ」と慌てて付け加えた。
「うん、それがいい」と僕は頷いた。
「SNSでは繋がっているからお互い何をしているかくらいは分かるでしょ」
「それもそうだね、じゃあ…」
僕は自分のスマートフォンを取り出しロックを解除して彼女に差し出した。彼女は一瞬驚いたような顔をしたが、彼女も自身のスマートフォンを取り出して同じようにロックを解除し、僕に差し出した。そのスマートフォンには僕がプレゼントしたピンクゴールドのプラスチックケースがまだ取り付けられていた。傷だらけで角が欠けていたが大事にされていたことはよく分かった。
「じゃあ」と彼女が言って「うん」と僕は頷いた。
数秒の後スマートフォンを返して僕は考えた。もう言うべきことはひとつもないように思えたし、何もかも言い忘れているような気もした。彼女も同じように色々と考えているようだった。キャンドルの炎が揺れるのを見つめている彼女が小さく頷いたのを僕は見逃さなかった。もう整理がついたのだろう。だったら僕がここでぐずぐずしているわけにはいかない。
「そろそろ、行こうか」
僕は自ら最後の言葉を言うと彼女が顔を上げた。
カードで会計を済ませて僕らは席を立った。下階に降りて出口に向かうと来た時と同じ黒いスーツを着た初老の男性が僕らに一礼をした。僕は彼女を先に通し続いて外に出る。
いつもと変わらない金曜日の夜の丸の内がそこには広がっていた。僕は忘れないように目を閉じて目の前の光景を瞼の裏に焼き付けた。
「三日月が出てる」
彼女の声に目を開けると彼女が僕を振り返った。そして、僕に向かって左手を差し出す。
「ありがとう」と言って僕は彼女の冷たい手を握り、彼女の手は昔から冷たかったことを思い出した。握手をしたその一瞬、正体の分からない違和感が僕を襲った。
「こちらこそ、ありがとう」と言って彼女は笑った。
「じゃあね」と言って彼女が手を放した。
彼女が駅とは逆方向に歩き出す。その背を少しのあいだ眺めてから口の中で小さく、さよなら、と呟いた。
全てが終わってこれで良かったはずなのに何故かすっきりしない。ICカードを手に改札を抜けると同時にスマートフォンが突然鳴り出した。慌ててカバンの中に右手を突っ込んでスマートフォンを探る。ディスプレイを見るとさっきと同じ番号、お店からの着信だった。
「お客様指輪をお忘れです」
「指輪、ですか?」と言って僕は自分の左手を見ると薬指には結婚指輪がまだしっかりとはまっていた。
「お預かりしましょうか?」と言うお店の人の声を聞きながらさっきの違和感を思い出し、その正体に気付いた。彼女と握手した時の違和感。指輪がなかったのだ。電話の向こうに、すぐ取りに戻ります、とだけ言って僕は急いでお店まで戻る。
初老の男性が差し出した指輪を受け取り、ありがとうございます、と言ってスマートフォンで彼女の電話番号を検索するが見つからない。さっき消したのを思い出し舌打ちをする。
そうか、そういうことだったのか、と彼女が意図的に指輪を残していった意味にようやく気付いて彼女が歩いて行った方向を見つめる。当然だが彼女の姿は既になかった。
僕は六年間も何をしていたのだろうと思った。いや、結婚する前も合わせればもっと長い時間を共に過ごしながら僕は何をしていたのだろう。ここで追わなければもう二度と彼女には会えないという強い確信があった。
目の前の赤信号が青に変わり、僕は夜の街へ向けて走り出す。まだ見ぬ先の時間の中に僕はもう一度奇跡を見つけられるだろうか。
夜空には三日月が輝いていた。
おわり
「僕らのカタチ」by YOU KITAZONO @Talkstand_bungeibu
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